日ユ同祖論
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日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)とは、日本人とユダヤ人は、共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説。
主に、日本人とユダヤ人によって、提唱される。
日ユ同祖論は、主に三つの立場がある。
本項では、主に1について記述する。
目次 |
[編集] 前提知識(アブラハムの家系と聖書の預言)
旧約聖書のアブラハムの孫がヤコブ(別名イスラエル)であり、ヤコブの12人の息子等を祖先とするのが、イスラエル12支族である。イスラエル12支族はエジプトで奴隷状態にされていたが、エジプトを出た後、カナンの地に住み、統一王国をつくった後に分裂し、10支族はサマリアを都として、北イスラエル王国をつくり、アッシリアに征服された後、信仰を深めるため、信仰を邪魔されない場所に移るとして、消息不明になったとされる(エズラ第4書13:39〜47)。
ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、離散し、ユダヤ人と呼ばれるようになった。ただし、当時のイスラエル人は有色人種であり、白色ユダヤ人(アシュケナジム)は8世紀頃、ハザール人がユダヤ教に改宗して、ユダヤ人を名乗ったことに由来するとの説がある。したがって、日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、有色人種としてのユダヤ人(セファルディム)であるとの立場もある。そして、同祖とはアブラハムないし、ヤコブを意味するといえる。
エズラ書第4書(第2書とも呼ばれる)13:39〜では、「幻に現れたその群集は…九つの部族であった(写本によって、九部族/九部族半/十部族と異なる)。彼らは異教徒の群れを離れ、先祖がいまだかつて住んだことのない土地に行き、自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画を互いに持ち合って、さらに遠くの国へ向かった。……それはアルザレト(もうひとつの土地あるいは果ての地)という地方であった。彼らは最後までそこに住み…」とされている。
そして、エゼキエル書37では、「主なる神はこう言われる…わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き…時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。……わたしはエフライムの手にあるヨセフとその友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。…… わたしは、わたしの地イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国になることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。…… わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民はわたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」とされている。
[編集] 起源
- 1690年に来日したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルは、著書「日本誌」の中で、日本神話に登場する高天原は、バビロニアにあったと主張した。
- 1823年に来日したドイツ人のシーボルトは、著書「日本」の中で、日本人の起源の候補の一つとして、中央アジアを挙げた。ただし、彼が日本人とイスラエルの失われた10支族との関わりについて、どこまで意識していたのかは不明である。
- 明治期に貿易商として来日したスコットランド人のノーマン・マクラウド(N.Mcleod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、体系化した。日ユ同祖論の歴史は、彼の日本での著作「日本古代史の縮図」(The Epitome of The Ancient History of Japan、1875年(明治8年)、長崎日の出書房)によって始まった。これは、後の1901年、「ユダヤ大百科事典」のニューヨーク版にある失われた10支族の項目に引用されたという。彼が韓ユ同祖論も唱えていたことを持って、マクラウドはなんでも失われた10支族と結びつける、いい加減な人物であったと結論する者もいるが、彼の主張は、10支族の内の主要な部族は、朝鮮半島を経由して日本へ行ったが、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったというものであり、論理上の整合性は取れている。
[編集] 主張されている根拠
[編集] 皇室神道とユダヤ教の類似性
[編集] 旧約聖書と記紀の類似性
[編集] ヤコブとニニギの類似性
旧約聖書(『創世記』)と『古事記』や『日本書紀』には多くの類似点があり、ヤコブの家系逸話は、ニニギの家系逸話と似ている。
マーヴィン・トケイヤーの『日本・ユダヤ封印の古代史』(徳間書店)等では、以下のように述べられている。
かつてタガーマ地方のハランに住みその後カナンに移り住んだアブラハムとサラの子がイサクであり、イサクとリベカの子が兄エサウと弟ヤコブ(別名イスラエル)である。当初兄が父を継ぐはずであったが、諸事情から弟ヤコブが継ぐこととなった。兄を恐れて、母の出身地タガーマ地方のハランに逃げたヤコブは、叔父ラバンの娘ラケルと結婚しようとしたところ、ラケルの姉レアも一緒にめとるようにラバンから要求される。ヤコブは他の女との間に多くの男子をもうけたが、ラケルの間には兄ヨセフと 弟ベニヤミンが生まれる。ラケルはベニヤミン(幼名ベンオニ)を生んで死亡する。ヤコブはカナン(葦の原)に向かう途中で神の使いと格闘して勝ち、権威を得て、カナンにやってくる(ヘブライ語のラテン語置き換え表記では、KN'aNであり、ハムの子KN'aNと同じであり、葦はQNHであるが、カナンは葦の原の意味と主張される。)。兄エサウはカナンを譲り、南方のセイルの地に移る。カナンでヨセフは兄たちからいじめられてエジプトに売られ、アセナテと結婚して宰相となって力を得る。後に飢饉で苦しむ兄たちを許して助ける。ヨセフとアセナテの間にはエフライムが生まれる。エフライムには、シュテラフ、エゼル、エルアデ、ベリヤ、レシェフ が生まれる。2男のエゼルと3男のエルアデは早くにいなくなる。4男ベリヤの子孫がヨシュア(ホセア)であり、モーセに率いられたエジプト脱出の跡を継ぎ、カナン人等と戦ってイスラエルの民をカナンの地に導いた。
これに対して、葦原中ツ国 で生まれタカマノハラを治めたアマテラスとスサノオの誓約で生まれた子がオシホミミであり、オシホミミとトヨアキツヒメの子が兄ホアカリと弟ニニギである。タケミカズチとタケミナカタの力競べを経て葦原中ツ国がオオナムチ(大国主)から譲られることとなり、諸事情から、弟ニニギが治めることとなった。タカマノハラにいたニニギは葦原中ツ国にやってくる。ニニギはコノハナサクヤヒメと結婚しようとしたところ、その姉イワナガヒメも一緒にめとるようにその父オオヤマツミから要求される。ニニギはコノハナサクヤヒメとの間にホオリ(山佐知毘古(山幸))とホスセリをもうける。他に、兄ホデリ(海佐知毘古(海幸))がいる。コノハナサクヤヒメは短命で死亡する。ホオリは兄ホデリにいじめられ、海神の国に行き、トヨタマヒメと結婚して力を得て、後に飢饉で苦しむ兄を許して助ける(『古事記』の山幸彦と海幸彦)。ホオリとトヨタマヒメの間にはウガヤフキアエズが生まれる。ウガヤフキアエズとタマヨリヒメとの間にイツセ、イナヒ、ミケヌ、ワカミケヌ(カムヤマトイワレビコ:神武天皇 『古事記』神倭伊波禮琵古命、『日本書紀』神日本磐余彦尊)が生まれる。2男と3男であるイナヒとミケヌは早くにいなくなる。 カムヤマトイワレビコ(ワカミケヌ)は、ヤマトの民をヤマトの地に導く。
なお、旧約聖書『創世記』では、エロヒム(神と訳される)の子らが美しいアダム(普通名詞)の娘を妻にしネフィリムらが誕生したことで、ヤハウェ(「主」と訳される)は、人は肉であるのでルーアハは長くとどまるべきでなく人の一生は120年になるだろうといい、その後の大洪水でその子孫を滅ぼした(『創世記』6:1~)。これに対して、『古事記』では、ニニギが美しいコノハナサクヤヒメを妻にしたことで、その子孫の寿命が縮められることになった、とされていることを指摘する説もある。
