鉄道と政治
鉄道と政治 日本に鉄道が敷設され、各地に延びるとその利権を巡って激しい綱引きや反対運動を起こしてきた。とりわけ、鉄道と政治は、密接な関係にあって政治家や地元有力者の力を使った強引な誘致運動(「我田引水」をもじって「我田引鉄」とも言う)や、優等列車の停車駅争奪戦を起こしてきた。もちろん、鉄道は交通手段の中核として長く存在し、その整備方針や経営をめぐるマクロスケールの議論も、その時代の状況に応じて常に行われてきた。
目次 |
[編集] 政治介入の例
[編集] 改軌論争
明治後期から大正にかけて、政界では鉄道のレール幅を現行の狭軌(1067mm) か世界標準軌(1435mm) にするかで論争が繰り返されていた。全線を標準軌に改軌し幹線に全国に大型で高速で走れる列車を導入したい(=「改主建従」)鉄道院派と、早く地方に鉄道を通し日本全国をつなげていきたい(=「建主改従」)地方議員派に分かれていた。「我田引水」をもじった「我田引鉄」という言葉は、この頃の論争が由来であるといわれている [1]。この時期に造られたトンネルには政変によって工期途中で規格が変わった遺構がみられる。結局、その後の鉄道敷設は都市部の一部私鉄を除いて狭軌によって行われることになる。
昭和に入ると日中戦争などの輸送力増強が目的で、東海道本線・山陽本線の線路増設計画が持ち上がった。しかし軍の希望は更なる高速化であったため、標準軌による新線建設案が出された。これを弾丸列車計画と名づけ予算を計上し計画チームを立ち上げた。戦争激化と敗戦による計画凍結や停滞があったものの、戦後新幹線プロジェクトとして再生し、国鉄の標準軌鉄道として結実する。
日本の改軌論争も参照。
[編集] 我田引鉄
「我田引鉄」と呼ばれる行為は戦前からしばしば問題視され、現在でも新線計画や新駅設置を巡ってその様な事が話題に上る事がある。
特に戦前はまだ自動車が世間一般に広まっていた訳ではなく、専ら鉄道が陸上交通の要であったため、その経路に選ばれるかどうか、駅が設置されるか否かが地域の盛衰を直接左右する生命線になった[2]。このため、衆議院選挙の度に政党(特に立憲政友会)によって地域への鉄道敷設と引換にその地域の票を獲得しようとする工作が行われ、この集票手法は戦後まで継承される事になる。現在の高速道路・整備新幹線建設に関わる政治問題の根本と言われることもある。また、大都市周辺の地下鉄の郊外延伸線構想などを巡っては、現在でも政治家が選挙などの際に持ち出す事が少なくない。
- 山田線
- 大船渡線陸中門崎駅 - 千厩駅間(通称「鍋弦線」)
- 四角形の三辺を選んで大回りする様なルートで、選挙と政治に振り回された「我田引鉄」の典型として有名。大船渡線を参照。
- 北越急行ほくほく線
- 中央本線岡谷駅 - 辰野駅 - 塩尻駅間(通称「大八廻り」)
- 山陰本線滝部駅・特牛駅
- 日本海岸沿いに敷設される予定であった本線だが、地域の要望や予算等によってルートが変更され、現在地にこの2駅が設けられたとも言われている[誰?]。
[編集] 停車駅争奪戦
- 高崎線深谷駅
- 北陸本線大聖寺駅・作見駅(現加賀温泉駅)・動橋駅
- 加賀温泉郷(山中温泉・山代温泉・片山津温泉・粟津温泉)の入り口である大聖寺駅と動橋駅では、北陸本線初の特急列車「白鳥」が設定されたときから、地元行政や住民、各温泉の観光協会などの団体の間で特急停車を巡る争奪戦が繰り広げられてきた。当初は、上下列車をお互いの駅に分けて停車させるなどといった方法で妥協していたが、特急が増発されるたびに同じような揉め事が繰り返されたことに加え、1960年代末期には特急「雷鳥」・「しらさぎ」が大聖寺駅と動橋駅の両駅に停車するダイヤとされていたことが特急の格やスピードアップの観点から問題視されたことから、1970年に国鉄は両駅の中間に位置し、それまで普通列車しか停車しないローカル駅であった作見駅を「加賀温泉駅」と改称し、この駅に特急停車を集約し各温泉地へはこの駅からバス路線を開設して、大聖寺・動橋の両駅は特急通過駅とすることで解決させた[7]。なお、この当時の特急列車には文字通り「特別な急行列車」という意味があり、停車駅をできるだけ絞るようにすることが求められていたため、現在の琵琶湖線を走るびわこエクスプレスなどのように連続停車させるという発想自体が存在しない時代であったため、加賀温泉駅への改称直前に前述の特急が両駅に連続停車していたことは当時の常識から見ると異例中の異例だったのである。
- また、この特急列車の停車駅移動は、大聖寺駅と動橋駅を国鉄線との接続駅にしていた北陸鉄道加南線に大打撃を与え、その廃線の一因ともなり、結局は地域の公共交通に大きなダメージを与えることにもつながった。
- 山陰本線豊岡駅・城崎駅(現城崎温泉駅)
- ここも山陰本線初の特急列車「まつかぜ」が設定されたときから、特急停車を巡って揉め事を起こしていた。「まつかぜ」は当初上り下りで停車駅を変える方式とし、後には上下とも宮津線の連絡駅である豊岡駅停車としたが、同時に運転を開始した「やくも」を豊岡駅通過・城崎駅停車とすることなどでバランスをとっていた。その後特急の大衆化が進むにつれて、停車駅の間隔が大きな問題ではなくなったことから、1970年代になると特急が豊岡駅・城崎駅の両方に停車するようになり、この問題は収束した。
- なお山陰本線の同地区においては、他にも駅間が近接しており特急「まつかぜ」が通過していた和田山駅・八鹿駅・江原駅の3駅間においても特急「あさしお」・「はまかぜ」の両列車が選択停車を行う措置が取られていたことがあったが、2000年前後には選択停車の措置がなくなりいずれの駅も全ての特急が停車することとなった。
- 山陰本線東萩駅・萩駅
- 土讃線西佐川駅・佐川駅
- 身延線内船駅
- 東海道本線(JR神戸線)芦屋駅・西ノ宮駅(現西宮駅)
- 外房線鎌取駅・誉田駅・土気駅
- 千葉市(1992年に政令指定都市化により緑区)内の駅では、特急列車「わかしお」の停車駅を巡って揉め事を起こしていた。「わかしお」は、1990年代前半まで一番乗降客数の多かった誉田駅にのみ一部の列車が停車していた。しかし2000年代までに住宅開発が進んだ鎌取駅や土気駅の乗降客数が誉田駅の乗降客数を大きく上回ったが、特急停車駅は旧態依然のままだった。このことに鎌取駅や土気駅の利用者から不満が噴出し、鎌取や土気地区出身の市議会議員などは、誉田駅の特急停車を止め、鎌取か土気停車に変更するようにとJR東日本に要望を出すまでになった。2002年のダイヤ改正では内房線の「さざなみ」のように列車によって誉田駅もしくは土気駅と停車駅を変える方式になり、更に2005年のダイヤ改正からは土気駅一部停車に統一された。
- 京浜急行電鉄京急蒲田駅
- 東武鉄道伊勢崎線・日光線・東上線
- 東海道本線(琵琶湖線)南草津駅
