名古屋急行電鉄

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名古屋急行電気鉄道株式会社
種類 株式会社
本社所在地 (創立事務所)
大阪府大阪市北区天神橋筋六丁目5番地[1]
設立 未設立[1]
業種 鉄軌道業
代表者 創立発起人 太田光凞[1]
公称資本金 45,000,000円[1]
特記事項:会社未成立。データは1935年(昭和10年)現在[1]
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名古屋急行電気鉄道株式会社(なごやきゅうこうでんきてつどう)、通称名古屋急行電鉄(なごやきゅうこうでんてつ)とは、昭和初期に大津市から名古屋市までの鉄道路線建設を目的に京阪電気鉄道によって設立される予定だった鉄道事業者である。

歴史[編集]

新京阪鉄道[編集]

京阪電気鉄道(京阪)の子会社である新京阪鉄道(新京阪)が経営していた路線(現阪急京都本線阪急千里線)は、後に新京阪が京阪に合併されて、同社の新京阪線となった[2][3]。京阪では路線をさらに東へ延ばして名古屋へ達しようという計画を持っており[3]、その計画の実現のため新京阪鉄道時代に名古屋急行電鉄として大津 - 名古屋間の免許を出願した。

なお、1943年に陸上交通事業調整法による交通調整で京阪電気鉄道と阪神急行電鉄は合併して京阪神急行電鉄(1973年阪急電鉄へ改称)が発足し[4]、1949年に京阪神急行から京阪が分離した際に新京阪線は京阪神急行電鉄に残された[4][5][6]

時代背景[編集]

計画当時、主要幹線と並行する高速電気鉄道線を敷設すればその速達性と高頻度運転などにより十分な競争力を発揮し、大きな収入が見込めると考えられていた。そのため、同時期には第一次世界大戦がもたらした好景気を背景として、第2次電鉄ブームとでも呼ぶべき阪和電気鉄道参宮急行電鉄湘南電気鉄道など高速運転を行う私鉄の建設計画が、主として大都市圏の外縁部で立てられていた。

小川大臣と京阪電気鉄道[編集]

1927年4月20日に成立した田中義一内閣で鉄道大臣として小川平吉1869年 - 1942年)が就任した。元来立憲政友会は、鉄道網の完成を鉄道政策の基本方針としていた。これは予定線であっても免許、民間資本をもって開通、必要であれば買収するという姿勢として現れた。しかし、この過程で「我田引鉄」と評されるなど、露骨な利益誘導という側面も表出しつつあった。就任後小川は、あからさまな利権狙いの計画であっても、政友会の党勢拡大につながる場合には安易に許認可を与えるという態度を就任以来示し続け[7]、この結果既存鉄道事業者が自社線防衛を目的として本来不要な路線免許をやむなく取得する、という状況が多発していた[8]

京阪の場合も、大株主であった奈良電気鉄道京阪本線の平行線となる大阪線(玉造 - 小倉)を申請[9]し、また大阪の証券・不動産業界の投資家を中心とする別グループが東大阪電気鉄道(森ノ宮 - 四条畷 - 奈良)を露骨な利権目当てで申請する[10][11]など、周囲の状況は混迷の度合いを深めていた。このために京阪自身も国鉄片町線への乗り入れと、そのために必要となる電化工事費用を自社で負担することを願い出るという形で鉄道省に恩を売り、他社による競願を却下させることを画策する[8]という有様であった。

免許申請時の状況[編集]

1928年6月12日に大津市 - 名古屋市間の地方鉄道免許を申請した[12]名古屋急行電鉄であるが、こちらは計画内容そのものは既設の新京阪線の延長線であり、沿線人口の少なさ故に巨費を投じて建設された高度な施設や車両の大半が遊んでいた新京阪線[独自研究?]を有効活用し、そのあまりに巨大な投下資本の早期回収を図ることが目的であった[13]点で他の利権目的の出願とは一線を画していた。

