新発田市

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新発田市
しばたし
日章旗 日本
地方 中部地方北陸地方
甲信越地方
都道府県 新潟県
団体コード 15206-4
面積 532.82km²
総人口 102,391
推計人口、2009年5月1日)
人口密度 192人/km²
隣接自治体 新潟市阿賀野市胎内市
聖籠町阿賀町福島県喜多方市
山形県小国町
市の木 サクラ
市の花 アヤメ
市のシンボル 新発田城
新発田市役所
所在地 〒957-8686 新潟県
新発田市中央町4丁目10-4
電話番号 0254-22-3101
外部リンク 新発田市

新発田市位置図(新潟県)

:政令指定都市 / :市 / :町・村
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新発田市(しばたし)は、新潟県下越地方にあるである。

目次

[編集] 概要

新発田市は越後平野の北部に位置する、新潟県北部の中核都市である。市北西部には日本海に面した白砂浜海岸が広がり、東部には飯豊山二王子岳などの山々がそびえ、街からその姿を望むことができる。またこの地では加治川などを水源とした水田が広がっており、県下有数の良質なコシヒカリ)の産地としても知られる。 新発田藩城下町として栄えた市街地は新発田城を代表とする歴史的建築物が多数あり、今も城下町当時の区割りや道、新発田川などの水路がかつての姿をとどめている。明治から戦前にかけては軍都として、戦後は県北部の商業都市として発展した。その昭和の頃の面影を色濃く残す旧公設鮮魚市場や各商店街といった建物や街並みも多く残り、風情ある街にもなっている。 こうした歴史を背景に、新発田の市民は平成16年(2004年)の新発田城三階櫓・辰巳櫓の復元をはじめとする街の景観保存維持に対する関心が非常に高く、市民自ら熱心に取り組んでいる。

[編集] 地理

市のシンボル・新発田城(二の丸隅櫓)

[編集] 隣接している自治体

[編集] 歴史

新発田城(辰巳櫓)

阿賀野川信濃川の流域に拓けたこの地域は、中世には佐々木氏の傍系・新発田氏が領し、この地を流れる新発田川の流域にその水運を生かして城が築かれた。

1597年、豊臣家の家臣であった溝口秀勝が6万石の所領を得てこの地に移封され、以後幕末まで新発田藩は溝口氏の城下町として発展していくことになる。城下では武家町・町人町・寺町などの特徴的な町が形成され、また周辺地域では新田開発によって低湿地の耕地化が進められた。

明治の廃藩置県で新発田県が設置されたが、まもなく新潟県に編入。1878年郡区町村編制法で阿賀野川以北の地域(阿賀北地域)一帯が北蒲原郡とされると、その郡役所が新発田本村に置かれ、新発田は阿賀北地域の中心地として発展していった。1873年に廃城となった新発田城の跡地には陸軍歩兵第16連隊が置かれ、以降、明治から終戦までこの町は軍隊の町としての性格を強めた(これは戦後も陸上自衛隊新発田駐屯地として残り、現在に至っている。)。

市制が施行され「新発田市」となったのは、第2次世界大戦後、1947年のことである。

  • 1889年4月:町村制により新発田本村と新発田町が誕生
  • 1901年11月:新発田本村と新発田町が合併し、新発田町が発足
  • 1940年8月:鴻沼村を編入
  • 1943年5月:猿橋村を編入
  • 1947年1月1日北蒲原郡新発田町が市制を施行、新発田市となる(県内では新潟市長岡市高田市三条市柏崎市についで6番目)
  • 1955年3月:北蒲原郡五十公野村、川東村、菅谷村、松浦村、米倉村、赤谷村を編入
  • 1956年3月:北蒲原郡加治川村の一部を編入
  • 1959年4月:北蒲原郡佐々木村を編入
  • 2003年7月7日:北蒲原郡豊浦町を編入。人口が9万人を超え、一時期県下4番目に人口の多い自治体となる(これ以前は柏崎市三条市についで6番目)。
  • 2005年5月1日:北蒲原郡紫雲寺町加治川村を編入。人口が10万人を超える。ただし人口規模では同日に新設合併を行った三条市に次いで県下第5位となる。(その後再び抜き返し、現在は4位となっている)

[編集] 人口

新発田市と全国の年齢別人口分布図(比較) 新発田市の年齢・男女別人口分布図
紫色は新発田市
緑色は日本全国
青色は男性
赤色は女性
1980年 102,134人
1985年 103,552人
1990年 104,499人
1995年 106,563人
2000年 106,016人
2005年 104,634人
総務省統計局 / 国勢調査2005年

現在の推計人口は以下のサイトを参照。 http://www.pref.niigata.jp/soumu/tokei/data/jinkou.html

[編集] 行政

[編集] 市長

  • 片山吉忠(1998年12月1日)