- 南草津駅は1994年に開業した琵琶湖線でもっとも新しい駅であるが、開業と前後して区画整理が進んだことや、パナソニックグループなどの工場群への通勤客に加えて立命館大学の進出もあり乗客が急増。2008年の利用者数は滋賀県内では新快速停車駅の草津駅、石山駅に次いで3位となっていた(滋賀県庁最寄りの大津駅よりも多く、滋賀県内の乗り換え路線がない駅では最多)。しかし日中は普通が毎時4本止まるだけで、不便に感じていた地元から新快速停車の要望が高まり、2008年3月には南草津駅への新快速停車を公約に掲げた橋川渉が草津市長に当選。2009年12月2日には、2011年春のダイヤ改正での南草津駅への新快速停車を目標に「南草津駅新快速停車促進期成同盟会」が設立された。そして多数の署名を集めJR西日本にかけあったところ、2010年12月に「2011年3月12日ダイヤ改正より新快速が終日停車する」と発表された。
- そのほか、近鉄南大阪線尺土駅の特急停車、福知山線(JR宝塚線)中山寺駅の快速停車、小田急江ノ島線南林間駅の急行停車、京急本線青物横丁駅の特急停車も政治家の力が働いたといわれている[誰?]が、いずれも真相は定かではない。
[編集] 駅名
- 山陽新幹線・山陽本線・山口線・宇部線新山口駅
- 新山口駅が小郡駅からの駅名改称に至るまでには、半世紀にわたる旧山口市と旧小郡町の紛争があった。
- 山陽鉄道が現山陽本線を敷設するときに、大内氏の城下町であった旧山口市を通す予定であったが旧山口市が拒否した(#鉄道忌避伝説も参照のこと)ので山陽道小郡宿を通るルートに変更されたのが事の発端であった。小郡宿には機関区を併設した拠点駅が設置され、最急行列車の停車駅として繁栄した。この間違いに気づいた旧山口市は1913年に何とか山口線の誘致に成功したが、本線から外れていたためか町の発展は見られなかった。そこで、旧小郡町を合併してでも「小郡駅」の駅名に「山口」の文字を入れさせようとしていたのである。その思いは山陽新幹線開通により小郡駅がその停車駅となったことで、さらに強まったと言われる。そこへ降って沸いた中央の合併促進政策で旧山口市・防府市・吉敷郡が対等合併して、かねてから抱いていた旧山口市の「大山口市構想」が成就することになり、JR西日本へ徳山市(現・周南市)とともに「のぞみ」停車を持ちかけて駅名改称となった、といわれている[誰?]。
- 尚、2005年10月1日に旧山口市と吉敷郡・佐波郡の4町が合併して、新市名は「山口市」となり、新市役所を旧小郡町に建設することが決定している(防府市は合併からは離脱)。さらに周南市でも徳山駅の駅名改称の声があるが、時期尚早ということになっている。[要出典]
- 上越新幹線燕三条駅
- 上越新幹線と弥彦線が交叉する地点に駅を設置することが決まったとき、予定地が三条市と燕市の境界線上にまたがる場所となった。このため、その駅名を巡り両市行政の間で「新三条」「新燕」「燕三条」「三条燕」など複数の案が飛び交う駅名争奪戦の様相を呈し、紛糾を極めることとなった。また、その結果として両市名を付けた駅名にすると国鉄が決定した際にも、今度は「燕三条」と「三条燕」のどちらを頭に持ってくるかでまた紛糾し、双方の自治体や住民団体により県庁や国鉄本社への陳情合戦などまで行われた。結局は田中角栄らの仲裁により、駅名は燕を先にした「燕三条」とし、駅長室を三条市側に配置して登記上の所在地を「三条市」とすることで最終的に決着させた。当時、三条市の国政選挙区は田中が地盤とする「新潟3区」で、一方の燕市は「新潟1区」であった。このことから駅名決定の経緯については政治的な意図も囁かれたが、真相は定かではない。
- なお、近隣に所在する北陸自動車道のインターチェンジおよび併設される高速バス停留所は、所在地が燕市であるにもかかわらず、その名称が「三条燕」となっている。
また、現在では新幹線駅などと同様に、高速道路のインターチェンジでも、開通・設置の際にその名称を巡って同様の名称争奪戦が発生する事が少なからず見られ、最終的に妥協案として近隣自治体名を繋げた名称となるものも少なからず見られている。また、大都市圏の地下鉄などの駅名を巡っても、同様の事態が発生する事がある。
[編集] 鉄道忌避伝説
鉄道創生期に線路を敷設する際、次のような理由で住民が線路を市街地に通すのに反対したため、鉄道の線路や駅が街の中心部から離れた場所に設置されてしまった……などという「伝説」が日本の各所に残されている。これらは総称して「鉄道忌避伝説」などと呼ばれる事が多く、そのほとんどは都市伝説の一種である。
- 宿場町では、宿に泊まるものがなくなって町が寂れる(例:下土狩駅(旧三島駅)・藤沢駅・岡崎駅・豊橋駅)。
- 駅ができると外客が増えるため、疫痢が流行する。風俗が乱れる。治安が悪化する(例: 見附駅)。
- 農業や畜産業に列車の震動や煙が悪影響を与える(例:東北本線仙台駅 - 一ノ関駅間での小牛田迂回ルート・信玄公旗掛松事件(日野春駅の当該項目参照)・北陸本線寺井駅)。
- 蒸気機関車の吐き出す火の粉から、町が火災になる(例:大阪駅、宇都宮駅)。
- 人が都市などへ流出し、また都市で生産された商品が流入してくるため、産業が衰え町が寂れる(例:中央本線中野駅 - 立川駅間直線ルート)。
- 地元経済の根幹であった水運業が衰退してしまう(例:常磐線松戸駅 - 柏駅間での流山回避ルート、総武本線錦糸町駅 - 船橋駅間での行徳回避ルート)。
- 港町などで船の往来が盛んであったから、鉄道が来ると船運が衰退する(例:山陽本線の玉島駅→新倉敷駅、東北本線盛岡駅)。
しかし実際には、次の各号ごとの理由などが原因であり、従来は鉄道忌避運動があったと噂されていた地域についても、現在残っている明確な資料によって、別の理由であったということが示されるケースが多い(後述)。
- 旧城下町、宿場町などの既に完成されていた市街地へ線路を敷設し、駅を設置するのは、費用や用地収得の問題から困難であった。
- 線路の敷設ルートや駅の設置位置などを巡って地元有力者の間で意見が対立し、この取りまとめに手間取った事により、近隣地域と比べて積極的な誘致努力が不足したり、誘致運動に出遅れてしまった(上記の流山のケースは当時の当地の有力産業であった水運業者と醸造業者の対立という説もある)。
- 積極的に誘致したにもかかわらず、近隣他地域に当時の有力な政治家がいたり、地元の政治家が選挙や政争で敗れた事によりルートから外されてしまった。
- 市街地付近は軟弱地盤や河川の多く流れる地域などであって、駅施設の設置が困難であった。
- 蒸気機関車は駅周囲に加速の為の平坦な区間を必要としたが、駅の設置場所についてこの要件を満たす土地を市街地に確保できなかった。
- 路線敷設当時の蒸気機関車の牽引力では走れない急勾配を回避するため、地形上の問題からそれまでの街道沿いに鉄道が通せなかった(例:東北本線上野駅 - 蕨駅間、中央本線長坂駅)。
- 鉄道が通ることを聞き付けた利権屋や投機家により、町の中心部などでの土地の買い占めが大々的に行われ、それを鉄道が避けて市街地を通すと大きな距離ロスが発生してしまう(例:岡崎駅)。
また、利権屋による予定地の土地買い占めを避けてのルート変更については、昭和期に至っても参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)の名張駅(西名張駅も参照)周辺などで起きている。 また、上記の事情により、鉄道が市の中心部から相当距離を隔てた場所を通ってしまったために鉄道が交通の主軸となるにつれて旧来からの町の中心部が衰退した、鉄道沿いの地域と比較して商工業の発展が大幅に遅れた、などと言い伝えられる地域もある。これらのうち結局、後に近隣の鉄道駅へ連絡する鉄道路線や街の中心部を経由する鉄道路線が敷設されたケースとして、以下のような例が挙げられる。
