宝永地震
| 宝永地震 (宝永東海・南海地震) |
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|---|---|
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| 本震 | |
| 発生日 | 1707年10月28日 |
| 発生時刻 | 13 - 14時 (JST) |
| 震央 | 北緯33度12分0秒 東経135度54分0秒座標: 北緯33度12分0秒 東経135度54分0秒 |
| 規模 | (M9?) M8.4 - MW8.7 |
| 最大震度 | 震度7: 遠江袋井、三河野田、河内布施、土佐室津・宿毛大島 |
| 津波 | 最大25.7 m |
| 地震の種類 | 海溝型地震 逆断層型 |
| 被害 | |
| 死傷者数 | 死者 5,000 - 20,000人 |
宝永地震(ほうえい じしん)は、江戸時代の宝永4年丁亥10月4日壬午の午下刻 - 未上刻(1707年10月28日13 - 14時頃[注 1])、遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度 [注 2])を震源として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、かつては記録に残る日本最大級の地震とされてきた[1][2][3]。地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。
南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震が発生している。
目次 |
[編集] 地震
[編集] 地震動
土佐は当日、晩秋でありながら快晴で袷一つで済むような暑い日であったという。『万変記』(『弘列筆記』)には「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事、将棋倒を見るが如し」とある[4]。
震動時間は土佐国高知(現・高知県高知市)において「半時ばかり大ゆりありて、暫止る」(『万変記』)、土佐国高岡郡の宇佐村(現・土佐市宇佐)では「未の上刻[注 3]より大地震 同時ノ中刻に静まる」(『今昔大変記』)など、30分から1時間も揺れが継続したような表現が多く見られるが、「又暫くしてゆり出し、やみてはゆる、幾度といふ限なし、凡一時の内六七度ゆり、やまりたる間も、筏に乗たるごとくにて、大地定らず」(『万変記』)といった記録もあり、これは直後の余震活動をも含めた時間を表しているとされるが、現代ほど厳密な時刻を求めない時代にあって感覚に頼る部分が大きく、あるいは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある[5]。本震の有感であった継続時間として確からしい記録として高岡郡佐川村(現・佐川町甲[注 4])において「行程に積らば二百歩を過ぐ可か やや久敷く震動す」(2分余、『宝永地震記』)、あるいは、京都において「地震動は道を七 八町歩くくらいゆれつづいた」(約10分、『基煕公記』)といった記録がある。
[編集] 震源域
激震域や津波襲来の領域が安政東海地震と安政南海地震を併せたものにほぼ相当することから、フィリピン海プレートが沈み込む南海トラフ沿いで東海地震(現代でいう東南海地震も含む)および南海地震が連鎖的にほぼ同時に起きた東海・東南海・南海連動型地震と考えられてきた。東海地震と南海地震が時間差で発生した二元地震と考えられたものの、九州から関東における地震の発生時刻の記録からは時間的に分離できないとされている[6]。
1854年の安政東海地震とは異なり、震源域は駿河湾奥までは達していなかったと推定されている[7]。一方で地球シミュレータの計算結果により九州における津波や津波湖の遺跡は震源域を足摺岬沖よりさらに西側の日向灘沖まで延長しないと説明できないとする説も浮上し、震源域の長さは600kmよりさらに伸びて、700kmに達するとされる[8][9][10][11]。
