斎藤義龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
斎藤義龍
Saitō Yoshitatsu.jpg
斎藤義龍像(常在寺蔵)
時代 戦国時代
生誕 大永7年6月10日1527年7月8日
死没 永禄4年5月11日1561年6月23日
改名 豊太丸(幼名)、斎藤義龍、范可(号)
別名 新九郎(通称)、利尚、
高政、一色左京大夫
戒名 雲峯玄龍居士
墓所 岐阜県岐阜市常在寺
官位 治部大輔左京大夫美濃守
幕府 室町幕府相伴衆
主君 足利義輝
氏族 斎藤氏
父母 父:斎藤道三、母:深芳野[1]
兄弟 義龍孫四郎喜平次利堯利治
(長龍)、帰蝶織田信長正室)、女子
斎藤利三正室)、女子(姉小路頼綱
正室)、女子(土岐頼純室)、女子(
葉貞通
正室)、義兄弟:正義
正室:近江の方浅井久政の養女で亮政の娘[2]
龍興

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代武将美濃国戦国大名斎藤氏の第2代当主。室町幕府相伴衆

目次

[編集] 生涯

大永7年(1527年)7月8日、初代当主・斎藤道三(秀龍)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。

天文23年(1554年)、道三が隠居したため、家督を継いで稲葉山城主となる[3]が、道三は義龍を忌み嫌い、次第に弟の孫四郎や喜平次らを寵愛するようになる。さらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとしたことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。

弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して、道三を追放し、道三が寵愛する弟の孫四郎・喜平次らを日根野弘就に殺害させた。弘治2年(1556年)、長良川に道三と対戦、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した。

その後は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、土岐氏時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての斎藤氏の基礎を築いた。後に剃髪して玄龍と号している。

永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、永禄2年(1559年)には幕府相伴衆に列せられた。南近江の六角義賢と同盟を結び、北近江浅井久政と戦い、勢力拡大を目指したが、尾張国の織田信長の侵攻が激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大には結果的に失敗した。

永禄4年(1561年)、左京大夫に任じられるが、同年の5月11日に急死した。享年35。後を子の龍興が継いだ。

[編集] 人物・逸話

  • 実父は道三ではなく土岐頼芸であるとの説がある。母・深芳野は道三の側室となったときにはすでに頼芸の子を懐妊していたという。ただし、信憑性に乏しく、後年の創作とも云われている[4]
  • 義龍は父殺しの汚名を避けるためか、足利氏の一門である一色氏を称して、一色左京大夫と名乗った。義龍の母・深芳野の父が一色義清であるとも言われる。義龍方についた土岐氏旧臣である桑原・安藤・日根野・竹腰らは、それぞれ一色家臣ゆかりの氏家・伊賀・延永・成吉に改名したという説もあるが、斎藤家家臣の改姓時期は義龍没後の永禄4年(1561年)である。道三の実子ではないという噂を逆手に取り、父殺しの汚名を避ける大義名分を得て、旧土岐家臣2万を自らの旗本に結集させる事に成功したのである[5]
  • 義龍は道三から「無能」と評されていたが、戦国大名としての器量は充分に備えていた。長良川の合戦で、道三は義龍の卓越した戦略、戦術を目の当たりにし、自身の評価が誤りであったことを認めたという。
  • 永禄2年(1559年)に織田信長が僅かな供を連れて上洛した際には、道中に火縄銃で装備した手勢を派遣して、暗殺を謀っている。結局は失敗するものの、これは記録に残る日本初の狙撃である。
  • 身長は六尺五寸(約197cm)といわれ、非常に大男であったとされている。また、持病を患っていてその持病が原因で亡くなったといわれている(一説にはハンセン病とも)。
  • 「范可(はんか)」という別名を持っていた。『信長公記』によれば、「范可」とは中国・の時代に止むを得ない事情により父親を殺した人物であり、義龍は道三を殺して以来この名前を使うようになったという[6]
  • 父・道三のような独断専行政治ではなく、義龍は「宿老」と呼ばれる重臣の意見を取り入れる合議制を設け、家臣団の不満を解消したという。
  • 近年、勝俣鎮夫は道三から義龍への継承、道三の戦死までの経緯に関して、従来の説を批判している。道三の美濃国内における発給文書の少なさを指摘して、義龍の家督継承は国内政治を省みない道三の施策を批判した重臣によって行われた強制的な当主交代であり、翌年の長良川の戦いは追放された道三が家督奪還を目指して兵を挙げたものであるとする見解をしている。

[編集] 菩提寺

岐阜市常在寺菩提寺とし、この寺には国の重要文化財に指定されている斎藤義龍肖像画が所蔵されている。

[編集] 系譜

[編集] 脚注

  1. ^ 一説に一色義清の娘、または稲葉良通の妹といわれるが、定かではない。
  2. ^ 一説に浅井久政の娘ともいわれるが、『系図纂要』には浅井亮政の娘(久政の妹で養女)と記載されているため、後者の説が有力とされる。
  3. ^ 天文17年(1548年)相続説もある。また、隠居は父道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。
  4. ^ 当時でも義龍の父親は道三だと認めている第三者の手紙(六角義賢が1560年、家臣に宛てた書状『六角承禎状書』による)がある。
  5. ^ ただし、一連の行動を義龍ではなく旧土岐家臣が主導したとする異説も存在する。
  6. ^ ただし、「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない。また、義龍が「范可」を名乗るのは、実際には道三を殺す以前の弘治元年(1555年)11月からである。

[編集] 関連作品

テレビドラマ

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語