なお、申請時の当初の経路は石山から瀬田川を渡った後、大戸川沿いに進み、土山付近を経て、四日市に至り伊勢湾沿いに桑名、弥富経由で名古屋に至るものであった。申請書には具体的な石山から名古屋までの経由地として、平野、大鳥居、雲井、磯尾、池田、鳥居野、岩室、土山、山中、原、大久保、小古曽、日永、四日市、富田、柿村、桑名、汰上、長島、弥富、大井、蟹江、萬場、烏森が明示されている[14]。この計画線は四日市以東では伊勢電気鉄道本線と競合するもので、現在の近鉄名古屋線とほぼ同じルートであった。また、平野 - 四日市間は概ね現在の新名神高速道路のルートとなっている。

免許交付と疑獄事件[編集]

1929年3月1日、「地方鉄道免許申請ニ関シ追願(起業目論見書変更申請)」がなされ、経路が草津、野洲、八日市、永源寺、員弁、佐屋経由に変更される[14]。この時期、満洲某重大事件の影響で政局は混乱し、田中義一内閣が総辞職に至る直前の同9年6月、小川鉄道大臣は監督局その他の強硬な反対意見[注釈 1][7]を聞き入れないまま、行きがけの駄賃とばかりに東大阪電鉄に免許[15]し、さらに同申請線と競合していた奈良電・京阪を懐柔する目的で、両社から申請されていた奈良電気鉄道大阪線および桜井線[16]と名古屋急行に対しても免許するという、免許の大盤振る舞い[17][注釈 2]を行った。

この、交通政策に関する長期的展望が完全に欠落した免許の乱発は、当然ながら空前の愚策であるとして各方面の非難を浴び[13]、特に東大阪電鉄と奈良電鉄は、不透明な資金の動きも見られた[18]ことから、最終的に「五私鉄疑獄事件」と呼ばれることになる一連の大規模な疑獄事件に発展し、小川本人のみならず京阪においても太田社長が連座し収監された[3]。幸い太田は起訴に至らなかったが、公権力を恣にした免許乱発の張本人である小川本人については1929年9月26日に起訴され、1930年12月20日には実刑判決[注釈 3]を受けて政界引退を余儀なくされている。

かくして、1929年6月29日に免許された[12]

構想の挫折[編集]

1929年10月24日ニューヨークウォール街における株価大暴落に端を発した世界恐慌は、既に昭和金融恐慌のせいで深刻な状態にあった日本経済に決定的な打撃を与えた。この事態は、好況を背景として社債や借入金で規模拡大を図ってきた新京阪と京阪にも多大な影響を与え、京阪グループ全体の負債は当時の金額にして実に1億円[注釈 4]にも達するという、恐るべき状況を招くこととなった。特に新京阪は新線建設に莫大な設備投資をした上、沿線が人口過疎地域であるため営業は芳しくなく、負債整理と人員削減の目的で京都地下線の工事を残したまま、1930年9月には京阪へ合併された[3]。この恐慌下にあって、工事申請に至れず、二度目の延期申請の1931年12月3日のものには、施工意欲を示すために同月21日「工事施行認可申請期間延期申請ニ関シテ追願」を提出している。ここには、経過要項や具陳書による現状説明のもののほか、工事方法書・線路実測図・建設予算書が添付され[注釈 5]、1929年の免許時には654(104.69km)であった総延長が102.08 kmに短縮される一方、石槫隧道は8,585 mと長くなっている。さらに途中駅の設置場所も明示されている[14]。この1931年の線路実測図が名古屋急行電鉄の最終的な計画路線図と考えられる。

しかし、以後も資金調達ができず会社も成立しなかったため、工事申請期限が到来する度に延期申請を出し続けて好機の到来を待つことにした[12]。しかし、当時の行財政整理の背景もあり、実現の見込み無しとの形で工事申請期限延期申請が却下され、1935年7月8日に免許が失効し[12]、この壮大な計画は未成のまま終焉を迎えた[注釈 6]標準軌間を採用する私鉄線の名古屋到達も1959年11月27日近鉄名古屋線改軌でようやく実現した[注釈 7]