また、ヤコブの兄エサウとスサノオの子孫オオナムチ(大国主)については、以下のような類似点を指摘する説がある。エサウは弟ヤコブから赤い食べ物をもらったり騙されたりして長子権を失う。オオナムチは兄弟(八十神)から騙されて赤い石で焼き殺されたりする(その後生き返る)。エサウは最終的に弟ヤコブに長子権を奪われ、ヤコブは天使との格闘に勝ってヤハウェから権限を与えられる(エサウはセイルの地に移り、子孫のエドム人にはエドム領が与えられる)。オオナムチは、タケミカズチとタケミナカタの力競べを契機として、最終的に国譲りを余儀なくされ、ニニギが支配権を得る(オオナムチは大きな宮殿を要求し宮殿にこもる)。
モーセとカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の類似性を指摘する説もある。両者の類似点として、兄と姉がいた、兄とともに長い年月をかけて東征した(旧約聖書『出エジプト記』で40年以上、『古事記』で16年以上)、東征の途中で目的地を目前にして南東に迂回した(カナンの南方のエドム領の迂回と葦の海の道の北上:『民数記』14:25、浪速の渡から熊野への迂回)、迂回開始の直後に神の意に反したことが遠因であるとして兄が死んだ(アロン:『民数記』20、イツセ)、その後に北上し動物に遭遇して多くの兵士が倒れたが棒状のもので力を回復した(エドムの旗竿の青銅の蛇:民数記21:4~、熊野での土地神の毒気から布都御魂で回復)、最後の戦いに向けて新しい先導者が指名された(ヨシュア、八咫烏)、七人の娘の中から妻を選んだ(ツィポラ/チッポラ:『出エジプト記』 2:15、イスケヨリヒメ:『日本書紀』)、といった点が挙げられている。
[編集] ダビデ・ソロモンと崇神天皇・垂仁天皇の類似性
カナンの地に至ったイスラエル諸部族は、12人の士師(指導者)の時代を経て、身長が高く容姿にすぐれた若者サウル(ベニヤミン族)をイスラエル国家の初代王として古代北イスラエル王国を建国したが、サウルは次第に神の命令に背くなどして評判が悪くなり、宮殿でダビデの立琴を聴き、その後早くに戦死した。そこで、ユダ族と連合してユダ族のダビデを第2代の王とした。統一イスラエル王国第2代王のダビデについては、3年間の飢饉の後に人口調査を行ったとされ、カナンの各地で多くの他部族を征服し、また「セイルの山地、エドム」で戦ったとある(創世記36‐8、サムエル記下8‐13)。ダビデの息子である第3代のソロモンについては、エブス人の地エルサレムに最初の神殿をつくり、池を幾つも掘らせ水を引いたとされ(コヘレトの言葉2-6)、また「神の掟を守るなら長寿を約束する」との夢をみたとされる(列王記上3-14)。
これに対して、記紀では第2代天皇から第9代天皇まではほとんど記述がなく欠史八代といわれる。第10代崇神天皇については、3年間の災厄の後に人口調査を行い、また「山シロ、イドミ」の地で戦ったとされる。 第11代垂仁天皇についても、伊勢の地に最初の神殿をつくり、池や溝をたくさん作らせ、「神祇をよくお祀りすれば長寿を約束する」との神のお告げを受けたとされる。 なお、第14代仲哀天皇は身長が高く容姿にすぐれていたが、神のお告げを信じず琴を弾きながら急死したとされる。また、第12代景行天皇の皇子であり仲哀天皇の父であるヤマトタケルについては、各地で多くの他部族を征服したとされる。
[編集] 大化の改新の詔
大化の改新は、モーセのトーラーと類似性がある。ヨセフ・アイデルバーグ『日本書紀と日本語のユダヤ起源』徳間書店 等では以下のように述べられている。
神道の祭司一族であった中臣氏が主導して、専横する仏教派の蘇我氏を滅ぼし、このとき蘇我氏の放火によって全朝廷図書が焼失しつつも、神道を一時的に復興させたのが大化の改新(645年)である。大化の改新から大宝律令(701年)(神祇令)制定にかけては神道の復興と制度化の過程であり、大化の改新の内容は、当時における神道の重要事項が中心であったと推測されるが、その内容は旧約聖書と類似している。 日本で元号として初めて定められた大化は、ヘブライ語のthQWH(tikvah)「希望」(現イスラエル国歌:H・thQWH:その・希望)と似ている。 大化は皇極天皇の4年目の7月1日 (旧暦)に始められたが、 のユダヤ暦(古代の教暦ではなく政暦)では7月(ティシュリー グレゴリオ暦では9月から10月)1日はローシュ・ハッシャーナー(新年祭)で1年の始まりにあたる(「第七の月の一日は…聖なる集会の日としなさい」『レビ記』(23:24))。大化政府は7月14日 (旧暦)に神々に捧げる捧げ物を集めたとあり、ユダヤ教での仮庵の祭りは7月15日(ユダヤ暦では日没が1日のはじまりであるためグレゴリオ暦では7月14日の夕方18時頃)から始まる。 改新の詔の「男奴隷と女奴隷の間に生まれた子は女奴隷側のものとする」は、『出エジプト記』(21:4)と同じである。また、詔での、土地の分配を家族の人数に応じて行うことと『民数記』(26:54)、親族の死についての断髪等の禁止と『レビ記』(21:5)、借り物に関して賠償すべき場合を限定した定めと『出エジプト記』(22:13)も同様である。
[編集] 皇室神祇
大化の改新の後、神道の皇室儀式の制度化が進められ、いくつかの定めのうち部分的に現在に伝えられているのが大宝律令(701年)の神祇令等である。神祇令においては、大嘗祭・新嘗祭の他、大祓の儀等が定められていたと推測される。天岩屋戸からアマテラスが出てきたときに祭司コヤネ(天児屋命)がスサノオの罪を清めるために唱えたといわれる大祓はコヤネの子孫といわれる中臣氏が伝えてきた祭儀とされ、大祓の儀は6月30日と12月31日とされており、ユダヤ教の区切りと一致している。また、大祓の祝詞では、天つ罪と国つ罪に分けていくつかの禁止事項が列挙されているが、二種類の種を播く罪(レビ記19:19)、近親相姦(レビ記18:6~)、人体を傷つける罪(レビ記19:28)、呪術(申命記18:11)、こぶのある者(レビ記21:20)など旧約聖書の禁止事項と一致している。新嘗祭や大嘗祭は収穫を捧げる儀式であり、特に大嘗祭では仮庵を建てる。ユダヤ教で収穫を捧げて祝う祭りは仮庵の祭といわれ、エジプトを出て仮庵に住んだことを代々伝えるため、仮庵を建てて行わなければならないとされる(レビ記23:23~)。
森有礼は、伊勢神宮に安置されている三種の神器の1つ、八咫鏡の裏に、エヘイェ・アシェル・エヘイェというヘブライ文字(シナイ山で神が自らの名を述べたもの)が書かれているのを見たと主張したとされているが、真偽は確認されていない。これに関し三笠宮は、昭和天皇も自分(三笠宮)も鏡を見たことがないと答えられたとされている。
前方後円墳はマナの壺をかたどったものとする主張もある。
[編集] 獅子と一角獣
天皇家や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持つが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章である。 京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があったとされており、天皇の王冠には一角獣が描かれているとされている(『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』、徳間書店)。現在でも京都御所清涼殿昼御座奥の御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれている(『日本名建築写真選集第18巻京都御所』、新潮社の写真)。天皇の即位に用いられる高御座の台座にも獅子と一角獣(麒麟)と思われる絵が描かれている。平凡社の『大百科事典』や平凡社の『世界大百科事典』では、狛犬について、「平安時代には…清涼殿の御帳前や…獅子と狛犬が置かれ、口を開いたのを獅子として左に置き、口を閉じ頭に一角を持つものを狛犬として右に置いた」とあり、京都下鴨神社の左の狛犬には角があると記されている。『狛犬辞典』戎光祥社には、京都御所紫しい殿障子絵として同様のものが掲載されているほか、八坂神社等の一角を持つ狛犬写真が多数掲載されている(ただし、下賀茂神社や八坂神社には秦一族の影響がありうる)。なお、ユダヤ系大財閥であるロスチャイルド家も同様のライオンとユニコーンの紋章を持つ(二匹の獅子が置かれる例は世界各地にあるが、これは古代イスラエル神殿(ソロモン神殿)。の王座の横の二匹の獅子(I列王記10:19)に由来するといわれる。)
[編集] 神社神道とユダヤ教の類似性
神社に関する神道(神社神道)とユダヤ教の類似性については、以下のような指摘がある。
[編集] 儀式や習慣の類似性
マーヴィン・トケイヤー『ユダヤと日本 謎の古代史』(産業能率大学出版 1975年(昭和50年))や『日本・ユダヤ 封印の古代史』(徳間書店)では多くの類似点が指摘されており、例えば以下のような指摘がある。
[編集] 神道
神道の儀礼・様式
- 日本もユダヤも、水や塩で身を清める禊の習慣がある。
- ユダヤ教では祭司はヒソプという植物や初穂の束を揺り動かす。これは過越の祭について定めた『レビ記』23:11に基づいており、過越の前にヒソプで子羊の血を門に塗ったことに由来する(『出エジプト記』12:22)。これに対して、神社の神官も同様に榊の枝でお祓いをする。
- ユダヤのメズサ(護符)と日本のお守りは、同一である。
- エルサレム神殿の門には、天皇家の16弁の菊花紋(菊花紋章後鳥羽天皇に由来)と共通した紋章が刻み込まれている。
神社の施設の様式
- イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である幕屋や古代イスラエル神殿(エルサレム神殿)では、入口から、洗盤(水で洗う場所)、至聖所、聖所 と並んでいる。神社においても、入口から手水舎、拝殿、本殿 と並んでおり、構造が似ている。古代イスラエル神殿は木造建築であり(『列王記』6:9~)、建築後に賽銭箱が備えられた(『歴代誌』24:8)。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、神社にも赤色の神社がある(『ユダヤと日本謎の古代史』産業能率大学出版部)。
- トリイ(鳥居)は、ヘブライ語アラム方言で門という意味であり、神社のトリイは過越の前にヒソプで羊の血を塗った門を意味すると主張される(トリイの起源については、インドの仏舎利塔の前に建てられたトラーナとする説や中国の陵墓の前に建てられた華表とする説などもある)。(久保『神道の中のユダヤ文化』では、門はヘブル・アラム語で「タラア」とされている。)
- 日本の神社の前に置いてある狛犬(こまいぬ)は、犬というよりも獅子であるが、古代ソロモン神殿の前にもライオンの像が置いてあった。ライオンは、ダビデ王統を担うユダ族のシンボルであった。
- 伊勢神宮の内宮から外宮に至る参道の石灯眥(石灯籠合計約700基)には、ダビデの星が刻み込まれている(ただし、伊勢神宮の参道の灯籠は第二次世界大戦後に寄贈されたものであり、GHQの指示があったといわれる。元伊勢のものにも同様のものがあるが、これも寄贈されたものといわれている。また、ダビデの星は単純な幾何学模様であり、ダビデ王の紋でもヘロデ王の紋であったことはなく魔術ではソロモンの封印と知られたものである。これは研究者の間では重視されない傾向がある)。[1]
祭り・神事
- 諏訪大社では、「御頭祭」(おんとうさい)という、イサク奉献伝承に似た祭りが行われていた。旧約聖書によると、アブラハムはモリヤの地(現在のエルサレム)の山(モリヤ山)で神から息子イサクを生贄として捧げるよう要求され、アブラハムが神への信仰からイサクをナイフで殺そうとしたところ信仰が明らかになったとして天使から止められるという話がある。守屋山(モリヤ山)が御神体である諏訪大社においても、少年を柱に結び付けて神官が小刀で切りつけようとすると使者が現れてこれを止めるという御頭祭が明治初めまで行われていたとの記述が守谷資料館に残されている(これに似たものとしては、ネパールのジャトラの柱立て祭りがある)。御頭祭の起源について、8世紀ころには行われていたと主張され、さらに古い時代からも行われていたと主張されるが、詳細は不明である。
- 神事である相撲は、ヤコブと天使の格闘に由来すると主張される。ヤコブは天使との格闘に勝ったことで、神の使いとしての権限を与えられた。神道で相撲の由来は『古事記』のタケミカズチとタケミナカタの力競べにあるとされ、これによって国譲りが確定し、ニニギに地上の支配権が与えられることとなった。
年中行事
- 生後30日目に赤ちゃんを神社(神殿)に初詣でさせる習慣は、日本とユダヤにしか見られないものである。
- 過越の夜に種なしパンと苦菜を食べたように、代々どこに住もうとも守らなければならない不変の定めとして過越の祭(ペサハ)を祝わなければならないとされている。(『出エジプト記』12:1~/『レビ記』23:1~) 過越の祭では、家の中から酵母がなくなるよう直前に掃除を行い、正月の14日の夕方から7日間にわたって仕事をせずに種(酵母)のないパン(Mthth/MthH: マッツァー:発酵させないパン)を食べ、苦菜を添えて食べなければならないとされている。これに対して日本では年末に大掃除を行い、旧暦1月15日(1月15日 (旧暦) )が小正月であり、発酵させないパンであるモチを食べ、その後、正月の7日に七草粥を食べる。ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるが、これは日本の鏡餅に類似している。
- 『レビ記』23:33~では、7月15日は収穫祭ないし仮庵の祭とされる。ただし、『列王記』12:32では北王国では8月15日を祭の日にしたとされている。これに対して日本では、7月15日 (旧暦)は祖霊祭(たままつり)ないしお盆であり、8月15日 (旧暦)は十五夜である。
[編集] 修験道
- ユダヤ教徒は祈りの際に黒い小箱(ヒラクティリー)を額に結びつけ羊の角笛ショーファールを吹くが、山伏も黒い小箱(兜巾)を額に結びつけ角笛に似た形の法螺貝を吹く点で、非常に類似している。このような類似性は、世界中のどの民族、宗教にも見られず、ただ、ユダヤ教徒と日本の山伏との間にのみ、存在する。
- 山の神といわれる天狗の像は兜巾をつけてしばしば虎の巻を持ちそれを修行者に授けるといわれるが、イスラエルの民はシナイ山でヤハウエからトーラー(十戒(律法)が刻まれた石板)を授かった。
- 古代ヘブライの祭睚レビ族は、みな白い服装をしていた。非常にゆったりとした和服のような服で、そで口には「リンネ」と呼ばれる房が4つ付いていた。ヒラクティリーを使用していた。彼らの姿は、まさしく神道の神官や修験道の山伏のような姿をしていたのである。
[編集] 沖縄
- ユダヤ人は過越の祭り(ペサハ)を行う。イスラエルの民が奴隷状態にあったエジプトから脱出するにあたり、これを助けるため殺戮の天使がエジプト人の家々の長男を殺してまわるという事件があった。その際、イスラエルの民は羊の血をヒソプという植物の束につけて家などの門口に塗ってイスラエル人の目印として天使をやり過ごして避けた。その後この羊を焼いて食べたとされる(『出エジプト記』12:22)。過越の祭はこれを祝うものである。これに対して特に琉球では看過という風習がある(『沖縄大百科事典』沖縄タイムズ社)。なお、琉球の墓は横穴式で白く塗られ(亀甲墓中国と同形式)、ユダヤ式の墓(マタイ23:27)に似ているとされる。
[編集] 著書
柞木田龍善
- 『日本超古代史に挑む』
- 『日ユ同祖論はここまで立証できる 歴史読本臨時増刊 世界 謎のユダヤ』(新人物往来社 1987年3月)
- 八咫鏡の裏にあるヘブライ文字については、作意を感じる。
- 伊勢神宮の石灯篭は、神宮審議会では、菊の紋はよいがヒマワリの紋はいらないとしたところ、当時の式部官二荒伯爵と森岡善照(元大阪タクシー(株)社長)奉賛会長の主張により入れたが、実はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からダビデ王の紋とヘロデ王の紋を入れたら許す、との圧力がかかった。
- 日本人とユダヤ人の男性Y染色体の大きさが同じであることが、パリ大学の教授によって発見された。これは、他には見られない現象だという。
[編集] その他
- 『日本書紀』に記される日本神話の神武東征によれば、イワレヒコ(庚午年1月1日(西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定される)は、西国の日向から東方へ遠征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日と推定される)に即位し、初代天皇の神武天皇となったとされている。この神話の暗喩を意味解くと、日本人の始祖は、日本列島よりも遥か西の地から出た民族であり、何らかの事情から、その地を離れ、安住の地を目指して東方へ移動し続けた結果、最後は日本に到達したと、以下の通り主張する者もいる。
- 北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、祖国を追われた同国民がいずこかへと消え失せたのが西暦紀元前721年。世界史屈指の謎とされるイスラエルの失われた10支族である。今日、10支族の痕跡が色濃く見られる地には、インドのカシミール地方・アフガニスタン・中国などが上げられるが、これらを地図上から検証すると、彼ら10支族の行程として、シルクロードが浮かび上がる。神武天皇の誕生年は紀元前711年であるが、一方で、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年となる。これらの事から、神武天皇=失われたイスラエル10支族を意味し、東征神話=イスラエルから日本へ達した彼らの旅路を示すものではないかというものである。
- 「東方の日出づる国」は古代より、ヘブライの民にとって、「天国」を意味している。約束の大地カナンは、「カヌ・ナー」の転聲としてヘブライ語で読むとき、「葦の原」を意味する。「東方の日出づる国」は、ヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の古名である「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」の意味が判明すると指摘する研究家もいる。更に大和朝廷の「ヤマト」は、ヘブライ語アラム方言では「ヤ・ウマト」と分解され、「神の民」という意味になるという。
- 古代ヘブライ神殿と日本の神社の構造が似ている。もともと、古代ヘブライ神殿は「幕屋」と呼ばれる移動式だったが、幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲み、中で神に捧げる祭睚を行なった。全体ではないが、囲むという概念は日本の神社でも見られ、同様に祭睚は極秘である。幕屋の中の構造は基本的には聖所・至聖所・拝殿に分かれていて、祭壇には明かりをともす常夜灯があり、脇には手を洗う水盤があった。有名な古代ソロモン神殿(エルサレム神殿)の前には、お耄銭(賽銭)を入れる箱も置かれていた。
- 伊勢神宮暦は他の神社と違って、ヘブライ暦(ユダヤ暦)と一致している。
- 伊勢神宮の遷宮は、幕屋が移動していたことに似ている。
- 現在、日本人の総氏神とされる伊勢神宮であるが、この伊勢神宮の遷座伝承地(元伊勢)の1つが籠神社であり、この籠神社の宮司を代々務めてきたのが、海部一族である(海部俊樹元首相の遠い親戚)。現在82代目宮司を務める海部光彦氏は最近になって、それまで極秘であった“裏家紋”を公開した。籠神社の奥の院である「真名井神社」の石碑に刻み込まれた、その裏家紋は、「ダビデ王の紋章(六竏星(六芒星))」であった。
- ユダヤ人の宗教的な行事で、日本と最もよく似ているのは過越(すぎこし)祭である。過越祭(ペサハ)は、ユダヤ教でいう新年の祭りで、ユダヤの祭日のうちで、最古かつ最大のものである。その日は日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。更に、過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、普段はふっくらとしたパンを食べるのであるが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本でいう「餅(モチ)」に当たる。しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるのだが、これは日本の鏡餅に類似している。過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期間と同じである。
- ユダヤ人の過越祭(ペサハ)は、モーセによる“エジプト脱出事件”(紀元前1290年)にルーツを持っているが、同じく、日本の年越しや鳥居も、この大事件にルーツを持っていると考えられる。モーセは、かたくなな心を持つエジプト国王ラムセス2世に、ヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、一種の“魔術競争”をしたのであるが、エジプト脱出前日に“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来た。その時、モーセは、ヘブライ人たちに“殺戮の天使”の害に合わないためにと、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、“殺戮の天使”が静かに通り過ぎるまで家の中で待つように指示したのであるが、これこそが鳥居のルーツであり、年越しのルーツであるとされる。
- ユダヤ人は現在でも13歳の男子に、成人を迎える儀式、“バル・ミツバ”を行なうことで有名だが、日本人も昔、13歳の男子に成人を迎える儀式、元服式を行なっていた。
- 古代ユダヤ人は金髪や黒人ではなく、黒髪・黒目の褐色の人種で、背が低かった。
- ユダヤ人が羊の角から作る笛ショーファーと山伏の吹く法螺貝は、音色が似ている。日本では羊の角が入手出来なかったので、似た音の出る法螺貝で代用したという説がある。
- 四国の徳島県の修験道の聖地にして、霊山である「剣山」には、ソロモンの秘宝が隠されているという根強い噂があり、一時、発掘隊が組織された時期もあった。この剣山では毎年、「神輿祭り」が行なわれるが、その日は、「祇園祭り」と同じ、7月17日である。
- 古代ユダヤの聖櫃(アーク)と日本の神輿(みこし)は、良く似ている。
- ヘブライの秘宝、「契約の聖櫃(アーク)」は、現在に至るまで行方不明であるため、「失われたアーク伝説」として、広く公式に知られている。アーク(聖櫃)とはモーセが神から授かった「十戒石板」(モーセの十戒)を保管するための箱で、全体に黄金が貼られており、『旧約聖書』の『出エジプト記』には、そのアークの作り方が克明に記されているのだが、その記載を見る限り、日本の神輿(みこし)にそっくりである。
- アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿も金で覆われていて、神輿の上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が作られており、大きく羽を広げている。アークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てた。しかも、かつぐための2本の棒は絶対に、アークから抜いてはならなかったように、神輿の棒も抜かれることはない。祭りが終わった後も、棒を差し込んだまま保管されているのである。このように、日本の神輿と聖櫃(アーク)との類似性は高い。
- 日本史上最大最強の渡来人でありながら、今なお、多くの謎に包まれている秦氏は、昔から多くの研究家によって、「ヘブライ系渡来人」ではないかと指摘されている。
- 秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸(朝鮮半島か?)から渡来してきたのだが、この時10万(19万ともいわれている・諸説あり)もの人々が日本に帰化したと伝えられている。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住んだのだが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったという。
- 秦氏は非常に有力な一族で、794年の平安京は秦氏の力によって、事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があった(ちなみに、羽田孜元首相は秦氏の遠い親戚に当たるという[要出典])。
- 平安京に遷都した桓武天皇は、古代ヘブライの燒祭(はんさい)の儀式を行なっていた。平安京のマークは、あのダビデの紋章と言われ、現在の京都市の市章は、その平安京のマークを図案化したものだと指摘されている。平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム」、すなわち、ヘブライの聖地「エル・サレム」である。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京と、よく似ていることが指摘されている。
- 平安京は、ヘブライ語でエル・シャローム(平安の都)となり、古代イスラエルの都エルサレムと同じである。平安京は、天皇の住まう都だが、エルサレムも別名で、「ダビデの町」と呼ばれていた。
- 日本の神道を発展させた秦氏はキリスト教ネストリウス派だったという説がある。秦氏の本拠地である太秦とは、明らかな当て字であるが、語源はイシュ・マシャであり、イエス・メシアを表す言葉である。秦氏の建立した神社である大避神社の大避(しんにょう無し)とは、中国においてはユダヤの意味である。
- 日本の神道の天地創造においては、三位一体の唯一神信仰(唯一神教)であったことが複数の神道研究家により明らかにされているが、この三位一体信仰は、キリスト教における三位一体(ヤハウェ・イエス・聖霊)の位置と極めて似ている。
- 太秦にある秦氏の神社である蚕の社には三位一体神を意味する三柱鳥居という変わった鳥居があり、アメノミナカヌシ神をその祭神としていたが、元伊勢である「眥(籠)神社」に伝わる海部氏勘注系図(国宝)によれば、日本の天地創造の三造化神の筆頭である天御中主神(アメノミナカヌシ神)は、伊勢神宮外宮の祭神、豊受大神のことであると明記されている。
- ユダヤ人は食事の前、トイレのあと、教会堂の入り口で手を洗うなどの習慣がある。日本人も神社を詣でる前には、必ず入り口で禊として手を洗う。ユダヤ人は日本人と同じように、まず体を洗ってから風呂に入る。ユダヤ人以外の西欧人はバスタブの中で体を洗う。
[編集] 留意点(秦氏)
日本とイスラエルの類似性については、ユダヤ系キリスト教徒ともいわれる秦氏(秦一族)の活動が影響している部分があるとの指摘がある。ケン・ジョセフ『日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編』徳間書店 では以下のように述べられている。
秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰しアッシリア以降の中東の共通言語であるアラム語を話していたとされ、ユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年ころから数回にわたって日本に渡来したとされ5世紀末には2万人程度になり、背が高く容貌が特徴的だったとされている。5世紀末に、秦酒公は日本酒技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされている。秦氏は絹技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕え、絹事業(ハタ織り)で財をなして豪族となり、皇極天皇(642~645)に関する日本書紀(720年成立)ではウズマサ(アラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)(インド北部ではユズマサ)に由来するともいわれる。)(ヘブライ語でヨシュア・メシア:選ばれた者ヨシュア、ギリシャ語でイエス・キリスト)を信仰する豪族として秦河勝という人物が登場する。さらに、秦大酒は748年に大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれる。秦氏は京都の太秦を本拠地としつつも、一部は大分の宇佐に住み、一説には710年ころに成立したともいわれるヤハダ神(YHWDH:ユダ/ユダヤ)を信仰し八幡神社を創設した。八幡神社は749年ころに急に勢力を持ち始め、大きな勢力となって奈良に上京し、このときはじめて神輿をもたらし、これが神輿の起源ともいわれ、八幡神社は全国に広まった。 秦氏は平安京の造成に尽くしたとの説もあり、仏教勢力から逃れるため794年平安京遷都が行われ、その直後に京都で祇園祭が始まった。また、秦公伊呂具は稲荷神社(イナリ:JNRI/INRI:ユダヤの王・ナザレの・イシュ(イエス):当時の支配者ローマの公用語ラテン語でのキリストの別称)を創建したとされ、さらに元伊勢には秦氏の関与するものが多く、伊勢神宮の遷宮に関与したとの説もある。松尾大社は秦都理が創建したといわれる。京都の下鴨神社は秦一族の族長を記念して建てられたともいわれ、皇室の儀式を多数執り行ってきた。 景教はユダヤ教に近いとされるがキリスト教であり、秦一族は南王国に由来するユダヤ人との見方が有力である(ただし、秦一族には舟の家紋を持つものが多く、十支族のゼブルン族が舟の紋章を持つこととの関係も指摘されている)。ウズマサ明神を祀る京都太秦の大酒神社は古くは大辟神社といい、大辟は中国ではダヴィといいダビデを意味するとされる。 また、秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)はユダヤ人あるいは天狗のように鼻が高い。
なお、神社神道の起源に関して、そもそも神社の創建は、仏教の寺院に触発されたものと推測されており、神社の創建は仏教伝来(538年)以降とする説が有力であり(『神道概説』学生社)、最初の本格的仏教寺院は飛鳥寺(596年)といわれる。そして例えば最初の伊勢神宮の創建は674年とする説が多数説とされる。
[編集] ヤマト言葉とヘブライ語の類似性
古代においても例えばキリストがアッシリアの言語であるアラム語を話していたとされるなど、言語と血統は必ずしも一致しないが、以下のような主張がある。
日本語の単語と他言語の単語との類似性は、朝鮮語、ベトナム語等の多くの言語について報告されており、日本語とヘブライ語の単語が格別に類似しているわけではない(澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』)。万葉集を朝鮮語で解釈した例はあり、朝鮮半島とは交流があり朝鮮語を知る者で歌を詠んだ者は相当数いたと推測されると藤村由加が『人麻呂の暗号』(新潮社)で主張しているが、恣意的な解釈で言語学としては信憑性はほとんどない。例えば、後述の川守田のように、「アリガトウ」の語源を「ALI・GD 私に(とって)・幸運です」に求めるなど、似た音を探して語源とするという作業は数限りなくあり、ほとんど言葉遊びに過ぎない(アリガトウの語源は、「めったにない」という意味の「有難い」であることは、常識となっている)。
ヘブライ語にしろ、朝鮮語にしろ、どれも典型的な民間語源の範疇をでないものばかりであり、言語学界からは一切相手にされていない。詳しくは民間語源参照。
[編集] アイデルバーグの解釈
イスラエルのユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグ『大和民族はユダヤ人だった』(たま出版 1984年(昭和59年))は、以下のような例を提示した。
- ひらがな・カタカナとヘブライ語の類似性を指摘した(ただし、ひらがな・カタカナは9世紀ころに成立したとされる)。
- 日本語の中にヘブライ語に類似した単語が混在していることも指摘した。「私は14年の歳月をかけて世界各地の言語を調べあげた。世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも“失われたイスラエル10支族”の候補となる民族がいるのだが、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかった。一般に日本語はどの言語にも関連がないため、“孤立した言語”とされているが、ヘブライ語と類似した単語がゆうに3000語を超えて存在している。」としている。
- 天皇の公式名である「スメラ・ミコト」は古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっているという(「サマリア」とは古代の北イスラエル王国の首都)。
- 『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』ではアイデルバーグは以下のような解釈を示したとされている(ヘブル文字につき、ここでは一般的な書き換え法に従い、ヨッド=Y、アイン=a' とした)。
カムヤマトイワレビコスメラミコト(初代神武天皇の和風諡号)
QMW・YMthW・a'VRY・VKWR・shWMRWN・MLKWthW =創設者・ヤハウェの民・ヘブル人・高尚な・サマリアの・王
ただし、同じ本で、ジェフ・メルニックによる ビコ=VQWR=渡来した との解釈も示されている。
また、アイデルバーグの『日本書紀と日本語のユダヤ起源』では、ヤマト= YH AMWthW との解釈が示されている。
- 『日本書紀と日本語のユダヤ起源』や『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』によると、アイデルバーグは、天岩屋戸の前でコヤネが唱えたといわれる祝詞(ヒイフウミイ…)について、以下のような解釈を示した(一般的な書き換え法に従い、ヨッド=Y、アイン=a' とした)。
ヒイフウミイヨウイツムウナナヤアココノトウ
(神道の石上鎮魂法の「ひふみの祓詞」では、「ひふみよいむなやこともちろらねしき…」)
H・YpfH・MY・YtsYAH・MH・Na'NH・YQNH・thVWA
その・美しい(人)・誰?・出す・何?・答える・連れ出す・(彼女は)来る (その美しい人を誰が出すのか? 彼女を連れ出し、彼女が来るために、どのように答えるのか?)
[編集] 川守田の解釈
川守田英二は『日本言語考古学』や『日本へブル詩歌の研究』で以下のような例を提示した(川守田は、ヨッド=I、アイン=Y、シン(sh)。=S という置き換え法を採っており、以下はこれによる。)
| アッパレ | APPR | 栄誉を誇る |
| アラ・マー | YL・MH | どうした理由・何? |
| アナタ | ANT | 貴方 |
| アナニヤシ | YNNI・ISY | ヤハウェは応えた・救護をもって |
| アノー | AYNH | 私に応答させてください |
| アリガトウ | ALI・GD | 私に(とって)・幸運です |
| オイ | AWI | 泣く |
| オニ | YNI | 私を苦しめるもの |
| オハリ | AHR | 終端 |
| オヤ | AWIH | 禍いなるかな |
| グル | GWR | 団結する |
| グル | GWL | 回る |
| コラ | KRA | 自制せよ |
| サヨウナラ | SYIR・NYRH | サーイル・ニアラー 悪魔は追い払われた |
| サラバ | SLMH | シャロマー 平安あれ |
| スケベー | SKBH | 肉欲的に寝る |
| ソーラ(ン) | SWR | 注目せよ(「敵」も同じ綴り) |
| ダマレ | DM・ALI | 沈黙を守れ・私に(対して) |
| ドシン | DSN | 肥満 |
| ノコッタ | NKIT | 征服した |
| ハッケ・ヨイ | HKH・IHI | 投げうて・よろしく |
| ハイ | HIH | 生きている/居ます |
| ヒリ | HIL | 痛みを感じる |
| マズ | MH・ZH | 何?・これは |
| ヨイショ | IH・ISY | ヤハウェは・助ける |
| ワル | YWL | 凶悪な者 |
| ヤートコセ・ヨーイヤナ | IH・TQY・SWR・IHWI・IkhNN | ヤハウェは・投げた・敵を・ヤハウェは在る・憐れみ深く |
| コノナンデモセ | KWNNH・NGID・MSH | 樹てた・指導者(祭司)・モーセを |
| ヨイコラマカセ | IpfI・QHL・MkhH・SWR | 栄光の・民は・清掃した・敵を |
| エンヤラマカショ | AWN・IHL・MkhH・SAR | イワレヒコの・人格は・清掃した・残徒を |
| ドスゴイ | DWS・GWI | 踏み落とせ・異教徒を |
| エンヤコラマカショ | ANI・AQRAH・MkhH・SAR | 私は・布告す・清掃せよ・残徒を |
| サコイ | ISR・khWI | 懲らしめよ・蝦夷(カイ)(エブス:エルサレムの先住民)を |
- 東北民謡ナギャドヤラ
| ドッコイセー | DKA・khWI・SWR | 粉砕せよ・蝦夷(カイ)(エブス)・敵を |
[編集] リンドバーグの解釈
サミュエル・A・リンドバーグ
- 天皇の古称である「ミカド(帝)」はヘブライ語に訳すと「ガド族出身の者」という意味に当たるとして、天皇はガド族の子孫と主張した。ガド族の始祖であるガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという主張もあるが、英語版聖書での表記は Ezbon であり、ジェッポンとする主張の根拠は不明である(ミカドについては、ミ・ガドー:MY・GDWL:「偉大な者」とする説もある)。
[編集] その他のヤマト言葉のヘブライ語解釈
- 久保有政の著書によれば、
川守田は、ワッショイ = ヴァー・イェシュ・イャー(VA・Ysha'・YH) 来る・救い・ヤハウェ と解したとされている。
久保の著書によれば、エッサ は 持ち運べ の意味だとされているが、久保の別の共著『日本固有文明…』では、エッサ = AshA 持ち上げるぞ の意味ともされている。
- 祇園祭りの掛け声
エンヤラヤー = ANY・AHLL・YH 私は・賛美する・ヤーウェを とする解説が多い。
[編集] 聖書の関連記述
- イザヤ書11:11~「その日が来れば、主は再び御手を下して御自分の民の残りの者を買い戻される。彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。主は諸国の民に向かって旗印を掲げ地の四方の果てからイスラエルの追放されていた者を引き寄せユダの散らされていた者を集められる。」
- イザヤ書11.12では、十部族を「イスラエルの追いやられた者たち」と呼んでいるが、この「追いやられた者」とは、「割礼なき者」を意味する言葉でもある。この預言を十部族に適用するなら、割礼の習慣を持つ民族は、十部族の候補から自動的に除外される。
- イザヤ書24:14~「彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い海から叫び声をあげる。それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。 地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。」
- イザヤ書43:1~「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり、完成した者。」
- イザヤ書41:1、42:4、51:16、59の21
- エレミヤ書16:13~「わたしは、お前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。お前たちはそのところで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。……わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。」とあり、これを十部族に適用すると、地中海世界やアラブや中央アジアやインド以外の地に住み、ヤハウェ以外の神を信仰していることとなる。
- ホセア書2:1~「イスラエルの人々は…彼らは「あなたたちは、わが民でない者」と言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ一人の頭を立ててその地から上って来る。」
- ヤコブの7男であるガドの第4子がエッポンないしエツボン(AtsVN)といい(創世記46:16)これが日本の語源と主張される場合がある。(民数記26:16ではオズニとされる)
- ベニヤミンの長男であるベラの長男もエッポンないしエツボン(AtsVWN)という(歴代誌I7:6)。
- モーセの妻ツィポラ/チッポラ(tspfRH)の名の原意は「日の本」であるとする主張もある(tspfR:朝/警笛を鳴らす)。
[編集] 日本人のY染色体の特殊性
Y染色体のDNA塩基配列の国際的分類法(YCC2002)によるAからRまでの18種の大分類のうち、Alu配列と呼ばれる約300個の特定の塩基配列(YAP+因子)を持つのはDグループとEグループのみであり、DグループとEグループはおよそ5万年前に分化した近縁グループである。そのうち、Dグループが相当な頻度で存在するのは日本とチベット、インド洋のアンダマン諸島のみである(日本で30~40%、アイヌと沖縄ではさらに頻度が高く、チベットでは約30~50%)。他方、Eグループが相当な頻度で存在するのはアフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてのみである。つまり、Y染色体にAlu配列(YAP+因子)を持つ者が相当頻度で存在する地域は、アフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてとチベットと日本のみであり、日本人のY染色体の30~40%については、DNA塩基配列が近縁関係にあるものは周辺国等にほとんどなく、チベットやアフリカや中東のY染色体と近縁関係にある。なお、エチオピアのユダヤ人とされる集団でのEグループの存在率は約50%とされている(崎谷『DNAが解き明かす日本人の系譜』勉誠出版)。また、AからRまでのグループについて、アフリカ系のAB以外を大きく分けるとCグループ、DEグループ、FRグループ(FからRにかけてのグループ)に分けられるが、日本人ではC,D,O(OはFRグループに属する)から成り立っており、Cグループ、DEグループ、FRグループの非アフリカ系3大グループすべてを含む地域は世界中で日本しかないとされている。
これに対して、母から娘に伝わっていくミトコンドリアDNAの塩基配列のグループ構成については、日本人は朝鮮半島や中国東北部のものと構成が似ているとされる(『日本人になった祖先たち』)。 父系のY遺伝子が特殊系で、母系のミトコンドリア遺伝子がアジア特有のものということは、Dグループとアジア系のOグループが融合した上古代の社会の上層部は、DグループがOグループより遥かに多かったことを示しているのである。要するにDグループを祖先とする比較的少数の人々が社会の上層部にいて、多数のOグループの人々を支配していた事になる。これ以外のパターンはあり得ない。もっともDグループが日本に到達したのは14000年前で、日本の縄文文化を作ったと考えられる為、Dグループとユダヤ人とはまったく関係ないと言える。
[編集] アミシャーブの調査結果
イスラエルの十支族調査機関アミシャーブ(アミシャブ)によると、十支族である可能性があるものとして、以下が挙げられている。
- 西アフリカ
セネガル、ガンビア、シエラレオネ、ナイジェリア
- 南アフリカ
レンバ(ボツワナ)
- 西アジア
パタン人(アフガニスタン、パキスタン)
- 中央/南アジア
カナン人(インド)、カシミール人、チベット
- 東アジア
メナシェ族(ミャンマー)、チアン・ミン族(中国)、日本
- 南米
ブネイ・モーシェ(ペルー)
[編集] 批判と反論
-
- 反論
- アシュケナージ系のユダヤ人にも鎌状赤血球遺伝子が存在しない[要出典]。
- 鎌状赤血球遺伝子は自然淘汰の例として挙げられることが多く、マラリア耐性を持つためマラリアの多い地域では残りやすいがマラリアのない地域では減っていくとされている。日本には、アフリカ大陸のようにマラリアをおこす原虫が生息しないため、この遺伝子が不要であるため消滅したとの推測も成り立つ。しかし、かつては日本にも土着のマラリアが存在し、平清盛の死因になったと推測されている[要出典]。日本において瘧(間歇熱)、わらはやみ、えやみの名で古くから(大宝律令、医疾令に瘧についての条文が記載されている)死に至る高熱の病状が存在し、間歇熱は現在でもマラリアの症状としてあげられている。
- 「殆ど見られない」であって「全く完全に存在しない」ではない(→マラリア)。
- 同じセム族で、ユダヤ人と近縁であるアラブ人と、多くの日本人の風貌の違いを見ればよくわかる。ただ、中近東やインドなどに居住する東方コーカソイドは、欧米白人には白人扱いされず、「有色人種」と呼ばれているが、それは、多くの黄色人種とは意味が違う。日ユ同祖論の論者の間では、この宗教的思想から来る誤解は根強く、セム族、もしくは古代ユダヤ人は「黄色人種」であり、日本人と同族などという間違った前提による解説がなされている事が多い。イエスも実際は当時の画などから有色人種であるが、その画は現代の多くのアラブ人そっくりで、多くの日本人とは似ても似つかぬ姿である[2]。
- 反論
- 単純な意味でのコーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドという外見に基いた人種の分類は現在遺伝学的に正当なものとはみなされなくなってきている(→人種)。遺伝学の発達した現在においてアフリカ単一起源説が有力視されているが、この論から、長大な時間により人間の外見は大きく変化する事が説明できるため、外見は参考資料にしかならない(現に日本人の体格や顎の骨は戦前戦後という100年程度で変化している)。また、反論中のコーカソイドで分類される西洋と中東の人間の外見は大きく異なる点が無視されている事に加え、縄文人と弥生人の頭蓋骨に大きな差があることも無視されている(縄文人がポリネシア人に似ていると後述しているが、その縄文人の外見についてをこの時点で無視している)。
- また、セム族はアフロ・アジア語族であり、アフリカとアジアに分布する特定の言語構造やる維持単語を持つ言語を使う民族群を指すものであって外見を基にした人種によって分類される集団の名称ではない。即ち「セム語族(セム語派)≠(外見を基にした)特定の人種」であるにも関わらず「セム語族=白人」から始まるこの反論は説得力に乏しい(現実的には同一言語を話す集団であれば同じ一族であると考えられるが、セム語派とは文字通り複数の言語があり、その利用される地域は広大であることから人種の限定はできない)。
- 反論は単純に外見による旧来の人種分類と遺伝学によって証明された分類の混在が行われており、「人種」の用法があいまいになっている。
- 後続する異論において恣意的という指摘があるが、ここで資料とした『イエスの顔』があくまで当時の誰とも知れない人間の顔を再現したに過ぎないものを資料としている点にも同等に言及できる。
- セム、ハム、ヤペテの三大人種起源説については学説でも何でもなく単なる旧約聖書をベースとした宗教理論もしくは思想でしかなくユダヤーキリスト教の敬虔な信者以外信じるに値しない。この説は単に旧約聖書が書かれた時代の古代オリエント社会の三大人種、つまりセム族(東方コーカソイド)、黒色人種、白色人種という分類を近代のユダヤ-キリスト教系の宗教学者や思想家が無理に現代の三大人種論に分類し黄色人種、黒色人種、白色人種に当てはめただけと考えられる。当時のオリエント社会では日本人、中国人などの黄色人種(モンゴロイド)は見た事もない存在だったのは間違いない。また旧約聖書をベースに唱えられている人類血統論は非科学的であり、カインの系譜がノアの大洪水で滅びているなどかなり痛々しい[3]。
-
- 反論
- これは三大人種起源説への批判であり、日ユ同祖論への批判ではない。
- 日ユ同祖論者の論の立て方は極めて恣意的である。
- 例えば、イエスなど古代ユダヤ人を描写する「黒髪、黒眼、褐色の肌、縮れた髪」などを、古代ユダヤ人が日本人の祖先である証拠のように言いまわす例があるが、「黒髪、黒眼」は黄色人種の他にも、東方コーカソイド、ネグロイド(黒色人種)、ラテン系コーカソイドなど大半の人種・民族に当てはまり、「褐色の肌、縮れた髪」に至っては多くの黄色人種離れした特徴で、多くの東方コーカソイド、多くのネグロイドに強く当てはまる特徴であるにも関わらず、単に、イエスなど古代ユダヤ人が白色人種(ここでは欧米系白人ではないという意味)ではないという証拠のみを強調して使われてしまったりする事が多い。そもそも太平洋地域に広く分布し、縄文人の身体的特徴と似通っているポリネシア種族について無視されていること自体が、学説的に不自然である。ユーラシア大陸を横断し、日本に渡る過程で異種族との混血が発生したとするならば、その地域文明との融合もなくてはならないはずであり、生殖的な融合のみ発生し、極東の日本だけにユダヤ文明がたどり着いたという考えは、民俗学的にも不自然極まりない。つまり、日本へ渡る過程のルート、それぞれの地域で、DNA融合があったというのならば、それぞれの地域でユダヤ同祖説が成り立たなくてはならないこととなる。反論として、例えば「 全ての日本人がイスラエル支族の末裔と主張しているわけではなく、日本人の一部に支族の末裔がいると考えられるというだけである」というものがあるが、これが成り立つためには、いずれにせよ異種族との混血が全然起こりえなかったようなルートでユダヤ文明がユーラシア大陸を横断してきたと考える他ないが、これもまた不自然である。
- 反論
- 西安からローマまでシルクロードは約12,000~13,000kmであり、徒歩で一日にわずか5kmしか移動しなかったとしても8年で移動できる。当時の最強国家であるアッシリアの武器を持てば、10年もあれば(たった一世代のうちに)中東から日本へ移住してくる事は可能なため、混血が発生しなくとも不自然ではない。
- また、そもそも10支族については日本以外の地域にも同祖の可能性がある地域が存在しており、「日本に限定して子孫がいる」という論を展開しているわけではない事への認識が欠落している。
- 身体的特徴の類似性は全く持ってその通りであり、「そのためセム語族は白人であるからありえない」という反論の論拠も崩れてしまう矛盾が発生している。
- 天皇家の三種の神器の一つ、八咫鏡の裏にヘブライ文字が刻まれているらしい事を証拠とする意見があるが、これは実証不可能であり、しかも、仮にヘブライ文字が刻まれていたとしても、正倉院にペルシアの宝物が収められていたのと同じく、証拠にはならない。
- その他の天皇家とユダヤのつながりを示す証拠と言われるものは、近代発祥のものや、実証不可能なものが多い。