このような巨大地震は明治以降の近代観測の中では知られていなかったが、2011年(平成23年)に発生した東北地方太平洋沖地震は巨大地震のメカニズムに対し新たな知見を与えるものとなり[12]、また南海トラフにおいても過去に宝永地震と同等またはそれ以上と考えられる過去の複数の地震痕跡が発見された[13]。
[編集] 規模
マグニチュードは8.4ないし8.7と推定されているが、歴史地震であるため地震計などの観測網がない時代にあって古文書による各地の記録に基づく推定震度や津波の規模による推定で、かつ、マグニチュードの飽和が見られる巨大地震であるからその数値は不確定な要素を含む。
河角廣はMK = 7としてマグニチュード M = 8.4を与えていた[14]。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、昭和地震より規模が大きいことから8.4に近いであろうと推定したが、この時代はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年のチリ地震もM 8.5とされていた[15]。その後、マグニチュードは8.6[16]に変更され宇津徳治(1999)はその根拠を示していないが、安政東海地震M 8.4と安政南海地震M 8.4のエネルギーを足し合せたものと考えられている[17]。
津波の研究から南海トラフ沿いに3個あるいは5個の断層がほぼ同時に出現したとする説があり、5個と推定した場合のうち1つは断層の食い違いの長さU=7.0m、断層面の面積はS=1.1×104km²と推定されている。また、各断層個別のモーメントマグニチュードMwは駿河湾沖から四国沖にかけて、それぞれ 8.1、8.3、8.2、8.3、8.3 (合計でMw8.7)と推定しているが[18]、これも安政東海地震と安政南海地震を基に推定したものであり、その安政地震の断層パラメーターも1944年東南海地震および1946年南海地震を基に推定したものであった[19]。また、日向灘まで延長した断層モデルも提唱されている[20]。
| 北緯 | 東経 | 深さ | 走向 θ |
傾斜角 δ |
すべり角 λ |
長さ L |
幅 W |
すべり U |
地震モーメント M0 / 1021N・m |
Mw |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 35.14° | 138.73° | 2km | 198° | 34° | 71° | 115km | 70km | 4.0m | 1.6 | 8.1 |
| 33.90° | 138.13° | 3km | 245° | 24° | 113° | 150km | 100km | 4.0m | 3.0 | 8.3 |
| 33.41° | 136.15° | 10km | 250° | 10° | 124° | 150km | 70km | 5.6m | 2.9 | 8.2 |
| 33.40° | 134.57° | 1km | 220° | 20° | 90° | 140km | 80km | 7.0m | 3.9 | 8.3 |
| 32.33° | 133.57° | 1km | 240° | 20° | 90° | 60km | 80km | 13.9m | 3.3 | 8.3 |
震度5の分布面積を楕円近似してS5 = π×420×330 km²として松村(1969)の式[23]でマグニチュードを推定するとM 8.8となり、震度6の分布面積ではS6 = π×350×250 km²としてM 8.9が見積もられている[2]。
石川有三(産総研)は、古文書の記録から推定した震度6以上の地域の距離と余震域の面積から、宝永地震の規模はそれぞれM 9.1、9.2と算出したと、2011年の日本地震学会で発表した[注 5][24][25]。
[編集] 被害
震度6以上と推定される地域は、駿河から西の東海地方沿岸部から、大阪平野、奈良盆地、紀伊半島、四国まで及び、さらに甲斐、信濃、出雲杵築地方や豊後にも一部震度6と推定される地域が分布した。江戸、京都でも震度4- 5と推定される。震度4以上の領域は九州から甲信越に及び、陸奥国の八戸(現・青森県八戸市)においても有感であった[6][26]。地震の揺れによる被害は、東海道、伊勢湾沿い、および、紀伊半島で最も顕著であった。家屋倒壊は駿河から土佐まで著しく、被害は出雲、越前、信濃など五畿七道に及ぶ[27][28]。