ルート[編集]

新京阪は名古屋急行電鉄への免許時点では、天神橋駅[注釈 8] - 西院駅(仮駅)間の路線を既に開業させ、西院駅 - 京阪京都駅(後の大宮駅[注釈 9]間が建設中であった[注釈 10]。ほかに四条大宮終点附近から四条河原町までの免許と、西向日町駅[注釈 11]から久我(伏見区)、深草(伏見区)を経て山科駅(山科区大宅)に至る山科線の免許を有していた[注釈 12]。山科駅で同じく計画中の京阪六地蔵線に乗り入れ、大津市馬場に至る[14]

ルートは、馬場から草津八日市永源寺を経て鈴鹿山脈石榑峠)を超え、員弁へ抜けた後、多度佐屋と現在の近鉄名古屋線関西本線よりやや北側を進んで、名古屋の熱田神宮がある熱田に至るもの[注釈 13]であった。

このうち京阪六地蔵線山科 - 馬場間は、特許時点で逢坂山越えの難所について、国鉄東海道本線の旧線路敷[注釈 14]に並行して敷設される計画であった。しかし、新京阪山科線と名古屋急行電鉄の計画が具体化すると、山科から奈良街道に並行して直進北上し、京津線追分付近から約2,100 mの新追分隧道を経て上関寺付近に達し、国鉄東海道本線の旧線路敷の南側を並行して馬場に至る経路にて工事申請がなされた[14]

新京阪鉄道P-6A形110
総数73両に達したP-6形の初期製作グループ。名古屋直通を前提として長時間乗車に適した固定クロスシートを備え、防寒・防音用に側窓を二重窓とした。メーカー出荷時撮影のため台車は仮台車で機器艤装前。

計画路線の総延長は約102.08km[14]であり、名古屋駅 - 大津駅間の営業キロが137.6 km(当時)の東海道本線に比べ、約24%の路線短縮が見込まれていた。

これは鈴鹿山脈を延長8,585 mの単線型二列式の石榑隧道で貫通する[14]など、高速運転ができるよう、新京阪同様に標準軌・全線複線直流1,500 V電化の直線的ルートを選択したことによるもので、これは煤煙の発生が避けられない蒸気機関車を使用する当時の東海道本線では選択したくともできないルートであった[注釈 15]

このように、きわめて高水準な軌道施設と大出力電車を組み合わせることで、表定速度80 km/h程度の速達列車[注釈 16][19]の運行を実現し、大阪(天神橋) - 名古屋(熱田)間を約2時間で結ぶ予定であった。

なお、新京阪で導入されていたP-6形電車(後の京阪神急行電鉄(阪急)100形電車)と呼ばれる一連の重量級高速電車群の中でも初期に製造されたP-6A形と呼ばれるグループについては、全鋼製車体に防寒を目的として二重窓を備える[20][21][22][注釈 17][23]など、将来の名古屋急行電鉄との直通運転を前提とした仕様になっていた[独自研究?]。さらに図面だけで終わったが、車端部に便所を設置し、乗り心地の良いブリル27MCB-4X台車を装着した20 m(66フィート)級大形電車の製造プラン[24][25]も検討され、ブリル27MCB-4XについてはP-6形で先行して2両分を導入し[26][27]、試験を実施する段階まで計画が進捗していた。

路線[編集]

  • 起点:滋賀県大津市馬場町[12]
  • 終点:愛知県名古屋市南区尾頭町[12](現在の熱田区内)
  • 路線延長:約102.08 km[14]
  • 軌間:1,435 mm標準軌[12]
  • 架線電圧:直流1,500V[12]
  • 架線方式:単線架空式[12]
  • 橋梁:総延長:4,351 m[12]
    • 最長:揖斐川・長良川・木曽川合流地点:1,924 m[12]
  • トンネル:総延長:7,324 m[12]
  • 車両編成:6両編成(標準)[12]
  • 平均速度:81 km/h[12]

設置予定駅と経由地[編集]

1931年12月時点[14]

駅名 接続路線 備考
石山駅前停留場 京阪電気鉄道:石山坂本線、省線:東海道本線 京阪電気鉄道京阪石山駅(現)付近
東草津停車場 草津市目川地内・治田小学校付近
野洲町停車場 野洲高校付近
南八日市停留場 近江鉄道 近江鉄道長谷野駅南約300 m
山上停車場(永源寺) 東近江市山上町地内・永源寺診療所付近
杠葉尾停車場 東近江市杠葉尾地内・神崎橋付近
石槫停車場 いなべ市大安町石槫東地内
新三里停留場 三岐鉄道 いなべ市大安町平塚地内
大泉原停留場 北勢鉄道 員弁中学校付近
野代停留場 伊勢電気鉄道:養老線 野志里神社付近
新佐屋停車場 名岐鉄道:尾西線 名鉄佐屋駅南約100 m
北蟹江停車場 蟹江町とあま市の境界付近
八田駅前停留場 省線:関西本線 八田駅の西南西約300 m
名急名古屋停車場 金山駅南西約300 m
経由地 大津市 滋賀県滋賀郡石山町 同栗太郡草津町 同野洲郡野洲町 同蒲生郡市辺村 同神崎郡山上村 石槫峠 三重県員弁郡大泉原村 愛知県海部郡七宝村 名古屋市

影響[編集]

この計画は、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)とその子会社の参宮急行電鉄(参急)にも大きな影響を及ぼした。というのも、同社は大阪から鈴鹿山脈に青山トンネルを掘って伊勢神宮のある宇治山田へ向かう路線[注釈 18]を建設途中であり、さらに将来的には名古屋へ進出することが既に計画されていた[注釈 19][28]からである。大阪 - 名古屋間において先に名古屋急行電鉄が完成してしまうと、同社の計画が水泡に帰す恐れがあった。

そのため - 宇治山田間において参急と並行する路線の建設を行い、桑名四日市から伊勢への直通電車を走らせ、将来的に名古屋へ延伸する免許[注釈 20][29]を既に持っていた伊勢電気鉄道に対して、先に大阪 - 桑名間の運転実績をつくっておいて対抗したいと、提携を求めたりした。しかし三重県に地盤をおく伊勢電は、優先的に松阪 - 伊勢間の並行線を建設するなどした[注釈 21][30]ため、交渉は進まなかった。

