鬼怒川
| 鬼怒川 | |
|---|---|
| 水系 | 一級水系 利根川 |
| 種別 | 一級河川 |
| 延長 | 176.7 km |
| 水源の標高 | -- m |
| 平均流量 | -- m³/s |
| 流域面積 | 1,760 km² |
| 水源 | 鬼怒沼(栃木県日光市) |
| 河口(合流先) | 利根川(茨城県守谷市) |
| 流域 | 栃木県、茨城県 |
鬼怒川(きぬがわ)は、関東平野を北から南へと流れ利根川に合流する一級河川である。全長176.7kmで、利根川の支流の中で最も長い。
江戸時代以前、鬼怒川は香取海に注ぐ大河であったが、徳川家康の利根川東遷事業によりもともと江戸湾に注いでいた利根川が東遷され鬼怒川に近い流路に付け替えられたうえで、鬼怒川は利根川に注ぐ河川とされた。また、近代になって鬼怒川の文字が当てられるようになったが、江戸時代までは毛野国(栃木・群馬の旧国名)を流れる「毛野川」あるいは穏やかな流れを意味する「衣川」「絹川」と書かれた。
また、上流域にある鬼怒川温泉の略称としても使用される(鬼怒川温泉を参照)。
目次 |
[編集] 地理
日光国立公園内にある栃木県日光市の鬼怒沼(奥鬼怒)に源を発し、湯西川、男鹿川、大谷川を合わせ、塩谷町南端、さくら市と宇都宮市の境界部、高根沢町と宇都宮市の境界部、宇都宮市東部、上三川町東部、上三川町と真岡市の境界部、真岡市西部、下野市東南端、真岡市と小山市の境界部を流れ田川と合流し、茨城県との県境を成して茨城県筑西市に入り、筑西市と結城市の境界部、結城郡八千代町と下妻市の境界部、下妻市南西部、常総市、常総市とつくばみらい市の境界部、守谷市を流れ、茨城県と千葉県の境界部に達し、茨城県守谷市と千葉県柏市、同野田市の境界部で利根川と合流する。
鬼怒川の上流部は火山地帯で、深い山間の渓谷を流れる。深さもあって川の色は深緑色を呈し、川辺には白い大きな岩も目立つ。また流域には奥鬼怒温泉郷、女夫渕温泉、川俣温泉、湯西川温泉、川治温泉、鬼怒川温泉、日光湯元温泉といった温泉地が点在する。
鬼怒川中流部は中小の白い石が目立つ広い河原、かつての氾濫原の中をゆったりと流れ、土手沿いには雑木林や杉林、松林などがあって治水されており草深い。深さはあまり無く川の色は水色ないし濃紺色を呈する。夏季には鮎漁で賑わい、川面には個人の釣り人が友釣りする姿や、観光やなで遊ぶ観光客の姿が夏の風物詩となっている。流域には多くの親水公園、運動公園が整備され、四季折々のスポーツが楽しめる。また、塩谷町から宇都宮市にかけては多雨期に増水する鬼怒川の豊富な水量を別つため、放水路と用水路の役割を有する西鬼怒川に分流される。西鬼怒川は高間木取水堰で取水され根川用水を通り西鬼怒発電所を経て西鬼怒川となり、宇河地区(宇都宮、河内郡地区)に広く上水を供給する松田新田浄水場に分水および御用川を分流し、白沢河原を経て宇都宮市岡本と高根沢町宝積寺の境界部で鬼怒川本流に合流する。
鬼怒川水系の豊富で上質な水は栃木県の県都宇都宮市ほか諸都市の水源となっており、上水、灌漑用水として利用され、市民の都市生活および流域の米産やほか農業や工業にも広く利用されている。宇都宮市で盛んな飲料製造業は鬼怒川の清水に拠るものである。
[編集] 歴史
平安時代の書物(延喜式兵部式、倭名類聚抄など)には「河内郡衣川」や「下野国驛家衣川」などが見え、江戸時代の古地図にも「衣川」とあり、明治時代に編纂された日本地誌提要では「絹川」とされているが、下野國誌には「衣川」とあり、かつては「きぬがわ」が「衣川」「絹川」と書かれていたことが判る。「鬼怒川」という表記は明治政府が編纂した古事類苑に見られ、これが「鬼怒川」の初出である。「鬼怒川」の表記は、暴れ川である「鬼が怒る川」から「鬼怒川」となった、などと云われるが、「鬼怒」は明治期以降の当て字である。古代以来、「きぬがわ」には、好天時の穏やかで絹・衣の様な流れを表すであろう「絹川」あるいは「衣川」の漢字が当てられて来たが、「きぬ」という音については紀伊国の国造家を起源とすると云われる豊城入彦命やこの地方の豪族紀清両党の紀氏に因む「紀の川」の転訛説がある。
現在の鬼怒川は利根川に合流して銚子で太平洋に注ぐが、江戸時代初期までは毛野川(あるいは衣川)は直接太平洋に注ぐ河川であった。その下流部は高低差が無い平地が続き、上流部で大雨が降るとその降雨は下流平地部に滞留し、湿地帯を形成していた。また古代は現在の茨城県南部は香取海(霞ヶ浦や北浦はその名残り)と呼ばれる浅海であり、かつて鬼怒川はこの香取海に注いでいたと言われている。一方の利根川・渡良瀬川はそれぞれ個別に南へ流れ江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川であったが、鬼怒川と同様、その下流部は氾濫原で、上流部の降雨が滞留して湿地帯を形成していた。江戸の街の排水性を高め、利根川、太日川(渡良瀬川下流部の古称)等の水害から守り、関東平野における新田開発の推進や江戸と北関東以北を舟運で結び流通を促進させるため、江戸時代初期に徳川家康の号令で利根川の水流を東(北)へ誘導し、渡良瀬川水系や・鬼怒川水系へとつなぐ「瀬替え」(利根川東遷(とうせん=東に移す)事業)の工事が始まり、元来の鬼怒川下流部の流路帯(水系)には利根川・渡良瀬川の水も流れるようになり、鬼怒川下流部の名称は「きぬ」ではなく「とね」とされた。現在も、従来の鬼怒川水系は利根川水系に組み込まれている。
古代・鬼怒川(毛野川)流域には毛野国が成立していたが、毛野国の豪族とされる下毛野氏はヤマト王権の中でも一定の発言権を有していたと言われ、下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに、大宝律令(701年)の編纂や下野薬師寺の建立に関わった。下野薬師寺は東大寺(ヤマト)、観世音寺(筑紫)とともに国立三戒壇の一つに指定され、奈良の法隆寺と同等の伽藍を有したと言われる。当寺の修行僧であった勝道上人は毛野川上流に日光山を開山したと言われる。鎌倉時代以降は下毛野氏の流れを汲む藤原北家道兼流・宇都宮氏が鬼怒川流域一帯を治め、安土桃山時代後期以降は主に清和源氏流を称する諸氏が支配し現在に至る。
[編集] 治水
1683年(天和3年)の日光大地震により鬼怒川支流の男鹿川が現在の海尻橋付近で土砂に堰き止められ自然湖五十里湖が出現したという記録が日光東照宮の輪番記録に残されている。この堰き止め湖は高さ70mで湛水面積は現在の五十里湖より大きく、40年間存在していた。この間会津藩により洪水吐き工事が行われたがうまくいかず、その間男鹿川沿いの会津西街道は通行不能になり会津藩3代藩主松平正容によって1695年(元禄8年)に代替街道として会津中街道が整備された。会津西街道を通行止めにしていた五十里湖はその後1723年(享保8年)の大雨で決壊し、死者1万2千人を出す土石流となり、宇都宮、下館近辺まで被害が及んだ。
東北本線は開通当初、現在の東北新幹線のルートに近い宇都宮駅より真北に向かう進路を取っており、古田停車場と長久保停車場の間の絹島村で西鬼怒川と東鬼怒川(鬼怒川本流路)の2河川を渡っていた。しかし当時未治水であり、夏季に雷を伴い激しく降雨する栃木県北部山間部を水源とする鬼怒川は幾度となく大水となり、その激流は橋脚を傷め、1890年(明治23年)8月22日の降雨の際には橋脚が傾斜し修繕にかかる経費と時間が莫大なものとなったことをきっかけとし、東西両鬼怒川が合流し流路帯が狭くなった箇所に線路を移設することとなり、1897年(明治30年)2月25日より宇都宮を出て直ぐに北東に曲がる現在の経路での営業運転に切り替えられた。
[編集] 産業
鬼怒川の支流のひとつ大谷川の上流にある日光市清滝地区では、足尾銅山の銅鉱石と周辺の豊富な水力発電の電力を利用した古河電工日光電気精銅所が1906年(明治39年)に開設され、旺盛な送電など電線需要に対応した。 続いて1913年(大正2年)1月には当時日本最大級の最大3万1,200キロワットの電力を発生する鬼怒川水力電気下滝発電所(現・東京電力鬼怒川発電所)が現在の鬼怒川温泉の辺りで運転を開始し、東京市電気局に電力を供給した。この時建設に利用された軌道が後の下野軌道となり、現在の東武鬼怒川線に受け継がれている。