- 龍ケ崎市 - 関東鉄道竜ヶ崎線
- 岩槻市(現さいたま市岩槻区)- 武州鉄道(廃線)、東武野田線
- 東金市 - 東金線
- 流山市 - 流鉄流山線、つくばエクスプレス
- 市川市(行徳地区) - 東京地下鉄東西線
- 藤枝市 - 静岡鉄道駿遠線(廃線)
- 倉吉市 - 倉吉線(廃線)
- 山口市 - 大日本軌道山口支社(廃線)、山口線
- 岡崎市 - 名鉄岡崎市内線(廃線)、名鉄名古屋本線
- 見附市 - 越後交通栃尾線(廃線)
更には、線路が市街地付近を通ったにもかかわらず、駅がそれを大幅に外れた位置に設けられた例もあるが、これらの中にも鉄道忌避が原因だと言い伝えられるものもある(例:尾道駅・熊本駅)。
これら鉄道忌避がなされたとされる場所の多くでは、そのような伝説を裏付ける嘆願書・議会の議事録・個人の日記など具体的な史料がまったく残されていない。現在見られる記録の多くは、古くからの地元住民の口伝を、昭和期以降の地元史家が当時の史料を検証することなく市町村史誌に編纂したものなどである。その市町村史に掲載されたため「事実」として認識されてしまい、やがては小学校の社会科で用いられる副読本や鉄道会社の社史にも掲載されて、「伝説」がさらに拡散して、それを事実と信じるもの、あるいは誤認識してしまう者は多い[9]。
鉄道忌避があった例として唯一検証できるとされているのは日本における最初の鉄道開業区間の一部である新橋駅—品川駅間においてである。大久保利通をはじめとする薩摩藩などの反対により、用地買収の不要な当時海中であった土地に鉄道を通している。その大久保も鉄道に試乗して「まさに百聞は一見に如かず。愉快に耐えず。鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」と日記で綴っている。 その薩摩藩も1866年(慶応2年)に藩士五代才助をヨーロッパに留学させており、五代は同年12月の帰国に際して知己となったベルギー人の実業家シャルル・ド・モンブランに書簡を送ったが、その中には鉄道建設計画に関することが含まれていた[10]。
鉄道建設用地の確保に際して、農民に対しては補償金や代替地で対応した。しかし、旧東海道沿道の宿泊業者と前近代的な陸運業者(駕籠屋、馬子など)は鉄道の開通によりその職を失うため、彼らによる鉄道建設反対運動は激しいものとなり、測量や工事の妨害、通信用ケーブルの切断など実力行使を伴う反対運動を行った[11]。
一方で仙台市では「鉄道忌避」とは逆に「街中心部に線路を通さなければ伊達政宗公以来の仙台は滅ぶ」と、地元側の猛烈な誘致活動の末、当初ルート(現在の宮城野貨物線ルート)を変更して現在地に仙台駅が設置された(似たような事例が後の東海道新幹線における京都駅でも起こっている(詳しくは後述))。
また信越本線加茂駅も街の中心へと誘致したため、加茂駅付近で平行する国道403号がほぼ直線なのに対し、線路は街の中心に近づけるように東へと振られている。
[編集] 新幹線と政治
新幹線の路線や駅の建設についても、その時々の政治家の腕力に左右された事が多かったと見られている。そのため、新幹線の駅ができた場合でも、周辺が殆ど整備されないまま放置されている例も全国に垣間見る事ができる。背景には、新幹線の開業は沿線に大きな利害をもたらすため、地元住民の賛否両論が建設時にでることがあるといわれる。
一般に政治家の影響を受けたと評される路線・駅を列挙する[12]。
[編集] 中山道ルートと岐阜羽島駅(東海道新幹線)
東海道新幹線の名古屋以西のルート選定に当たって、当初三重県を経由し鈴鹿山脈を直線で越える旧東海道沿いの計画(現在の新名神高速道路ルートに相当)から、在来線同様の関ヶ原・米原駅経由の中山道ルートに変更された理由について、与党の有力者大野伴睦の意によって、中山道ルートに変更された上、わざわざ田圃の真中に岐阜羽島駅が建設された……としばしば誤解されることがある。正確な経緯は以下に説明する。
戦前の新幹線建設計画である通称「弾丸列車計画」が浮上した際、当初は鈴鹿越えで計画されていたものの、後に工期や技術の問題で米原経由や木津経由のルートを検討するようになり、名古屋〜大阪間のルート計画は混迷を極めた。
戦後の東海道新幹線建設計画においても、名古屋駅から関西本線沿いを西進して、鈴鹿山脈をトンネルで貫き、野洲市の三上山(近江富士)近傍で東海道本線に再び沿うというルート[13]が再び検討されていたが、鈴鹿峠を挟んでの三重県側と滋賀県側との高低差が大きく、それを緩和するためには鈴鹿山脈に20kmを超える長大トンネルを掘削する事が必須条件となり、当時の土木や高速車両の技術レベル的に極めて難事業となる事は明白であった。
結局、これらの技術的障害や建設コスト面の問題のほか、世界銀行からの融資条件である『東京オリンピック開催までに開業する』という工期の制約などから、東海道新幹線は在来線同様の中山道ルート(関ヶ原経由)に変更された。更に、北陸方面との連絡の利便を図って、米原駅の設置が決められた。
そして、関ヶ原付近の降雪に伴う雪害対策としての退避施設(実際、岐阜羽島駅は本線2線、副本線4線、合計6線と東海道新幹線の中間駅としては規模が大きい)として、及び地域バランスを取る形で岐阜県内への新幹線駅設置の動きに至ったものの、岐阜県側は県都・岐阜市の岐阜駅に新幹線駅を併設させる願望を描いていた。産経新聞刊の『戦後史開封』(ISBN 459402694X)によると、その岐阜県の要望に対して国鉄側は、予定ルートよりも線路を大幅に北側へ迂回する必要があり、建設予算や名古屋駅以西の区間の所要時間が伸びる関係上、難色を示した。これに岐阜県や地元自治体側は激しく反発し、一時、国鉄は岐阜県内での測量が出来ない状態に陥った。この為、国鉄が地元選出の国会議員である大野に斡旋を依頼し、新幹線路線を迂回させる必要がない羽島市内に「岐阜羽島駅」を設置することで妥協案を成立させるというのが用意された筋書きである。
実際は、1958年(昭和33年) - 1959年(昭和34年)に国鉄は岐阜県内の駅設置の必要性を認識して計画を進めていた。乗客の利便ではなく列車運行上の都合(ひかりがこだまを追い抜くための待避駅としてなど)で、名古屋駅近くにもう1駅が必要であった。岐阜県知事が要請した大野と国鉄との交渉の際、国鉄は駅を作ることをあえて伏せ、「一駅作るなら地元を説得しよう」と大野にいわせて顔を立て、羽島市内に駅を設置することで妥協案が成立したように見せかけたのである。
これらの経緯から見れば、関ヶ原ルートの採用や岐阜羽島駅の設置が決まった事は「大野の圧力によるもの」ではない。なお、東海道新幹線は岐阜県内のもうひとつの有力都市である大垣市を通過しており、養老鉄道養老線(旧近鉄養老線)と交差している地点があるが、ここは河川沿いの地盤軟弱地帯であり、駅の構造物を設置することが出来ない事から、建設予定当初から新駅設置の候補地には挙がらなかったと言われる。
開業後長らく同駅までの連絡鉄道路線はなかったが、1982年に名鉄羽島線が開業し、同駅隣に新羽島駅が設置された。しかし、岐阜市中心部等から東京方面に向かう場合、全線単線の名鉄竹鼻・羽島線経由で新羽島駅まで出るよりも、高速運転の快速列車網が充実している東海道本線を利用する事で名古屋駅まで出た方が早いことに加え、名古屋駅には「のぞみ」を筆頭に新幹線全列車が停車して利便性が高いため、名鉄羽島線の利用者は伸び悩んでいると言われる(仮に岐阜駅に新幹線ホームが設置されたとしても、現在の「のぞみ」などの優等列車は通過となった可能性が高いとされる)。また、新大阪方面に向かう場合も、名古屋駅・岐阜羽島駅のほか、米原駅での乗り換えという選択肢が存在する(特に大垣駅以西ではこのルートが一番早いことが多い)。もちろん、本来の目的が列車運行上の都合である以上、利用客が少ないのは当初からの目論見通りであった。
ただ、岐阜羽島駅は名神高速道路の岐阜羽島インターチェンジに近く、また駅の駐車料金も安い事から、関西方面から信州や北関東などに向かう団体ツアー客が、新幹線と観光バスとの乗り継ぎ駅として利用することも多い。
なお、岐阜羽島駅前には大野夫妻の功績を顕彰する銅像が建てられているが(これも大野が地元への斡旋を引き受ける条件の一つであった)、この銅像の存在が「大野が地元への利益誘導で設置させた政治駅である」というイメージの一翼を形成してしまった事も否定はできない。
[編集] 南びわ湖駅(東海道新幹線)
東海道新幹線に1988年(昭和63年)の新富士駅・掛川駅・三河安城駅以来、久々に具体化まで漕ぎ着けた新駅設置計画であった筈の南びわ湖駅(仮称、当初2012年に開業予定だった)は、知事選など県政の影響を受ける形で、併設の草津線新駅の構想まで含めた計画全体が凍結・中止された。詳細は駅記事を参照。
[編集] 京都駅(東海道新幹線)
京都駅は、開業以来現在も東海道新幹線の主要駅であるが、新幹線ホーム開業に至るまでには相当な政治的圧力が存在していた一面も持っている。ただし、当時の地元出身の有力国会議員や京都府知事関係者ではなく、京都市などの地元市町村や地元財界などが中心となって動いた事が大きく影響した極めて珍しい例でもある。
「弾丸列車計画」の頃から京都市内の新駅設置計画は複数の案が考えられていたが、東海道新幹線計画の頃に於いても、大阪への最短ルートを優先させるため、また昔から地価の高い京都市の中心部を避けるために、敢えて京都駅を経由させずに京都府南部を短絡させて[14]、「超特急(当時の呼称)」も京都府内に設置予定の新駅を通過させる案が考えられており、これが有力視されていた。
それが発表されるや否や、当時の京都市などの地元市町村や地元財界に市民などが、都心部への利便性の悪化や街の衰退に発展する事への懸念、ならびに国際的な観光都市である事に加えて、東京奠都までの日本の首都であった自負の大きさもあって猛反発し、京都駅への新幹線ホームの設置並びに「超特急」の全列車を停車させる事を当時の国鉄に迫った。
建設工事開始が迫る中で国鉄側も徐々に地元側に譲歩する動きを見せ、現在のルートへの変更と共に京都駅への新幹線ホーム設置には至るが、依然として「超特急は通過」などの回答に地元側は強硬姿勢を崩さず、遂には国鉄側が全面的に折れる形で決着、開業を迎える事になった。
ただ、国鉄側にこれだけの譲歩を引き出せたのは、京都市が当時既に人口約130万人を数える日本第5位の大都市にして政令指定都市かつ京阪神圏の一角を担う主要都市であった事に加え、地元側が京都駅への「超特急」停車の利点を論理的に訴えた事(当時国立京都国際会館の建設工事が進んでいた事も大義名分に挙げていた)や、更に京都駅への停車と引き換えではあっても、地元自治体や住民からの工事に対する全面的な理解と協力が得られた事も大きな要因である。
この決断は地元の京都府内に留まらず、近隣の大阪府北東部(高槻市・枚方市など)や滋賀県南部(大津市・草津市など)および奈良県北部(奈良市など)からの東海道新幹線への乗り継ぎ利便性を高める方向に働いた(特に滋賀県南部においては県外の駅にも関わらず、先述の南びわ湖駅不要論の大きな根拠となったほどの重要な拠点駅となっている。また、奈良県北部においても近鉄特急などを利用しての観光客が多数存在する)。
なお、1992年に「のぞみ」が設定された当初、名古屋駅・京都駅通過列車が1日下り1本(「のぞみ301号」)のみ存在していた事に対し、中京圏では名古屋飛ばし騒動が発生したが、線路そのものの『京都駅飛ばし』騒動を体験した京都では「観光に向かない時間帯の1日1本ならば大した問題ではない」と、名古屋とは違って抗議の動きは殆ど見られなかった。
その後、航空機との激しい競争から、「のぞみ」が横浜市内の新横浜駅[15]および神戸市内の新神戸駅に停車するようになったが、これらの駅に比べて都心部や周辺地域への利便性が高く、また、関西圏の各空港から離れた京都市内の京都駅に新幹線ホームを設置し、開業当初から新幹線速達列車を停車させる措置を取った事は、京都市周辺へのアクセス手段としての新幹線のシェアを圧倒的なものにした事(現在、東京 - 京都間の新幹線と航空機のシェア比率は約97:3である)で、先見の明があったとも評する声も多い。
社団法人京都経済同友会ホームページ内 提言・レポート一覧に当時の問題を取り上げた題目がある。
[編集] 相生駅(山陽新幹線)
山陽新幹線建設当時の有力政治家である河本敏夫の地元に作られた相生駅も、隣駅である姫路駅から極端に近かったために政治駅と言われた事がある。[要出典]しかし西明石駅同様、この駅は当初山陽新幹線で予定されていた「夜行新幹線運転構想」に備えて(線路保守のために夜間は低速の単線運転とするため、適当な間隔で交換駅が必要)設置された[16]。
[編集] 新岩国駅(山陽新幹線)
山陽新幹線建設当時の首相である佐藤栄作の地元に作られた新岩国駅も政治駅と言われた事がある。しかし岐阜羽島駅と同じく運用上の配慮から30km〜40km間隔[17]での駅配置が図られた結果、広島駅と徳山駅の中間に当たる位置に新岩国駅が作られたとも言われている[18]。
[編集] 白石蔵王駅(東北新幹線)
東北新幹線の白石蔵王駅は、新幹線と在来線が交差する場所に「新白石駅」として建設することが可能だったが、何らかの政治的意図が働いた結果現在地に新駅として建設されたともいわれている[誰?]。しかし、実際は市街地に近いほうに駅を設置したのが真相とされる[誰?](西村京太郎『東北新幹線殺人事件』はこの件を土台にして作品が描かれている)。
[編集] 上越新幹線と浦佐駅
当時の内閣総理大臣を務めた田中角栄は、自らの意と東北新幹線を地元に誘導したい[19]岩手県出身の鈴木善幸との利害が一致し、「日本鉄道建設公団」(鉄建公団)を設立し、建設緊急度の比較的低かった上越新幹線を建設させたと言われる。上越新幹線の経由地・新潟県長岡市は田中の地元である刈羽郡西山町(現柏崎市)の近傍である。
当時の国鉄は与党議員の圧力により地方へ鉄道を建設し続け、年々赤字が大きくなっていた。そのころ東海道新幹線のバイパス線である「北回り新幹線」が構想された。新宿から松本(長野県)を抜けて北陸に出るというのが当初のルートであった。