安倍川上流の大谷崩はこの地震で大規模に崩壊し、富士川も山崩れのため堰き止められた[2]。東海道の被害状況は駿河以西で顕著であった[4]。
尾張藩の奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』によれば、書院で夕飯の酒が一回りする頃、東北から鳴響いて震い出した。次第に強くなり鎮まらないので庭へ飛降りると、揺れが倍となり歩く事も出来ないほど揺れたと云う。さらに、名古屋城三の丸が火事になり、城下では武家屋敷の塀の7-8割が崩れ、地面が裂け、泥が湧き出した様子が書かれている[29]。讃岐では、五剣山の一角が崩壊したと云う。広島では酒屋、醤油屋などで樽中のもの半分を失い、広島城の堀の水が溢れて路上を浸し、石壁も崩壊した(『廣島市史』)。
| 宿場町(推定震度)[6] | 被害の記録(『谷陵記』) |
|---|---|
| 江戸(4-5) - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原(5) - 箱根(5) - 三島(5) - 沼津 - 原(7) | 小地震 |
| 芳原(7) | 家倒ル、死人ナシ |
| 神原(5-6) - 油井(6) | 破損、清見寺膏薬屋、不残潰ル |
| 澳津(6) - 江尻 - (府中)(6) - (鞠子)(5-6) - 岡部(6) - 藤枝(6) - 島田(6) - 金谷(6) - 日坂(6-7) | 家大ニ倒ル |
| 懸川(6-7) | 家大ニ潰ル |
| 袋井(7) | 不残潰 |
| 見附(6) - 浜松(6-7) - 舞坂(6-7) | 半潰レ |
| 荒井(6-7) - (白須賀)(7) | 津浪打テ、御番所流ル |
| 二川(5-6) | 半潰レ |
| 吉田(7) | 吉田城潰ル、町家モ大ニ破損 |
| 御油(5) - 赤坂(5) - 藤川(5) | 事ナシ |
| 岡崎(5-6) | 小破、橋落ル |
| 池鯉鮒(5-6) | 事ナシ |
| 鳴海 - 宮 | 半潰レ、大垣城破損 |
| 桑名(6) | 事ナシ |
| 四日市(6-7) | 四日市マデ橋ナシ、半潰レ |
| 石薬師 - 庄野 - 亀山(5-6) - 関 - 坂下 - 土山(4-5) - 水口 - 石部 - 草津 - 大津(5-6) | 小破 |
| 京都(4-5) |
| 街道 | 推定震度[2][6] |
|---|---|
| 畿内 | 京都(4-5), 淀(6), 高槻(5-6), 大坂(6), 布施(7), 岸和田(6), 奈良(6), 郡山(6), 吉野(5), 尼崎(6), 兵庫(4) |
| 東海道 | 水戸(S), 銚子(4), 佐原(E), 岩槻(E), 青梅(E), 秩父(E), 石和(6), 河口湖(5-6), 甲府(6), 名古屋(6), 野田(7), 津(6), 松阪(6) |
| 東山道 | 八戸(e), 盛岡(S), 余目(e), 日光(e), 茂木(E), 軽井沢(4), 追分(4), 松代(5-6), 松本(5-6), 諏訪(6), 高遠(5-6), 飯田(6), 福島(e), 妻籠(E), 平湯(5-6), 高山(5), 白鳥(E), 大垣(6), 垂井(5), 長浜(6), 彦根(5-6) |
| 北陸道 | 富山(5-6), 福光(E), 輪島(E), 金沢(E), 大聖寺(5-6), 大野(5-6), 敦賀(5-6), 小浜(5-6) |
| 山陰道 | 柏原(5), 鳥取(E), 松江(6), 出雲(6) |
| 山陽道 | 明石(5-6), 龍野(5), 赤穂(5-6), 津山(5), 岡山(5-6), 藤戸(5-6), 福山(5-6), 因島(5), 三原(5-6), 下市(5), 広島(6), 加計(E), 柳井(4-5), 秋穂(E) |
| 南海道 | 新宮(6-7), 勝浦(6), 椿(6), 田辺(6-7), 印南(6), 有田(6), 和歌山(5-6), 高野(5-6), 洲本(5), 徳島(5-6), 海南(5-6), 高松(6), 丸亀(5-6), 今治(5), 松山(5), 大洲(5-6), 吉田(5-6), 宇和島(6), 室津(7), 安芸(6), 高知(6-7), 佐川(5-6), 須崎(6), 窪川(6), 中村(6-7), 中浜(6), 宿毛大島(7) |
| 西海道 | 小倉(E), 福岡(e), 鹿島(S), 平戸(E), 長崎(E), 島原(4-5), 熊本(5-6), 植柳(4), 球麻(5-6), 人吉(5-6), 中津(E), 杵築(5-6), 岡(6), 大分(6), 臼杵(5-6), 佐伯(6), 延岡(5-6), 高鍋(5), 佐土原(e), 山田(7) |
| S: 強地震(3-4), E: 大地震(3-4), e: 地震(1-3) | |
[編集] 地殻変動
地殻変動は南上がりの傾動を示し、津呂、室津など室戸岬付近は7- 8尺(約2.1- 2.4m)、串本は約1.2m、御前崎では地盤が約1- 2m隆起し、「姥が懐」と呼ばれた大須賀の横須賀にあった入江の港は陸地となり使用不能となった[30][31][32]。
他方、浜名湖周辺や濃尾平野は沈降、高知東部で最大7尺(2m余)の沈降により約20km²にわたって浸水し、しばらく船で往来したという[2][3]。浜名湖北岸の気賀でも2654石の水田が沈下し湖の一部となった。 地震によって道後温泉の出湯は145日間止まり、紀伊国の湯ノ峰、山地、龍神温泉、瀬戸鉛山の湯などといった各地の温泉の出湯が止まるなど、異常が見られた[27]。
[編集] 前震
21年前の貞享3年8月16日(1686年10月3日)、遠江・三河地震 - M 6.5-7 は、宝永地震に先行して発生した内陸地震である[33]。
[編集] 余震
この本震の約16時間後には富士宮付近を震源とする強い地震 (M 7.0) があり、甲府盆地や富士宮などで寺社建造物の倒壊や死者の発生があった[34][35]。また、翌年の宝永5年1月22日(1708年2月13日)には宝永地震の最大余震と見られる紀伊半島沖を震源とする地震があり、津波も発生した[34][35]。
地震の49日後の11月23日(12月16日)には富士山の側面で大噴火(宝永大噴火)が起こり、江戸では数- 10数cmの火山灰が積もった。この噴火によって富士山には側火山である宝永山が出現した。
土佐における余震で顕著な強震を記録したものは以下の通り[5][36]。
- 宝永4年11月16日(1707年12月9日)、酉中刻(18時)、大地震に次いでの強震。
- 宝永4年11月26日(1707年12月19日)、朝巳の上刻(10時)また大いに地震す、巳時大地震16日に比べ又甚。
- 宝永4年12月11日(1708年1月3日)、夜半大震。
- 宝永5年閏1月1日(1708年2月22日)、震甚。
- 宝永5年閏1月2日(1708年2月23日)、辰の上刻(8時)甚震、亥刻震その後大震。
- 宝永5年2月25日(1708年4月16日)、夜寅(4時)の刻地震頗る大也。
- 宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。
- 宝永5年12月1日(1709年1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。
- 宝永6年3月11日(1709年4月20日)、卯刻(6時)、地震稍大。
- 宝永6年4月22日(1709年5月31日)、酉の下刻地震頗る大也、亥の刻(22時)又震、先の震より大也。
半年余り経た宝永5年3月頃でも毎日1-2あるいは5-6回の余震が続き、羽根(現・室戸市)では宝永5年8月・9月(1708年10月前後)でも少ない日は1-2回、多い日は6-7回の余震があった。3、4年の間は時々地震有り、『三災録』には「辰巳両年(正徳2、3年、1712年、1713年)も折々小震有り未だ治せず、午年(正徳4年、1714年)も同断、未年(正徳5年、1715年)に至りて治す」とあり、余震は8年後まで続き、享保元年(1716年)には一応収束した。
[編集] 誘発地震
本震に影響を受け、震源域および余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している[35]。
- 宝永地震の本震の23日後、宝永4年10月27日(1707年11月20日)、長門国佐波郡上徳地村(現在の山口県山口市徳地)で局地的な地震(倒壊家屋289戸、死者3人)。
- 宝永地震の本震の7年後の正徳4年3月15日(1714年4月28日)に信濃国安曇郡小谷村付近(現在の長野県北安曇郡小谷村域および白馬村域)でM 6程度の地震。
[編集] 津波
[編集] 波高
津波は伊豆から九州にわたる太平洋海岸沿いに加えて、伊勢湾、豊後水道、瀬戸内海、および、大阪湾まで入り込んだ。下田では5- 7m、紀伊半島で5- 10m、阿波で5- 7m、土佐で5- 8m(26mとも)と推定され、被害は特に土佐湾沿いで甚大であった[37]。須崎(現・須崎市)では遡上高18mと推定され神田村の諏訪神社が流された[38]。津波は済州島や上海に及び被害をもたらした記録も存在している[39]。
津波は土佐において半時(約1時間?)後の未の下刻(14時過ぎ)から翌日の寅の刻(4時頃)まで11回打ち寄せ、3番目のものが最も高かったとされる(『谷陵記』)。その後も弱い津波は続き、戌刻(20時頃)に至り漸く鎮まった(『宝永大変記』)[5]。
| 地域 | 推定波高・遡上高 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 古文書の記録 | 今村(1938) [40] |
間城(1995) [5] |
都司 [41][39] |
その他 | ||
| 伊豆下田 | 現・静岡県下田市 | 5.1m | ||||
| 遠江白須賀 | 現・湖西市 | 一軒も不残、汐見坂茶屋二間残『宝永地震記』 | 9.0m | |||
| 紀伊田辺 | 現・和歌山県田辺市 | 袋町長町も町半分浪入る其深さ三尺四五寸程なり『宝永四年、安政元年震災記』 | >1m | |||
| 阿波浅川 | 現・徳島県海陽町 | 大海ヨリ高サ三丈計ノ大汐指込『浅川観音堂・地蔵尊台石』 | 9m | |||
| 土佐室戸室津 | 現・高知県室戸市 | 耳崎ヨリ打入ル潮ニ、湊ノ東水尻ト云所ノ家流ル『谷陵記』 | 6.5m | 7.5m | ||
| 奈半利 | 現・奈半利町 | 浜ノ在家亡所、御殿辺ノ家流ル『谷陵記』 | 7.0-7.5m | |||
| 安芸 | 現・安芸市 | 半亡所、潮ハ田町十丁程迄『谷陵記』 | 5.6m | 7.0-10m | ||
| 夜須 | 現・香南市夜須地区 | 半亡所、横浜知切ノ家ハ悉ク流ル『谷陵記』 | 11-15m | |||
| 野市 | 現・香南市野市地区 | 潮ハ芳原境迄、家少シ流ル『谷陵記』 | 12-14m | |||
| 赤岡 | 現・香南市赤岡地区 | 潮ハ在所残ナシ、流家ハ三ヶ一『谷陵記』 | 9m | |||
| 高知沖 | 大浪打事都合六七度、其浪の高さ五六丈もあるべきや『万変記』 | 15-18m | ||||
| 種崎 | 現・高知市 | 亡所、一草一木残ナシ『谷陵記』 / 初度二度めは強からず、三度目の浪高サ七八丈ばかり『万変記』 | 23m | 11m | ||
| 高知 | 現・高知市 | 水深きこと、二丈に及びしと云ふ『土佐国史談』 | 5-6m | |||
| 宇佐 | 現・土佐市 | 亡所、潮ハ橋田ノ奥宇佐坂ノ麓萩谷口迄『谷陵記』 | 15.7m | 7.3-7.5m | ||
| 龍・青龍寺 | 現・土佐市 | 亡所、青龍寺客殿斗残、蟹ガ池海ニ没ス『谷陵記』 | 25m | |||
| 須崎 | 現・須崎市 | 亡所、潮ハ山迄(中略)湊ヨリ湧入ル潮ニ、溺死スル者三百余人、今在家モ亡所『谷陵記』 | 12.6m | 9m、 吾井郷13m |
神田18m | |
| 久礼 | 現・中土佐町 | 亡所、潮ハ南ハ逢坂谷迄(中略)北ハ焼坂ノ麓迄『谷陵記』 / 長沢ミドノコエツナミ『熊野神社震災碑』 | 焼坂ノ麓25.7m | 14-15m | ||
| 入野 | 現・黒潮町大方地区 | 亡所、潮ハ山迄、此浜ノ松林八幡賀茂ノ両社潮入ト云ヘドモ流レズ『谷陵記』 | 7.5-8.5m | |||
| 大岐 | 現・土佐清水市 | 亡所、潮ハ山迄『谷陵記』 / 念西寺の石段の最下段まで来る | 15-16m | |||
| 清水 | 現・土佐清水市 | 蓮光寺の石段を上より三段の所まで | 15m | |||
| 宿毛 | 現・宿毛市 | 亡所、潮ハ和田ノ奥、或ハ牛ノ瀬川ヲ限ル『谷陵記』 | 5-6m | |||
| 宿毛大島 | 現・宿毛市 | 当浦ハイタカ神社の石垣踏み段三つ残る『大島庄屋家記』 | 9m | 9.8m[42] | ||
| 日向土々呂 | 現・宮崎県延岡市 | 土々呂市振、波にとられ、家跡海に成、深さ壱丈『日向雑記』 | 3m | |||
[編集] 被害
土佐国の浦戸湾に面した種崎村[注 6]では波高7-8丈(23m)に達し[43]草木一本も残らず、浦戸湾から侵入した津波によって高知城下周辺は一帯が海となり、久万、泰泉寺、薊野、一宮、布師田、介良、大津の山の根まで浸水した。『谷陵記』には「堅固ニ設タル家ハ、地震ニ倒レ、或ハ破損、御城ハ全シ、潮ハ町ハ真如寺橋ヨリ北見通シ限リ 江ノ口堀筋ハ常通寺橋ヨリ、潮江川ハ常通寺島限リ、新町下知ハ海ニナル」との記録もある[4][44]。『南路志』の記録では須崎において新荘川筋は下郷村の天神宮より上方4 - 5町(海岸より約4.5km)、桜川筋では吾井郷村(あいのごうむら)の為貞(海岸より約2.5km)まで潮が入ったという。土佐久礼(現・中土佐町)では内陸の遡上高が25.7mに及び[43]、津波が大坂谷、焼坂、長沢まで押し寄せ、久礼八幡宮が流失し、死者は200人に上った[44]。『谷陵記』など古文書には、土佐の海岸各地で集落が全滅したことを示す「亡所」とか「潮は山まで」という記録が随所に見られる。『丁亥変記』には、10月26日に土佐藩が領内における被害状況を幕府に報告し、藩主山内豊隆は1年間参勤交代を免ぜられたことが記される。
『尾鷲組大庄屋文書』の記録では尾鷲で地震の1時間後に高さ1丈9尺(5.7m、8-10mとも)の津波が押し寄せ、1000人が流死した[45]。大坂では地震の約2時間後に津波が到達し、安治川や木津川の河口から市街地へ侵入した。河口に碇泊されていた船が上流へ押し流されながら衝突し、橋を破壊、溺死者は7000人余(『波速之震事』)、あるいは合計の犠牲者12000人(『寳永度大坂大地震之記』)、地震崩家14015軒、死人15260人(『谷陵記』)とする記録がある。ただし、『摂陽奇観』では大坂三郷の天満組において潰家993軒、死人540人と記録されており、大坂三郷全体ではその5倍程度とするのが妥当とする説もある[46]。
浜名湖が太平洋とつながる半島は津波によって切り離され、島となり、半島にあった新居関・新居宿と共に流失し、その後、移転を余儀なくされ、宝永5年正月(1708年)から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。この結果、新居-舞阪間の渡船路は一里半(約5.9km)となった[47][48]。
宇和島では本町、裏町、新町、弓町、糀崎まで大潮が入り、吉田浦では民家50軒が流失した(『谷陵記』)。豊後臼杵(現・臼杵市)では津波が臼杵城三の丸侍屋敷まで押し寄せた[49]。
地震および津波によって、合計で少なくとも死者2万人、田畑の損壊30万石を下らず、船の流出および損壊3000とされる[27]。各藩の損害の幕府への報告数など、確かな数字の合計では死者5000人余とされ、流失家約1.8万、潰家約5.9万、半潰・破損約4.3万、蔵被害約2千、船の流出および損壊約3900、および田畑の損壊約14万石および約1.6万町歩となる。その数字は幕府への報告時点では正しいとされるものの実際の総計は数十%多いと考えられる。また大坂の文献次第で全体の死者数は大きく変る[2]。
[編集] 地震痕跡
宝永地震や過去の南海トラフ巨大地震の津波堆積物や隆起痕など、地震の痕跡が東海地方から九州までの海岸沿いに見出されており、その間隔は300-400年程度で特に大規模な地震のみが痕跡を残したと考えられている。
- 浜名湖 : 津波堆積物[29]
- 静岡県湖西市、長谷元屋敷遺跡 : 津波堆積物
- 三重県紀伊長島町 : 津波痕跡
- 潮岬、出雲崎および荒船崎 : 生物遺骸群集の調査、隆起による離水の痕跡[50]
- 大阪府東大阪市、池島・福万寺遺跡 : 18世紀前半の砂脈
- 徳島県美波町、田井ノ浜の池 : 津波堆積物
- 室戸岬 : 18世紀前半の海岸段丘
- 高知県土佐市、蟹ヶ池 : 津波堆積物[13]
- 大分県佐伯市 間越龍神池 : 津波堆積物[51]
[編集] 経済への影響
この地震による『両替年代記』の記録は「十月十四日〔ママ〕 東海道大地震。大地破れ、海洪波。同十一月四日〔ママ〕、富士麓素走口より山焼け出、白日如夜、砂降こと雨の如し。」とある[52]。
『三貨図彙』では「十月四日五畿内ヲ始メ、東海道・南海道ノ国々大地震アリ、別シテ五畿内ハ強シ、十一月廿三日富士須走口ヨリ焼イデ震動雷ノ如ク、土砂大雨ノ如ク降リ、近国大ニ痛ム、コレニ依テ米価高直ナリ」とある。この年の肥後米は一石に付き宝永銀120- 150目、慶長銀73- 93目と前年の2倍程度に騰貴した[53]。また、「此節桜・桃・山吹花満開シ、竹ノコ盛ンニ出、日々地震、十一月〔ママ〕四日大阪津浪シ、近国・京都大イニ地震ス」とあり、この時期の異常気象を示唆する記述もある[53]。
富士山の噴火による灰金(火山灰の除去費用)として翌年閏正月7日(1708年2月28日)に「諸国高役金令」を公布、江戸幕府は各大名、旗本らに石高100石に付き2両を差し出させることとした。その結果、幕府には40万両が集まった(『折たく柴の記』)。『蠧余一得』では宝永5年中に金48万8770両余、銀1貫870目余が集まり、被災地救済には6万2500両余が支出されたとしている。
宝永6年2月3日(1709年3月13日)、勘定奉行の荻原重秀は新たに将軍に就任する運びとなった徳川家宣に対し、幕府の財政の窮乏を訴え、御領(直轄領)より得られる収入は76- 77万両であるが、諸士の給料として30万両が消え、前年の歳出は140万両に達し、加えて皇居営造費として70- 80万両が要るから約170- 180万両の歳入不足となるとした。この急場を凌ぐためには金銀を改鋳し、出目を稼ぐ外にないと訴えた。
これに対して新井白石は、「去年の御物成を以て今年の用に充てることを重秀が知る処かはさておき、御聴を驚かして、その思うところを遂ぐべきため也」と改鋳に反対し、「悪質なものを出せば天譴[注 7]をうけて天災地変を生ずるおそれがある」として改鋳の議は中止となった。しかし、翌宝永7年(1710年)には質を落とした永字銀などが将軍の決済を得ることなく内密に発行された[54]。大地震など相次ぐ天災の対策費として幕府が改鋳による出目を必要としていたのは事実であったが[55]、立続けの改鋳による低品位の銀貨が多量に発行され、物価が数倍にも騰貴した[53]。これにより元禄文化は終止符を打つことになった。また、徳川綱吉の頃までの将軍による親政から荻原重秀らの幕閣政治へと変貌する時代の転機でもあった[56]。
東海・東南海・南海連動型地震はおおよそ90年から150年周期で繰り返されており、次回起こると予想される地震への対策が求められる[57][58]。対策は東海地震、東南海・南海地震と個別に行うのではなく、東海・東南海・南海領域で連動して発生した宝永地震をモデルに行うべきとする動きもある[37]。
[編集] 脚注
- ^ 昼八ツ時の鐘をつく前に地震が発生したため13:45前後と推定される-間城(1995)。古記録の平均では13:46となる。
- ^ 北緯33度12分 東経135度54分 / 北緯33.2度 東経135.9度
- ^ 未の上刻(ひつじのじょうこく)は、午後2時。cf. 時刻#日本。
- ^ 甲(こう)は、「本町」などと同様、合併後の中心的地域に当てられる地名の一つ。
- ^ 古文書記録にある建物の被害状況から、震度6以上の地域を590kmと推定した。また地震後1ヶ月の余震域が東北地方太平洋沖地震の1.4倍の、長さ830km、幅240kmと算出された。
- ^ 現在の高知市種崎。cf. 種崎浦、種崎海岸。
- ^ 天譴(てんけん):天罰。
[編集] 出典
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- 『校註 両替年代記 原編』 江戸本両替仲間編、三井高維校註、岩波書店、1932年。
[編集] 関連項目
- 連動型地震
- 東海・東南海・南海連動型地震
- 橋杭岩 - 転がっている岩がこの地震で起こった津波によって移動していることが調査結果で明らかになっている。
- 異常震域
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