その名古屋急行電鉄の免許が失効した頃、伊勢電は無理な伊勢進出が祟った上に起死回生を図った名古屋延伸も五私鉄疑獄事件として露見したことから経営に行き詰まり、参急に合併された。名古屋への進出は、大軌・参急子会社の関西急行電鉄(関急電)によって1938年に実現(現:近鉄名古屋線)し、ここにようやく(大阪)上本町駅 - 関急名古屋駅(現:近鉄名古屋駅)間189.5 km(当時)の都市間路線が完成することになった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時の福富監督局長は件の免許申請について交通政策上の問題を指摘の上で、6月末以来小川大臣に対して激烈な抗議を行ったが聞き入れられなかったため、一連の免許後に辞表を叩き付けて下野した。
  2. ^ この免許乱発は田中内閣総辞職のその日(1929年7月2日)まで続き、最終日の免許には参宮急行電鉄桑名延長線が含まれており、名古屋急行電鉄との将来的な競合について何ら考慮しないままに免許されたことが窺われる。
  3. ^ 直ちに小川は上訴したが最終的には有罪が確定した。なお、1940年恩赦により出獄している。
  4. ^ 当時、省線電車の初乗り運賃が5銭であった。
  5. ^ 後者の三書類は、申請に必要な主なるものである。
  6. ^ ただ、戦後になって京阪による名阪連絡は、名神高速道路の開通時に設立された日本急行バスへの出資と経営参加という形で実現した(後に京阪は出資を引き揚げ、日本急行バスも名古屋鉄道の完全子会社となった)。
  7. ^ 名古屋急行電鉄の挫折後、国家プロジェクトとして東京 - 下関間を標準軌で結ぶ弾丸列車計画が1930年代後半に立てられ、計画していたルートの一部もそれに組み入れられることになっていたが、その計画も太平洋戦争の激化により中止された。戦後、弾丸列車計画を引き継いだプロジェクトというべき東海道新幹線の開業は1964年である。
  8. ^ 後に天神橋駅は大阪市営地下鉄6号線開業に伴い、地下鉄の天神橋筋六丁目駅に代替される形で廃止
  9. ^ 開業の後、京阪神京都駅を経て大宮駅と改称
  10. ^ 梅田駅に乗り入れたのは阪急合併後。河原町駅への延伸は1963年
  11. ^ 現在の西向日駅
  12. ^ 山科線が予定されていたルートは現在の名神高速道路のルートに近い。
  13. ^ 厳密には名鉄名古屋本線金山駅が移転改称する前の金山橋駅付近(現在、ニッポンレンタカー金山駅前営業所のあるあたり)が候補地で、他に名古屋駅近くに総合駅を造る案も有していた。[要出典]
  14. ^ 後に名神高速道路に流用された。
  15. ^ 後の弾丸列車計画でも石榑トンネルで貫通するルートになっていた。また、戦後の東海道新幹線の建設にあたってもこのルートが検討されたこともあるが、技術や工期(1964年東京オリンピックに間に合わせることが条件であった)などの面から結局見送られ、東海道新幹線は関ヶ原を通るルートで建設された。
  16. ^ 1933年当時、日本最速の電車は阪和電気鉄道(現、JR西日本阪和線)が運行した「超特急」で、その表定速度は81.6 km/hであった。なお、この記録は戦後国鉄の特急「こだま」が更新するまで破られることはなかった。
  17. ^ 増備車であるP-6B形以降はコストダウンのため、内装などに木材を使用する半鋼製車体となり、側窓も通常の一重構造に変更された。なお、P-6形は最終的に貴賓車である500号を含む73両が製作され、路線長に比して過剰在籍両数となった。
  18. ^ 現在の近鉄大阪線山田線
  19. ^ 参宮急行電鉄線が建設中の1927年12月5日に三重県一志郡戸木村より名古屋へ至る支線の免許を申請している。
  20. ^ 1928年1月24日申請、1928年11月2日免許。
  21. ^ 津新地 - 新松阪間は1926年9月13日に免許申請を行い、1927年4月19日に免許を得ていた。この区間を含む津 - 宇治山田間の路線建設は伊勢電気鉄道の前身である伊勢鉄道(初代)以来の悲願であったが、大和鉄道→参宮急行電鉄による宇治山田への免許線は伊勢電気鉄道による1927年3月5日申請の山田線免許が却下される理由となっており、鉄道大臣が小川平吉に交代した後の1927年8月26日に再申請して、同年12月27日にようやくこの区間の免許を得ている。このように伊勢電気鉄道にとってこの時期の参宮急行電鉄は、最悪の競争相手にして自社計画の妨害者として機能していた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻348号 p.13
  3. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 p.102
  4. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻348号 p.14
  5. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻281号 p.4
  6. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻281号 pp.16-17
  7. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 p.109
  8. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 p.101
  9. ^ 『奈良電鉄社史』 pp.41-45
  10. ^ 『奈良電鉄社史』 pp.43-45
  11. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 p.108
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『車両発達史シリーズ4 阪急電鉄 京都線』 p.13
  13. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 p.110
  14. ^ a b c d e f g h i 若林正博「京阪六地蔵線、新京阪山科線と名古屋急行-行政文書から探る昭和初期の鉄道計画-」(『京都府立総合資料館紀要』第43号、2015年、158-251頁)
  15. ^ 『奈良電鉄社史』 p.44
  16. ^ 『奈良電鉄社史』 pp.44-45
  17. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 pp.108-109
  18. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻695号 pp.109-110
  19. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻488号 p.41
  20. ^ 『日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)』 p.37
  21. ^ 『阪急P-6』 p.12
  22. ^ 『新京阪鉄道車輛構造図集』 pp.38-41
  23. ^ 『阪急P-6』 pp.4-6
  24. ^ 『阪急P-6』 p.4
  25. ^ 『新京阪鉄道車輛構造図集』 p.64
  26. ^ 『阪急P-6』 p.10
  27. ^ 『新京阪鉄道車輛構造図集』 pp.6-7
  28. ^ 『鉄道史料』第51号 p.14
  29. ^ 『鉄道史料』第51号 pp.13-15
  30. ^ 『鉄道史料』第50号 pp.8-18