・1932年生まれ

・新潟県立新発田高等学校卒業

・明治大学政治経済学部卒業

・元新発田商工会議所 会頭

[編集] 経済

[編集] 産業

周辺一帯では、越後平野稲作を中心とした農業地帯が広がっている。こうしたことを背景として、産業面でも食品関連産業や酒造会社などが目につく。また、城下町茶道が盛行された伝統もあってか、和菓子業も多い。(新発田の茶道と和菓子について)

冬季間の農家の女性のための働き口と、同市出身者大倉喜八郎大倉財閥の大倉製糸新発田工場があったこともあり繊維業・特に縫製工場が多く点在していたが、海外への仕事の流出などにより、近年では数が減ってきている。

[編集] 市内の主な企業

[編集] 漁業

  • 松塚漁港

[編集] 姉妹都市・提携都市

[編集] 国内

・加賀大聖寺城主(4万4千石)、溝口秀勝は豊臣秀吉による天下平定後には1583年秀吉の家臣であった溝口秀勝が越後新発田(6万6千石)に配置移封が縁で交流をしております。


・江戸時代に信州、須坂市米子出身の竹前権兵衛とその弟小八郎が紫雲寺潟の干拓工事にあたったことから、昭和60年6月16日に当時の紫雲寺町と姉妹都市提携を結びました。平成17年5月1日に紫雲寺町が新発田市に編入した後も、両市にある米子(よなこ・よねこ)町をはじめ全市的な交流が活発に続いています。

[編集] 海外

[編集] 地域

JR新発田駅新潟近郊区間内に含まれており、また国道新新バイパス-新潟バイパス-新潟西バイパスを通じて新潟市中心部と結ばれているため、新潟市のベットタウンとしての機能の高まりから、近年開発が進み大型店の出店などが相次いでいる。一方で、全国の他市町村と同様に、中心商店街の衰退が大きな問題となっている。そのため、県立新発田病院を2006年11月に駅前の大倉製糸新発田工場跡に移転したが、どこまで効果があるのか推移を見守る。

[編集] 健康

[編集] 病院

  • 新潟県立新発田病院

[編集] 教育

[編集] 大学

[編集] 高等学校


[編集] 中学校


[編集] 小学校

  • 外ヶ輪小学校
  • 猿橋小学校
  • 五十公野小学校
  • 御免町小学校
  • 佐々木小学校
  • 七葉小学校
  • 車野小学校
  • 住吉小学校
  • 松浦小学校
  • 菅谷小学校
  • 赤谷小学校
  • 川東小学校
  • 竹俣小学校
  • 東豊小学校
  • 二葉小学校
  • 米倉小学校
  • 荒橋小学校
  • 中浦小学校
  • 天王小学校
  • 本田小学校
  • 紫雲寺小学校
  • 藤塚小学校
  • 米子小学校
  • 加治川小学校


[編集] 特別支援学校

  • 新潟県立村上養護学校いじみの分校

[編集] スポーツ

[編集] スポーツ施設

[編集] 河川施設

[編集] 交通

[編集] 鉄道路線

在来線

中心駅の新発田駅は、JR羽越本線と白新線が合流する駅。市内には7つの駅がある。また、かつては国鉄赤谷線が新発田駅~東赤谷駅間を結んでいたが、1984年に全線廃止となっている。

[編集] 道路

高速道路
一般国道
道の駅
バス

[編集] 名所・旧跡・観光スポット


[編集] 祭事・催事

[編集] 新発田市を舞台にした作品

小説
映画

[編集] 出身有名人

[編集] 新発田ゆかりの人物

[編集] 新発田の名物

[編集] 市町村合併

2003年7月7日北蒲原郡豊浦町を、2005年5月1日、北蒲原郡紫雲寺町加治川村をそれぞれ編入合併した。合併後の面積は532.82km²、総人口は106,834人(2003年7月31日住民基本台帳より)となった。平成の大合併以前は県内で同規模の都市である柏崎市や三条市より遅い市制施行ということもあり後塵を拝しており、人口が県下第6位であったが、合併によって人口が柏崎市を越して県下第5位の人口を擁することとなった。

[編集] その他

戦前は「新発田」を略して「芝田」と書く慣例があり、当時は新聞報道などでも「芝田」という記述が罷り通っていた。その名残から、現在も年配者の間では「芝田」と略して記述する向きが多く、一例として新発田駅を「芝田駅」、新発田高校を「芝高」、新発田農高を「芝農」などと記すケースがままある(現在でも目にできる例として、新津駅近くにある「新津市鉄道資料館」の赤谷線コーナーに「赤谷線鉄道唱歌」の歌詞が展示されているがその中に「汽笛一声芝田駅 はや我が汽車は離れたり」と書かれている)。

新聞・テレビなど県内の各メディアも1980年代半ばまではこの慣例に倣っていたものの(特に「芝農」は、同校がスポーツ等で実績を挙げていたことから多用されていた)、地元住民などから「本来の地名には存在しない字を使って、地名を略して記すのは如何なものか」と疑問が寄せられるなどしたため、こうした記述は徐々に淘汰されていった。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク