ノート:東海道

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武蔵国の東海道への移管について[編集]

武蔵国が東山道から東海道に移管された契機が知りたいですね。私の知っている説では、縄文海進以降の陸化の進展とそれに伴う低湿地の開発の進展により、それまで通れなかった(旧)利根川、荒川下流部が通れるようになったため、相模国から房総への駅路を走水回りから、葛飾回りに変更し、通過する武蔵国も東海道に編入したというようなものです。--Njt 2004年11月10日 (水) 01:57 (UTC)[返信]

追記していただいてますね。--Njt 2006年9月20日 (水) 08:26 (UTC)[返信]

記述への疑問_2006年10月[編集]

☆「東海道本線の建設過程で、東海道ルートと中山道ルートの入れ替えが起こった」

→「入れ替えが起こった」で何を伝えようとしているのか,意味不明です。

東海道本線に関しては,東京ー関西間の鉄道を敷設するという話が出発点で, そこで浮上したのが,中山道ルートと東海道ルート。 国防上の理由から,中山道ルートを採りたかったのだが, 碓氷峠と和田峠等の通過が当時の技術において困難だということで, 結果,ほぼ東海道と重なるルートでレールがひかれたというのが事実です。 別に東海道と中山道の入れ替えを図ったわけではありません。 敢えて書くのであれば 「東海道本線は,当初中山道ルートでの敷設を企図したが, 結局果たせず,新橋~熱田間は,ほぼ東海道五十三次をなぞる現行のルートが取られることとなった。」 ではないか。

☆「第二次大戦後に建設された高速道路では、東京から名古屋までの東海道ルートに東名高速道路が建設された。ただし、名古屋以西の路線は、名神高速道路が中山道ルートに、東名阪自動車道・名阪国道・西名阪自動車道が東海道ルート(名阪国道は律令時代(奈良期)の東海道に沿っている)に建設された。」

→言いたいことが意味不明です。 東名や名神は,名前に「東海道」を冠していないことからも分かるとおり, これら高速自動車国道は,東海道とは一応無関係です。 当時の建設白書等をひも解いても,どこにも「東海道のバイパス機能」的な文言はでてきません。 そもそも,名神高速自体,通称名であり,正しくは中央高速の一部であって 「中央自動車道西宮線」です。 ルーツ的にも, (1)東京→富士吉田→南アルプス越え→伊那谷→恵那山越え→小牧→京都→西宮 という中央自動車道の構想がまずありきで(注) (2)難工事が予想される南アルプス越えを後回しにして, 西宮→小牧間,東京→富士吉田間を先行着工するとともに, 中央自動車道の並行路線として東名高速を計画・工事し,東名経由で東京~関西間の交通を確保。 (3)中央高速の南アルプス越えルートを諏訪湖周りコースに変更 というものです。 敢えて書いたとしても 「道路運送において東海道が果たしていた役割は今日では東名高速・名神高速が引き継いでいる」 程度のものであり,それ以上関連付けて書くのはナンセンスです。

「東名阪自動車道・名阪国道・西名阪自動車道」に至っては,ほとんど東海道ルートから外れており, 全く論外です。

(注) 東京ー関西間の高速道路建設に際し,構想段階では,地形の良い東海道ルートと安価に土地収用が行える中央道ルートの2つの案が拮抗していました。 当初は,東海道ルートが有力だったのですが,昭和29年12月,第一次鳩山内閣の成立に伴い,建設相に就任した竹山祐太郎が中央道ルートを支持したことにより,中央道ルートで計画が進められることとなったものです。 また,東海道複々線化構想(後に東海道新幹線建設プロジェクト)があった当時,二重投資になってしまうことを懸念した当時の運輸省も,中央道ルートを推奨していた。

☆「名古屋~草津間の鉄道や高速道路が中山道ルートで建設された要因には、最初に建設された東海道本線が、大津~長浜間の琵琶湖の水運を利用して、早期に東西間を結ぼうとしたことがある。また、新幹線や高速道路の場合は、米原が中山道と北陸道の分岐点、岐阜が中山道と美濃路の分岐点、名古屋が東海道と美濃路の分岐点であったため、これら内陸側と沿岸側との連絡を図る目的もあったとされる。」

→上に書いた説明を読んでいただければ分かると思いますが,この根拠は全く不明です。 内陸側と沿岸側との連絡を図ることが目的であるならば, なぜ,東海道五十三次が美濃路経由にならなかったかという問いにもなってしまいます。

→そもそも東海道新幹線は,距離が短い,雪害が少ない等の理由で,鈴鹿峠経由で敷設が検討されていました。 今のように米原経由になった最大の理由は,鈴鹿峠トンネルの掘削が,技術的・コスト的・時間的に困難だったからです。

☆明治以降の東海道で触れるべきとすれば,むしろ「明治の東海道」(宮~桑名間)の存在についても言及すべきではないでしょうか。

☆明治時代に,急に国道1号線&15号線に指定されたわけではありません。

 ○明治18年~大正19年:日本橋~神奈川…国道1号線,日本橋~神奈川~三条大橋~大坂…国道2号線

 ○大正19年~昭和27年:日本橋~三重県日永…国道1号線,日本橋~三重県日永~七条大宮~鹿児島…国道2号線

 ○昭和27年~現在:日本橋~神奈川…国道15号線,神奈川~五条堀川~大阪…国道1号線

--以上の署名のないコメントは、121.105.54.24会話/Whois)さんが 2006-10-09 13:35:58 (UTC) に投稿したものです。

揚げ足を取るつもりはないものの[編集]

隅田川東岸のにならず埼玉県北葛飾郡も下総国と言うことになりますね。詳細は調べないといけないものの、春日部あたりもそうだったのかな。--nick_after7 2007年1月13日 (土) 07:18 (UTC)[返信]

律令時代の中路って別の言い方はできないのでしょうか[編集]

中路について調べてもネットでは適切な説明がなく主な道路だったと言い換えできるのではないか --ほどがやざさん会話2022年10月26日 (水) 23:04 (UTC)[返信]