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 日本車輌製造『日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)』日本車輌製造、1928年。 
  • 日本車輌製造『日本車輛製品案内 (鋼製車輛)昭和五年版追加補刷 第三輯』日本車輌製造、1930年。 
  • 奈良電気鉄道株式会社 社史編纂委員会『奈良電鉄社史』近畿日本鉄道、1963年12月。 
  • 『新京阪車輛構造図集』鉄道史資料保存会、1984年12月。 
  • 藤井信夫 編『車両発達史シリーズ1 京阪電気鉄道』関西鉄道研究会、1991年。ISBN 9784906399017 
  • 藤井信夫『車両発達史シリーズ4 阪急電鉄 京都線』関西鉄道研究会、1995年。ISBN 9784906399031 
  • 吉岡照雄『RM LIBRARY 110 阪急P-6 -つばめを抜いた韋駄天-』ネコ・パブリッシング、2008年。ISBN 9784777052431 

雑誌記事[編集]

  • 京阪電気鉄道総務部「総論・京阪電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』第281号、電気車研究会、1973年7月、4-6頁。 
  • 中川浩一「京阪電気鉄道の系譜」『鉄道ピクトリアル』第281号、電気車研究会、1973年7月、13-18頁。 
  • 青木栄一「阪急平野の開発 -阪急電鉄路線網の形成と地域開発-」『鉄道ピクトリアル』第348号、電気車研究会、1978年5月、10-15頁。 
  • 藤井信夫「阪急電鉄形成の系譜」『関西の鉄道』第11号、関西鉄道研究会、1984年4月、3-13頁。 
  • 中川浩一「阪和線形成への途」『鉄道ピクトリアル』第488号、電気車研究会、1987年12月、10-15頁。 
  • 三宅俊彦「阪和間所要時間の変遷」『鉄道ピクトリアル』第488号、電気車研究会、1987年12月、41-44頁。 
  • 上野結城「伊勢電気鉄道史 (XVII)」『鉄道史料』第50号、鉄道史資料保存会、1988年5月、6-29頁。 
  • 上野結城「伊勢電気鉄道史 (XVIII)」『鉄道史料』第51号、鉄道史資料保存会、1988年8月、12-28頁。 
  • 加藤新一「阪神急行電鉄・新京阪鉄道の運輸と経営」『鉄道ピクトリアル』第521号、電気車研究会、1989年12月、61-66頁。 
  • 山口益生「歴史を築いた阪急の車両」『鉄道ピクトリアル』第521号、電気車研究会、1989年12月、61-66頁。 
  • 三木理史「京阪電気鉄道の形成 -路線展開と地域交通体系-」『鉄道ピクトリアル』第695号、電気車研究会、2000年12月、93-106頁。 
  • 小川功「京阪グループの系譜 -戦前期の太田光凞社長の関係事業を中心に-」『鉄道ピクトリアル』第695号、電気車研究会、2000年12月、107-119頁。 
  • 高山禮蔵「往年の阪急の駅と沿線」『鉄道ピクトリアル』第837号、電気車研究会、2010年8月、134-143頁。 
  • 若林正博「京阪六地蔵線、新京阪山科線と名古屋急行-行政文書から探る昭和初期の鉄道計画-」『京都府立総合資料館紀要』第43号、京都府立総合資料館、2015年3月、158-251頁。 

関連項目[編集]