ちょうどその頃、自著の「日本列島改造論」で新幹線建設の機運を高めた田中角栄は日本鉄道建設公団法を成立させて「鉄建公団」を作り、国鉄官僚にポストという「甘い汁」を吸わせる一方で、収益の見込めない地方ローカル線の建設を進め(例:只見線の全線開通)、国鉄による建設がまだ始まっていなかった上越新幹線を着工させた、と言われる。鉄建公団は鉄建公団法によって「内閣の指示で建設を行なう」ものとされ、また完成した線路は建設費と共に「国鉄に譲渡できる」とされた(国鉄の予算は国会での承認を得なければ執行できなかったので、内閣の意向と国会の大勢が一致していればまさに「思いのまま」であり、それが政府や自民党、わけても「運輸族」と呼ばれた議員の跳梁跋扈を許す結果となった)。このことは、国鉄の分割・民営化に際し、永らく田中に仕え「側近」とも言われた秘書の早坂茂三をして「国鉄を愛したはずの『親父』(注:田中のこと)が国鉄に対してなした最大の罪悪」と言わしめた。
このような事情を体現するかのように、田中の選挙区内を経由する上越線の浦佐駅(南魚沼郡大和町、現在の南魚沼市に所在)は、新幹線開業以前は特急「とき」1往復と一部の急行が停車するだけのローカルな小駅だったが、近隣の北魚沼郡小出町(現魚沼市)にある小出駅、南魚沼郡六日町(現南魚沼市)の六日町駅といった主要駅があるにも関わらず、それらではなく、両町の中間点にあたる浦佐駅が突然新幹線停車駅に決定した。これには地元の住民でさえ奇異の念を抱く者が少なくなく、小出・六日町両町からも「何故我が町を差し置いて」などと異議を唱える声が上がった。
田中が選挙区としていた旧新潟3区内には越後湯沢駅、浦佐駅、長岡駅、そして燕三条駅の計4駅が存在する。長岡市は県内第二の都市であり[20]、三条市・燕市も周辺に約30万人の都市圏を有する。湯沢町も新潟県を代表するリゾート地のひとつで、1997年に北越急行ほくほく線が開通し北陸地方への乗換駅となるなどして、3駅とも乗降客・乗換客は多い。しかし、浦佐駅は現在も、朝夕を別にすれば、広いコンコースやホームは人気が疎らで売店すらなくがらんとした空間が広がっており(改札外に「NEWDAYS」があるのみ)、奇しくも「新幹線の駅ができたからといって地元が栄えるとは限らない」ということを証明しているかのようでもある。
しかし、この浦佐駅のケースなど上越新幹線のルート設定や駅設置自体に関しては何らかの政治的意図が働いた可能性も考えられるものの、必ずしも政治力だけの影響によるものではなく、沿線の地理条件も背景にあったのではないか、という見方も数多い。
地理的には岐阜羽島駅と同じく運用上好都合な30km〜40km間隔の駅配置で、越後湯沢駅と長岡駅との中間地域である。魚野川流域でも最も東寄りになる小出は拠点間ルートから大きく東に外れ、さらに小出駅の構内が狭隘である事、また六日町も湯沢に近過ぎる事や高速運転に障害の大きいトンネル出口近傍に位置するという欠点により、距離的にも比較的妥当で、路線環境面で欠点がない浦佐駅が新幹線停車駅になったとの考え方もある。その代わり、関越自動車道のインターチェンジは六日町と小出町には設置されたものの、大和町には長らく設置されなかった(その後大和パーキングエリアにスマートインターチェンジが設置された)。これは地元では「新幹線駅とのバーター」であると認識されている。
なお、浦佐駅前には田中角栄の銅像が建てられている。
[編集] 中山トンネル(上越新幹線)
浦佐駅と逆の政治的意図で採用されたルートとしてこの長大トンネルを挙げる者がある。政敵の福田赳夫が推進していた渋川駅への上越新幹線ホーム設置を阻止するために、田中角栄が高崎駅から直線ルートを採らせて中山トンネルを掘削させたというのであるが、一般的な説ではない。なお、中山トンネルの掘削は地質の悪さから難工事で、途中でわずかながらルート変更を余儀なくされ(その影響で同トンネル内に160km/h制限区間が存在する)、結果として上越新幹線の開業を遅れさせた。ただし、上越新幹線の渋川迂回については、当時首都圏の水需要確保のために沼田市を水没させる巨大ダム構想・沼田ダム計画が進められており、水没予定地を避けるために迂回させたとの説もあるため、定かではない。
[編集] 北陸新幹線
整備新幹線として指定された路線のうち、北陸新幹線に関しては当初、部分的にミニ新幹線やスーパー特急方式を採用しての建設が予定されていたが、並行在来線問題や費用負担問題などを抱える沿線自治体などから納得いかないとして反対運動が起こり、結局高崎駅〜長野駅〜金沢駅間に関しては全線がフル規格で建設される事になった。その他、ルートに関しても計画線沿線地域を票田とする政治家の意向が反映されて修正されたため、「政治に振り回された新幹線」「我田引鉄の新幹線」という評判も出た。
また1997年に長野駅までが暫定開業した際は、北陸地方にはまだ達しておらず利用者の混乱の元になるとして、別の通称を用いる事にしていた。しかし「長野新幹線」とした場合、北陸地方の者に長野で打ち切りにされるという印象を与えてしまうとJR東日本は考え、「長野行新幹線」という名称を当初は用いることになった。だがほとんど定着せず、更に「長野新幹線」の呼称が当初から混合されて用いられたこと、北陸地方への延伸も決定してそのような配慮を行う必要もなくなったことから、間もなく「長野新幹線」に正式通称が統一された。長野新幹線の記事も参照のこと。
他方で、在来線沿線でも新幹線ルートから外れた場所に位置する長野県小諸市は、地元の小諸駅について東京直通の優等列車の停車が無くなり第三セクターのローカル駅に転落する事などを恐れ、建設構想の段階では行政と観光などの諸団体が一致結束してフル規格化に反対し続け、小諸駅が停車駅となるミニ新幹線案を強硬に主張し、関連省庁への請願などを繰り広げた。しかし、それはかなわず、しかも小諸市を避けたルート(佐久市経由)で、フル規格での建設が正式決定された。
小諸市側は佐久市内に新設される新幹線駅(佐久平駅)の駅名を巡って「小諸佐久駅」という駅名とする事を求めて論争を引き起こしたが、結局、新幹線の駅名に「小諸」を入れる事にも失敗している。新幹線誘致に失敗した小諸市とは対照的に、佐久市では佐久平駅を中心に大型商業施設のオープンが相次いでいる。
なお、敦賀駅以西の区間に関しては複数の案が考えられているが、それぞれ一長一短を抱えている計画で長らく検討が続けられており、未だ結論には至っていない。また、現在建設が進められている区間についても、国側と新潟県側で諍いがあり(建設負担金及び上越駅停車設定本数など)、状況によっては完成時期が遅れることもあり得る。これらの詳細は北陸新幹線の記事を参照されたい。
[編集] 安中榛名駅(長野新幹線)
また同新幹線の安中榛名駅も、この地域(群馬県西部)を地盤とする元首相小渕恵三の政治駅なのではないかといわれた事があった。現在はJR東日本による施工を中心に住宅開発(びゅうヴェルジェ安中榛名)が進みつつあるが、開業当初は駅前に見える建造物がほとんどなく、秘境駅の一つにすら挙げられていた。
JR東日本は安中榛名駅の建設に必ずしも積極的でなかったものの、この駅の存在により高崎駅〜軽井沢駅間は両駅が隣接しないこととなって安価な特定特急券が設定されず、比較的短距離でありながら割高な特急料金が設定される結果となっている。
なお、駅がある安中市は小渕恵三の選挙区(群馬5区)に属するが、駅の建設が決定した当時は中選挙区制であり、同一選挙区に福田赳夫、中曽根康弘という有力議員がいた。仮に政治駅だとしても、必ずしも小渕の政治駅であるとは限らず、むしろ当時の状況を考慮すると、折しもリクルート事件の直後で、自身にとって一番厳しかった時期であった中曽根康弘の絡んだ政治駅と言われることが多い[誰によって?]。
一方、軽井沢を中心に勢力を誇っていた西武鉄道グループが周辺で大規模な不動産開発を企て、その関係で附近でもっとも集落の少ない場所に安中榛名駅が設置されたとする報道もあった。これについても、政治家を介して働き掛けがあったとの見方がある。
[編集] 九州新幹線
九州新幹線鹿児島ルートのうち新八代駅〜鹿児島中央駅間が先行して飛び地開業したのは、鹿児島本線で需要の高い博多駅 - 熊本駅間に先に新幹線を作れば、採算性に疑問のある熊本駅以南の建設が行なわれるかどうか分からないと判断されたためである。また、鹿児島本線の八代駅 - 鹿児島駅間は大半が単線で、線路が海岸線に沿って敷かれており線形が劣悪で、高速運転化には抜本的な改良が必要であった。歴史的にも川内駅(薩摩川内市)経由のルートは現肥薩線経由で鹿児島本線を全通させた後で改めて敷設しなければならなかったほどの難所である。
国鉄の財政悪化で凍結されていた整備新幹線の建設は、国鉄民営化直前の1987年1月に凍結解除が決まり、民営化後の1988年に運輸省が暫定整備案を決定した。この案では、新規に着工が決まった区間は軒並スーパー特急方式での開業を予定していた。その場合、建設費を圧縮するために、在来線の線形が比較的いい区間はそれを流用して線形等の改良を行ない、地形等の影響で線形の大幅な改善が必要な区間は新線を建設して切り替えるものとされた。新線の建設にあたっては特に工期のかかるトンネル等を優先的に着工し、計画が具体化した時点でその他の部分を順次着工する方針が採られていた。
ところが、北陸新幹線の高崎〜長野間が全線フル規格で建設されることになると、その他の整備新幹線もフル規格化しようとする動きが活発となり[21]、JR各社による国鉄債務の償還金を国の債務解消ではなく整備新幹線の建設費に充てる方針が固まったこともあり(これは自民党議員による活動の「成果」であることが報道されている)、事業中の整備新幹線は一転して軒並フル規格で建設されることとなった(ただし、地元負担等の問題で、後述する長崎方面への延伸についてはスーパー特急方式とされている)。
先行着工されていた区間は鹿児島本線の山間部だけではなく、東北本線の沼宮内駅(現:いわて沼宮内駅)〜二戸駅間(いわゆる「奥中山越え」)や北陸本線(石動付近など)にも存在する。しかし、東北本線については前後の区間が比較的短かったことから東北新幹線の延伸(盛岡駅〜八戸駅間)という形で開業し、北陸新幹線についてはその区間だけを開業してもあまり効果が見込めないことから、金沢までを一括して開業するものとしてその他の区間の工事に着手した。一方、九州新幹線鹿児島ルートについては、山陽新幹線との接続には都市部での用地買収に相当の期間と費用が必要であり、連絡特急と直結することによってもそれなりの効果が見込める[22]として、「飛び地」状態での部分開業となった。
ただし、「難工事区間」の先行着工そのものが整備新幹線建設の既成事実作りであるともされている[誰?](「既成事実」としては、このほか金沢駅や福井駅の「駅改良」にも「準備工事」の形で見ることができる)。整備新幹線の項も参照のこと。
なお、新鳥栖駅(仮称)〜武雄温泉駅〜長崎駅間のいわゆる「九州新幹線長崎ルート」(西九州新幹線とも呼ばれる)に関しては、着工認可の条件とされる『並行在来線沿線自治体すべての着工同意』に対して鹿島市などの複数の沿線自治体が不同意を貫いていたが、並行在来線をそのままJR側が運行することで合意にいたり、2008年にようやく着工となった。
しかしながら鹿児島ルートと異なり、路線距離が短い事から費用対効果に対する疑問等もあり、長崎・佐賀両県民の間には建設不要論者も多く、推進派の各県や自治体との溝は大きい。[要出典]
[編集] 筑後船小屋駅(九州新幹線)
九州新幹線の筑後船小屋駅は、それまでの船小屋駅を約500メートル南に移設し開業したが、移設前の船小屋駅は、駅周辺に小さな温泉街と公園があるだけの無人駅であった。さらに、同じく新幹線駅となる久留米駅までの所要時間は各駅停車で約15分であり、新駅設置の意義について疑問視する意見が多い[誰によって?]。一説には自由民主党幹事長を務めた古賀誠による影響が大きいとされ、「政治駅」的設置として一部週刊誌では報道されている[23]。また船小屋駅は各駅停車のみ停車する駅であったが、筑後船小屋駅は開業後、在来線の快速列車が全停車する駅となった。
[編集] リニア実験線
ジェイアール式マグレブによる磁気浮上式リニアモーターカーの実験線が長大なトンネルをうがって建設されているのは、設置場所の選定当時の有力政治家であった金丸信の地元山梨である。実験線建設地選定にあたっては、当初は札幌‐新千歳空港間が最有力視されていたので、これも政治介入の結果と言える。
しかし、これもトンネル区間が多い方が技術試験を行う実験線としては有効であり、また人口の比較的少ない山梨県でほとんどトンネルの区間を建設するだけならば、用地買収や騒音にまつわる問題や手間が少なくて済むという考え方がある。同線は将来、リニアモーターカーによる中央新幹線が開業した場合の予定線上に建設されている。トンネル断面も、仮にリニアモーターカー路線計画が頓挫した場合には大規模な再掘削を行わずに鉄軌道式の新幹線へと転用できるようにという配慮から、リニア車体に対して大き目のサイズで設計されている。
ただし、中央新幹線の完成線のルートについては、JR東海側は南アルプスをトンネルで直進・縦断するルートを基本的に計画しているものの、長野県と中央本線沿いの地方自治体は既存の中央本線に沿って南アルプスを北方に迂回する伊那谷経由のルートによる路線敷設と県内への複数の駅設置を熱望して対立し、JRの計画線上にある飯田市などの下伊那郡の自治体と、長野県の構想線上に位置し駅設置を主張する諏訪地域(諏訪市など)・上伊那郡の自治体もまた路線誘致で争う状態が見られた。他方では、この問題について伊那谷経由を主張する長野県庁や当時の同県知事である村井仁の態度・主張が余りにも頑なであった事などから、噂程度のものとはしながらも、「JR東海が長野県を忌避して、山梨県から南下し南側の静岡県を通過して愛知県に至るルートを採る可能性」、すなわち、いわゆる鉄道忌避とは逆に「鉄道側が地方政治を忌避してルートを選ぶ可能性」について、一時はマスコミが言及する状況も見られた[24]。
生前の金丸信が当時運輸大臣であった石原慎太郎の元へ「中央リニア新幹線の着工と甲府附近への駅設置」を申し入れに行ったところ、石原が「リニアを造ったとしても、そんなに近距離に駅を作ったらリニアの意味がない(つまり、東京大阪間の超高速大量輸送が主眼であるリニア新幹線に、東京から近い山梨に駅を設置した所でリニアの超高速のメリットが減殺されるだけ)」と一蹴したため、金丸は大いに狼狽していた、という逸話を石原自身が語っている。[要出典]
[編集] 新幹線と沿線の住民・地方行政をめぐる諸問題
新幹線の建設、特に全線在来線とは別線となるフル規格の新幹線は大規模な土木・電気工事、駅建設による建築・設備工事だけでなく、地元の地方自治体が行う駅前広場整備や取り付け道路の建設(これは地元の地方自治体が行う)、付随して発生する駅前整備・都市再開発計画・区画整理事業、駅周辺の各種商業施設の建設などで、直接は新幹線工事に参加できなかった地元の中小建設業者にも様々な仕事が廻ってくる。また、観光産業の振興にとっても新幹線の開通は大きなファクターとなり、新幹線の開通に合わせて様々な観光施設の開発が行われる。これらが経済活性化の即効薬となると考えている者は国政・地方行政いずれでも珍しいものではない。また、そのようなこともあり、「新幹線」は各種選挙における集票のアイテムとしても機能する。与野党を問わず、予定沿線地域選出の国会議員の多くが莫大な費用を要するにも関わらず、敢えて地元への新幹線網拡大や新幹線駅の設置を推進しようとする、また知事など地方自治体の首長が自身の地元への新幹線建設やその停車駅の設置を目指して陳情を繰り返してきた背景はここにある。
新幹線開通を地域の慶事であるとして、『新幹線音頭』などと称する、地元への新幹線の開通を記念し地域の発展を願う歌詞の盆踊り歌まで作り踊っている地域もある[25]。つまり新幹線はこれまで、「地域おこし」の特効薬として幅広く人々から認識されてきたということである。
しかしながら新幹線の建設・開業について、必ずしも地域の繁栄に直結するとは言えない状況や地方住民にとってのマイナス面が、開業後に研究者やマスコミ等報道機関によって暴露されることが見られる様になっている。
現実に新幹線開業後、新幹線の各停車駅の多くではそれ以前よりも利用客が増加し、多くの観光客が訪れ、その経済効果は大なるものがある。だがそれゆえに、一方で建設予定の新幹線を巡っては、ルートや停車駅を巡って地元地域で様々な軋轢が発生する事も相変わらず多い。極端な場合には、フル規格新幹線・ミニ新幹線の選択に始まり、そのルート選定・駅設置計画・駅名に至るまで様々な軋轢が起き、一部自治体の行政・観光関係者などにより、一種の地元エゴの形となって公衆の面前に現れる事もある。これは新幹線誘致でも熾烈な「我田引鉄」が行われている事を、図らずも体現しているものといえる。
新幹線建設について、フル規格かミニ新幹線か検討が重ねられている段階で、
- フル規格での建設となった場合、地元駅に新幹線ホームが設置されないか、あるいは市内(あるいは地元自治体の域内)に新幹線の停車駅が新設されない
- さらには根本的に地元市域を通過しない[26]ルートである為、新幹線駅が後付けで設置される可能性も無い
- 新幹線開業以前には在来線特急停車駅であった駅が、フル規格で開業した新幹線の経由地から外された事で地域の代表駅の地位を喪失してしまう
- 地域レベルの地方行政・経済・発言力における地盤沈下が起きる
- 新幹線駅が設置された近隣の都市では都市開発や企業誘致が進展し経済力・利便性が向上し、観光客の流動の変化・企業の営業拠点の新設・大型商業施設の新規開店などが発生し、新規の雇用が創出され、地域経済に占める比重が大きくなり、地方行政における存在感や影響力が増大する
- 対照的に地元からはこれらが減少し、企業拠点・商業施設の新幹線駅周辺への流出が起き、経済規模や雇用が縮小し、地域レベルでも存在感や影響力を喪失してゆく
- 地方自治体は「新幹線誘致」という目的を掲げ地域住民を結束させ、不退転の構えで誘致運動に多額の予算と膨大な人的エネルギーを投入するため、新幹線誘致の失敗は地域を経済的・精神的に大いに疲弊させるだけの結果になる
- 誘致合戦に敗れた場合、「新幹線が停まらない」という現実を前にした地元住民の不満・不信が一気に噴出する事態を招くリスクを行政や自治体首長は抱えることになる
- 新幹線誘致運動の音頭を取った首長・政治家にとっては、その成否が自身の評価や後々の選挙にも響いてくる
この様に、地元が新幹線の恩恵に与れずに衰退・混乱する事態を恐れ、「新幹線計画から我々の地元駅を外す事による産業・観光への打撃は、我が市のみならず地域全体の経済に大きな打撃を与える」などという旨の主張を行い、フル規格新幹線の場合にはその計画ルートから外される可能性が濃厚な在来線沿線地域[27]の行政・観光の関係者が「フル規格化反対」やさらには「ミニ新幹線規格以外の新幹線そのものに反対する」と主張して陳情を繰り返すなど、端的にいえば「おらが町に停まらない新幹線ならば建設絶対反対」というまさに「我田引鉄」を地で行く運動を繰り広げたケースも見られている[28]。
地方に新設される新幹線のルート・駅位置の選定を巡って予定線沿線の都市間で繰り広げられる誘致合戦は、上述の通り特に敗れることは即ちその地方都市の疲弊と衰退の将来を意味するだけに熾烈なものとなることが多い。この様な形で、実際に新幹線の建設ルートから外され「疲弊した地方」の象徴的な存在といえるのが鹿児島県阿久根市であり[29]、阿久根駅が九州新幹線のルートから外され特急列車の停車がなくなり、高速道路の阿久根インターチェンジもまた開通の目途が立たない状況の地方都市で繰り広げられた、いわゆる「ブログ市長」の市政運営を巡る大混乱はつとに知られている。また、新幹線ルート上にあっても駅が設置されなかった自治体では、地域の発展から自らの自治体が取り残されることを恐れ、新幹線開通後も地元への駅新設が市政における大きな課題となることも珍しくない[30]。
他方では、新幹線開業で大都市への交通が至便となった結果、地方から企業支店・出張所が撤退したり、若年層が流出していくストロー現象も生じつつある(この現象は高速道路の建設でも同様に発生している)。[要出典]
近年の整備新幹線開業に際しては、並行在来線を第三セクター鉄道として地元負担で維持する必要も生じたが、大きなパイである拠点間輸送が新幹線に移行した結果、ローカル輸送頼みの並行在来線は経営基盤が脆弱化し、各地の地方自治体が多額の費用拠出を強いられるなどして対応に苦慮している。
既存の新幹線でも同様に、新幹線沿線地域を票田とする政治家が、地方経済の活性化という大義名分を掲げて、地盤とする選挙区内への新駅開業や、既存の地元駅への速達列車[31]の停車をJRや国土交通省に要望したり、選挙公約として掲げたり、同様に住民や地方自治体が陳情を繰り返す事も時に見られる。また、県庁所在地規模の都市でも、速達列車の停車や場合によっては全列車停車を県知事などが強硬に要求することも見られ、これに関連して静岡県では、2002年12月9日の静岡県議会で、当時知事であった石川嘉延が「のぞみ」が静岡県内に停車しないことに強い不満を述べ、「のぞみ」の乗客を狙い撃ちで課税する地方税「のぞみ通行税」の新設を唱える一幕があった。
また、この静岡県の例のみならず、国政やJRとの駆け引きの材料として地方自治体の首長が「新幹線建設」「停車駅建設」「速達列車停車」を持ち出すことは少なからず見られる。例えば福井県においては原子力行政と絡められ、新幹線とは無関係な原子力発電関連施設(もんじゅ)の運転再開への事実上の交換条件として、政府による「北陸新幹線の敦賀駅までの建設決定」という言質を県知事の西川一誠が強硬に要求したことがある[32]。
