大泉寺 (甲府市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
大泉寺
Daisenji.jpg
総門
所在地 山梨県甲府市古府中町5015
位置 北緯35度40分37.2秒
東経138度34分51.04秒
山号 万年山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 大永元年(1521年
開基 武田信虎
札所等 甲斐百八霊場第五十九番
文化財 絹本着色武田信虎像、絹本墨画松梅図(国の重要文化財)
大泉寺文書20点、金銅金具装笈2基(県文化財)
武田信虎墓(県史跡)
テンプレートを表示

大泉寺(だいせんじ)は、山梨県甲府市古府中町にある曹洞宗寺院。山号は万年山。本尊は釈迦如来

甲府駅より北川の周囲を山に囲まれた相川扇状地の開口部に広がる市北部のうち、東側に突出した愛宕山から北へ続く大笠山西麓部に位置。甲府の南北基幹街路のひとつである大泉寺小路に沿い、西には濁川支流の藤川が流れる。

[編集] 沿革

甲斐国守護の武田信虎は家督相続後に国内統一を進め、永正16年(1519年)には本拠を石和から甲府へ移し、居館の躑躅ヶ崎館を中心に家臣を集住させ城下町整備を進めていた。境内にある富士見池(大泉)に甲斐国繁栄の様子が映ったという伝承を持つ(『甲州巡見記』)。大永年間に巨摩郡島上条(甲斐市、旧北巨摩郡双葉町)に創建され、後に古府中へ移転される。もとは密教寺院の大川寺であったが、大永元年(1521年)に信虎は嫡男(武田信玄)誕生の際に霊夢を見て改宗・改称させたとする信玄誕生説話がある(『甲斐国志』に拠る)。開山の天桂禅長は真翁宗見の法嗣で、武田一門と結び甲斐国における最大門派となった雲岫派の法系。信虎期から晴信期にかけて中山光厳院や信濃国岩村田の龍雲寺ととのに甲斐国領国内の曹洞宗寺院を統括する僧録所となり、信虎の弟である2世住職吸江英心ら武田一族からも住職を務めている。

父信虎を追放して国主となった晴信時代にも保護を受け、寺領の寄進を受けている。永禄7年(1564年)3月の火災では堂宇が焼失し、再建されている(『国志』)。武田信玄の長女(黄梅院)は相模国北条氏政の室として嫁いだが、甲斐国との同盟関係悪化のため甲斐へ送還され、永禄12年(1568年)に死去した。黄梅院には巨摩郡南古郷(南アルプス市、旧中巨摩郡甲西町)の地が知行として与えられており、元亀3年(1572年)には巨摩郡竜地(甲斐市、旧双葉町)に菩提寺である黄梅院が建立されており、大泉寺の子院となっている。

天正2年(1574年)には武田信虎が流寓していた信濃国高遠で死去し、同国岩村田(長野県佐久市)の竜雲寺から大禅師北高全祝が招かれて信虎の葬儀を執り行っている。葬儀に際しては、信虎3男の武田信廉(信綱、逍遙軒)の描いた武田信虎画像が奉納されている。武田勝頼時代にも寺領安堵を受け禁制を下されている。天正6年(1578年)には曹洞宗法度を制定しており、竜雲寺とともに信玄時代に信濃へと拡大した武田氏領国内の曹洞宗寺院を統括していた。

武田氏滅亡後も徳川氏から豊富系大名には寺領を安堵され国内曹洞宗寺院の管轄も続いたが、江戸時代には寺領は削減された。甲府藩主柳沢吉里の大和郡山転封の際に岩窪(甲府市岩窪町)の永慶寺から仏殿が移築されているが、後に焼失している。

[編集] 文化財

重要文化財(国指定)
  • 絹本着色武田信虎像
信虎三男の信廉により描かれた開祖信虎の肖像で、直接対面して描かれたものであると考えられている。深緑の内衣に白小袖、黒染の法衣をまとっている。剃髪し法体となった晩年の姿が描かれている。中世的な肖像画と異なり画中における信虎の姿が大きく描かれており、同じく法体姿の武家の肖像画として、大友宗麟北条早雲の肖像と比較される。画中には長禅寺住職の賛文が寄せられているが、同じく信廉の筆で長禅寺に奉納されている大井夫人(信虎正室で信廉の母)の肖像には大泉寺住職の賛文が寄せられており、両寺の交流が窺える。
  • 絹本墨画松梅図
元代の文人画家呉太素の作。
山梨県指定文化財
  • 大泉寺文書 20点
  • 金銅金具装笈(おい) 2基
山梨県指定史跡
  • 武田信虎墓

[編集] 関連項目

大泉寺:その他の同名寺院。

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス