法華経寺
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| 法華経寺 | |
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五重塔 (重要文化財、撮影:2006年3月) |
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| 所在地 | 千葉県市川市中山二丁目10番1号 |
| 位置 | 北緯35度43分15.42秒 東経139度56分56.61秒 |
| 山号 | 正中山 |
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 寺格 | 大本山(霊蹟寺院) |
| 本尊 | 高祖日蓮大聖人、鬼子母神 |
| 創建年 | 文応元年(1260年) |
| 開基 | 常修院日常 |
| 別称 | 中山法華経寺 |
| 札所等 | 日蓮聖人霊跡 |
| 文化財 | 観心本尊抄/日蓮筆・立正安国論/日蓮筆(国宝) 五重塔、絹本着色十六羅漢像ほか(重要文化財) |
ウオッちず Google Map 中山法華経寺
法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれる。山号は正中山。
目次 |
[編集] 由緒
日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、下総千葉氏の家臣であった富木常忍と太田乗明はこれを自分達の所領のある八幡荘に暖かく迎えた。富木は日蓮のために所領の若宮に寺を造営(法花寺(法華寺とも))し、隣の中山の領主であった太田も自家の持仏堂を寄進した(本妙寺)。特に富木は千葉氏の文吏としても活動していたために日蓮に紙筆を提供し、その執筆を助けた。日蓮の遺文が同寺に多く遺されているのはその縁であると言われている。日蓮死後に富木は出家して法花寺初代住持・常修院日常となった。後に八幡荘を支配した千葉胤貞(九州千葉氏の祖)の帰依を受け、猶子の日祐を3代目住持として本妙寺・法花寺両方の住持を兼ねた。だが、折りしも千葉氏が分裂して胤貞系は下総から駆逐されて肥前国へと追いやられる事になる。だが、日祐は室町幕府との関係を強めてこの危機を乗り切り、後にここを拠点とする中山門流が成立する事になった。以後、代々の住持は本妙寺と法花寺両方の住持を兼務する慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られて、この時に初めて法花・本妙両寺を合わせた呼称として「法華経寺」という寺名が誕生したとされている。以後、両寺は事実上統合され、「法華経寺」という一つの寺院として認識されるようになっていった。
[編集] 沿革
[編集] 人物
- 現住は145世新井日湛伝主(足立区国土安穏寺より晋山,達師法縁)
[編集] 山内寺院・塔頭
- 池本寺
- 智泉院
- 陽雲寺
- 大覚山本妙寺(根切の祖師)
- 遠寿院- 荒行堂のある遠寿院流祈祷の根本道場。一時期日蓮宗公認の行堂であったが現在は「根本御祈祷系授的伝加行所」を名乗っている。
- 本光寺
- 護国山安世院- 四院家
- 高見寺
- 蓮行寺
- 玄妙山本行院(什師屋敷)- 四院家
- 清水寺
- 永昌山浄鏡寺
- 浄光院- 四院家
- 法宣院- 四院家
- 本覚山日英寺
- 奥之院
- 東照山妙円寺- 黒門の外にあり法華経寺貫首晋山の際、休息場所となる。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 観心本尊抄 日蓮筆
- 立正安国論 日蓮筆
[編集] 重要文化財
- 五重塔
- 祖師堂 以前は三層錣屋根入母屋形式であったが現在は建造時の形状とされる比翼入母屋形式に復元されている(柿葺き)。(尚、創建時から入母屋形式であったのではないか、という意見もある。)
- 法華堂
- 四足門
- 絹本着色十六羅漢像
- 日蓮筆遺文 56巻、4冊、1帖、3幅
[編集] 市川市指定文化財
- 黒門 1棟(有形文化財)
- 本阿弥家分骨墓 3基(有形文化財)
- 光悦筆扁額 3面(有形文化財)
- 本阿弥光悦分骨墓 法華経寺 1基(有形文化財)
[編集] その他
- 聖教殿:設計伊東忠太
[編集] 交通
[編集] 特筆
- 日蓮の安らぎの地であり、説法の地でもある。鬼子母神の信仰厚く、子育安産、病気平癒の祈祷、社運隆盛のための参詣の人も多く訪れる。
- 日蓮宗の祈祷根本道場で11月1日から2月10日まで寒百日大荒行(世界三大荒行の一つと言われている)が行われる。また、境内には「中山大仏」がある。
- いわゆる中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。
- 国宝である日蓮の真筆(立正安国論、観心本尊抄)や重要文化財の建造物があり、春秋の彼岸法、お千部、お会式、日蓮宗大荒行堂開設や聖教殿のお風入れ(11月3日)もある。
- 法華経寺の境内には中華民国の蒋介石総統の胸像が存在する。これは当時の住職が日台断交時に日台友好を願い建立されたもので、日本政府と中華人民共和国(中共政権)の間で日中共同声明が発せられた昭和47年(1972)に建立された。1960年代から70年代にかけて中華民国と中華人民共和国は一つの中国をテーマに国際社会で政治的駆け引きを展開していた。時の首相佐藤栄作は、中華人民共和国側の激しいバッシングにもかかわらず、訪台し蒋介石総統と会見した。また中華民国側も昭和42年(1967)11月に蒋経国国防部長が日本を公式訪問するなど訪日外交団を派遣し法華経寺などを拠点に日本政府要人と積極的に交流を行い協力を働きかけた。しかし日本国内では中共政権との国交樹立を推進する機運が徐々に高まってきており、1970年には「日中国交回復促進議員連盟」が発足。さらに1972年に起きたニクソン訪中は日本に大きな衝撃を与え、1972年9月29日田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認、国交を樹立した。その際、日本は日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い終了した」との見解を表明。これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言し日台断交した。
[編集] 参考文献
- 湯浅治久『中世東国の地域社会史』、岩田書店、2005年 ISBN 978-4-87294-388-7