しかし、速達列車の途中停車駅を絞る事は新幹線を超高速鉄道として機能させている重要な要素の1つであり、新駅・ホームの建設や停車駅追加は、その駅を利用しない乗客に対しては「高速性」「速達性」という新幹線本来の目的や利点を損なわせるという矛盾を内含している。このため、国政・地方行政が構想・主導する無秩序かつ安易な新幹線新駅の設置や速達列車の停車駅追加などの要求に対してはJR各社は消極的な態度を示す傾向がある(ただし、JR九州における九州新幹線のように、地元の新幹線駅設置要望に積極的にこたえている例もある)。また、停車駅を巡る諸問題や路線の新設・延伸は鉄道会社にとっては長期的な経営計画などの根幹部にも関わってくる問題であることから、JR各社は政治家や首長の介入を嫌う面がある。ただし一方では、地方自治体も整備費用を一部負担する整備新幹線の区間で、地元議員や自治体の意向を汲む形で駅が多数建設されたり、速達列車の停車駅も増加する傾向がある。整備新幹線区間では新規路線にも関わらず最高運行速度260km/hで設計、整備されるなど、速達性を犠牲にしている面がある。
他方で、斎藤淳による実証研究によれば[33]、新幹線の開通した地域では、自民党の集票基盤が弱体化しており、鉄道インフラの迅速な整備は必ずしも同党の党略視点においては選挙対策として有効ではなかった可能性が示されている。
[編集] 脚注
- ^ 「我が票田に鉄道を引く」とも解釈された
- ^ 当時の地方路線建設においては東海道本線などの幹線とは異なり、道床などの整備が脆弱であった。そのため冬季に道床内の水分が凍結して氷となった場合、氷は質量が水と同じでも体積は大きいので道床などが変形し、それに伴いレイルが曲がる現象が起きていた。--『封印された鉄道史』(p39, p40)
- ^ ただし、鉄道とほぼ並行する形でバスが頻繁に運行されていることからもわかるように、沿線の交通需要自体が乏しいわけではない。現在閑散線区となっているのは、あくまでも運営企業の経営政策上の結果と考えられる。
- ^ 世界のトンネル技術者の間では『ナベタチヤマ』と通じる程の歴史に残る難工事であった。
- ^ 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1986年8月号(通巻467号)p10-15 中川浩一 中央線開業の歴史過程
- ^ また、長大な片勾配トンネルとなるため、運転についても当時の蒸気機関車では乗務員の窒息事故などの危険がつきまとうという安全面での大きな問題もあった。
- ^ ただ、大聖寺駅は加賀市中心部の最寄り駅であったことからその後も急行列車は引き続き停車し、1982年11月に急行が廃止された後は特急の一部が停車するようになった。
- ^ この事は旧制「南部町誌」(非売品、町営図書館などで閲覧可)にも記載されている。
- ^ 瀬古は新潟県史編さんにおいて多くの文献に接する機会があり、1980年代以降の市町村史は文書の裏付けのないものは、掲載しないか「言い伝え」と断って掲載されるものが多くなったという。瀬古21頁
- ^ 『日本の鉄道史セミナー』(p10)
- ^ 『日本の鉄道史セミナー』(p20)
- ^ 「整備新幹線計画」をもじって政治新幹線と通称される。
- ^ 戦前、京阪によって計画されたが結局未成に終わった名古屋急行電鉄のルートもそれに近い。
- ^ 京阪本線鳥羽街道駅付近を通るルートや、現在の京滋バイパスのルートなど、諸説ある。
- ^ 2008年3月14日以前は一部の列車(主に山陽新幹線直通列車)が2003年に新幹線のホームが開業した品川駅と連続停車、それ以外の列車はいずれかの駅の停車であったが、同年3月15日のダイヤ改正で、品川駅と共に全列車停車になった。一方、新神戸駅は「のぞみ」の停車駅になった当初から全列車が停車している。
- ^ 川島令三『新幹線はもっと速くできる』中央書院、1999年、23-24頁。
- ^ 岡山 - 博多間開業当時の駅間隔の平均は39.3km。
- ^ 「博多へ伸びる新幹線 - 山陽新幹線はこのように建設される」(佐藤能章・鉄道ジャーナル1970年3月号)では岡山 - 博多間の停車駅決定について以下の条件をふまえて決定したとしている。1.現在の優等列車の停車駅。2.「こだま」の表定速度(当時130km/h)を維持できる停車駅数。3.県庁所在地またはそれに近い都市に近接している。4.在来線の分岐駅または道路との連絡が便利なところ。5.駅設置により旅客の誘発が見込まれ、これによる推定収入の増で全経費がまかなえること。6.駅間隔が過大・過小に失しないこと。
- ^ 東北新幹線の建設は当初東京〜仙台のみの予定であった。
- ^ ただし、長岡駅周辺ではストロー現象による人口減少や商業の衰退などが問題となっているほか、北越急行の開業によって北陸方面との接続駅としての地位を越後湯沢に奪われたため、駅周辺の以前の賑いは失われている。
- ^ スーパー特急規格でもフル規格と比べて建設コストの削減効果が余り見込めないことも理由に挙げられる。
- ^ 元々鹿児島本線の八代以北は田原坂附近を除いて線形が良好で、当初計画では博多駅から八代駅までは既存の鹿児島本線の線路を利用することになっていた。
- ^ 週刊新潮2007年11月9日号など
- ^ 【笠原健の信州読解】リニア新幹線が長野県を迂回するという噂の真実度は? - 産経ニュース2010年3月22日
- ^ 例えば『東北新幹線音頭』『新幹線喜び音頭』など。
- ^ たとえ地域内を通過していても、市中心部からほど遠い山中など駅設置には不適な場所しか通っていない事もある。
- ^ 逆に在来線利用のミニ新幹線規格ならば、地元駅が新幹線停車駅になり得る地域でもある。
- ^ 例:鹿児島県阿久根市、長野県小諸市、佐賀県鹿島市
- ^ 社説:阿久根市長選挙 くむべき教訓は大きい - 毎日jp(毎日新聞) 2011年1月18日
- ^ 例:長野県千曲市[1]。
- ^ 「はやて」・「のぞみ」など。
- ^ 新幹線見送りなら「もんじゅ」監視強化…福井県 - 読売新聞社 2010年12月23日
- ^ 斎藤淳『自民党長期政権の政治経済学』第6章での固定効果付回帰分析によれば、新幹線開通自治体で与党得票率の有意な低下が見られた。なお同書第7章では、1993年の自民党分裂に際し、新幹線沿線選挙区選出議員の離党確率が有意に高かったことが示されている。
[編集] 参考文献
- 青木栄一 『鉄道忌避伝説の謎-汽車が来た町、来なかった町』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 222〉、2006年。ISBN 464205622X。
- 小川裕夫 『封印された鉄道史』 彩図社、2010年6月18日、第1刷。ISBN 978-4883927425。
- 久保田博 『日本の鉄道史セミナー』 グランプリ出版、2005年5月18日、初版。ISBN 978-4876872718。
- 斎藤淳 『自民党長期政権の政治経済学-利益誘導政治の自己矛盾』 勁草書房、2010年。ISBN 4326301902。
- 瀬古龍雄「鉄道忌避伝説と地域社会-新潟県における実態-」『鉄道史学』No.12、1991年