- 例えば、伊勢神宮には籠目模様の刻まれた石燈籠があり、これがユダヤ人のダビデの星と六芒星である点が同じであると一部論者により唱えられているが、矢野憲一『伊勢神宮 日本人のこころのふるさとを訪ねて』(講談社、1991年 ISBN 4-06-198041-6)によれば、1958年(昭和33年)頃、皇太子(後の今上天皇)結婚記念で、全国の石屋が組織した「伊勢三宮奉賛献灯会」が献灯した際、内宮、外宮、伊雑宮の三宮を日、月、星で表したものが偶然似たものという。
- 反論
- 神器についての異論は、本論においても明確な情報ではない事の断りが記されている。
- 仮に事実と異なる情報だったとして、しかし物証は現物が存在しないからといって即その可能性を否定する事はできない。これは同時に肯定する根拠も明確ではない事と同義だが、そのことについては繰り返しになるが論中に注記されている。
- 古代ユダヤ教では塗油といって、油を神聖なものとして見なし、聖者や特定人物などの体に清めの油を塗る習慣があるが、日本ではそんな習慣はないどころか、油は比較的、清浄とは思われてない。油が神聖とされるのは、地中海気候の乾燥した土地特有のものである。[4]
-
- 反論
- いくつかの矛盾を先に指摘し、塗油に関する資料を提示する。
- 矛盾1)塗油は指摘の通り重要な儀式であり、王や救世主、聖職者にのみ施される。それがそのままのものと考えた場合、「一般人には適用されないため民俗として習慣化する事はありえない」。何故なら『重要な儀式』である以上民俗学で言うならばハレにあたるもので、それは盆やクリスマスなどと同様日常の風習ではなく、さらにこの重要な儀式は明確なサイクルで行われるものではないからである。さらに突き詰めるならば、一部の階級の人間のみに対して行われるものである以上、信徒が気軽に行えるものではない。
- 矛盾2)塗油が一般的な儀式としそれがそのまま維持されなければ説明にならないと言う場合、「日ユ同祖論の該当年代よりもはるかに後になって伝来したカトリックの塗油が現在習慣化していない理由が説明できない」。カトリックの塗油が民俗風習化していない以上、塗油が習慣として存在しないからといって伝来を完全否定する根拠にはならない。カトリックの塗油が途絶えたと言う主張をした場合、同じ理由をユダヤによる伝来の断絶にも適用できてしまう。
- 矛盾3)異論の通り、そもそも地中海で見られる油を塗る行為は地域に根付いた習慣であり、もっぱら日焼け止め等肌の保護や美しく見せる目的である。油だから忌避すると言うイメージは恐らく石油、鉱油などから来ていると思われるが、植物性油脂によるサンオイルやアロマオイルは現代日本に商品として存在しており利用されている以上、清浄なものと思われないから肌に塗る行為は存在しないと言う展開と矛盾する。かつ、日本は地中海ほどそれを必要としない気候である以上、習慣化し得なくとも不自然ではない。
- 補足1)ユダヤ教における洗礼は沐浴であり、これは日本にも禊と言う類似した行為(いずれも水を使用する)である。この点で本異論に従った場合立派に伝来していたと説明が可能になってしまう。
- 補足2)日本の油の歴史は古い(→エゴマ、大宝律令(徴収)、日本書紀(発見))が、植物性油脂(地中海地方で用いられる油の多くはオリーブオイル)を抽出する技術の登場は平安時代(→[5])になってからである。つまり、例え習慣を持ち込んだとしても油が存在しないもしくは高価であるため維持できなかったと説明しても不自然ではない。
- 現実的にユダヤにおける塗油については指摘の通り非常に重要な儀式だが、より詳しく旧約聖書を紐解くと『生きている人(※ここでの人はユダヤ人のみを指し、それ以外は異邦人と呼ばれる)に油を塗る事は罪である』と解釈される(エゼキエル書 34:31 及び出エジプト記30:32 参照)事、及び、指摘されている通り『大変重要な儀式』であり、王、救世主、聖職者など一部に対してしか行われないのがユダヤ教における塗油である。
- ハヌカと言う油に因んだ祭りがユダヤ教には存在するが、これは塗油に関係するものではなく、マカベアの反乱(紀元前二世紀頃)時、一日の油で八日火が燃え続けた事から発生している。
- 一方、日焼け止めとして或いは痛みを和らげる目的の趣向品としても古くから油を肌に塗るという行為は、他にも類似の儀式として花嫁に対する塗油行為が挙げられる。これはそもそも油の神聖視事態がユダヤ教に起因するものではないからと考えられる(→[6] [7])
- このように「罪とされるにも拘らず習慣化している」事の不整合は「儀式としての意味の有無」に注目する事で解消でき、例え不自然に感じられたとしても、異論に指摘されている通り、儀式においても一般趣向品としても地中海地方で存在していた事実は変わらない。
- 通俗として伝わっていないとしても儀式として伝わっていないとしても、矛盾で指摘した通り塗油の風習が無いからといって渡来を否定する根拠にはならない。
- 同様に、次に続く貴重品の伝来についても『存在しないから、もしくは別のものが存在するからといって伝来の可能性を完全否定するものにはなりえない』(ユダヤは滅亡していたのでありえない、などであれば成立するが、そのような事実は無い)。
- ユダヤとペルシアは同じ中近東で、文化には幾分の類似点がある。日ユ同祖論の証拠にされる事が多い、狛犬などの神殿構造も、実際はユダヤではなく、ペルシアから伝わったという説が有力である[要出典]。飛鳥時代にはペルシア人の景教(ネストリウス派)徒で、石工の李密翳という人物が渡来し、日本に聖書文化を伝えたとされる。古代中国はペルシアとの交流が盛んで、百を超えるペルシア人コロニーが中国に存在し、多くの説話や文化を中国に伝えた。そして、それを遣隋使・遣唐使などが日本に持ち帰ったとされる[8]。
[編集] 日ユ同祖論に関連する説
- 日ユ同祖論に関連する説として、イスラエル人渡来説、イスラエル文化混入説、ヘブライ人渡来説、ヘブライ文化混入説、キリスト渡来説などがある。
- 日ユ同祖論を支持しないが、日本民族とユダヤ民族の民族性が良く似ていると主張する論者もいる。代表的論者に、内村鑑三やベン・アミー・シロニーなどがいる。彼らのような立場は、日ユ同質論とでも呼ぶべきであろう。
- 古代日本にキリスト教が伝わって、日本人に影響を与えたという説もある(唐の時代には景教と呼ばれるネストリウス派キリスト教が伝わっており、可能性はある)。この説を始めに唱えたのは、フランシスコ・ザビエルである。この説が史実だとしても、キリスト教を伝えたのがユダヤ人とは限らない為、日ユ同祖論とは区別されるべきであろう。
- 青森県戸来村に「キリストの墓」と称するものがあり、キリスト日本渡来説の根拠の一つになっている。しかし、この説で面白いのは「祖先に背の高い白い人が来て住み着いた」「沢口家では数代ごとに目の青い肌の白い人間が現れる」など明らかに古代ヘブライ人=西洋系白人という誤解を前提とした箇所があり、こんにちの日ユ同祖論と相違する点が多い点が考えさせられる。[9]。
- 日ユ同祖論者の中にはユダヤ人であるアインシュタインが来日時に発言したとされるアインシュタインの予言と呼ばれる文章を日ユ同祖論の間接的証拠として持ち出す例がある。しかし、この文章がアインシュタインのものではないという説が有力になっているうえ、そもそもいくらアインシュタインが偉大な物理学者とはいえ「全てを知る者」のような神秘的引用をするのは疑問である。
[編集] 脚注
- ^ 伊勢神宮の石灯篭は、神宮審議会では、菊の紋はよいがヒマワリの紋はいらないとしたところ、当時の式部官二荒伯爵と森岡善照(元大阪タクシー㈱社長)奉賛会長の主張により入れたが、実はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からダビデ王の紋とヘロデ王の紋を入れたら許す、との圧力がかかったともいわれている。
- ^ 英BBC番組が「イエス・キリスト」の顔を再現
- ^ アダムからイエスまでの血統図
- ^ 恐るべき塗油のまなざし
- ^ エゴマとは
- ^ URL1
- ^ URL2
- ^ ペルシア人が飛鳥にやってきた
- ^ キリスト渡来説
[編集] 代表的人物
- ノーマン・マクラウド
- 酒井勝軍
- 安江仙江
- 宇野正美
- 小石豊
- 久保有政
- ヨセフ・アイデルバーグ
- マーヴィン・トケイヤー
- 高橋良典
- サミュエル・A・リンドバーグ
- ケン・ジョセフ
- あすかあきお
- 小谷部全一郎
- 中田重治
[編集] 参考文献
- 川守田英二『日本言語考古学』(友愛書房)
- 川守田英二『日本へブル詩歌の研究』(八幡書店、1987年) ISBN 4-89350-222-0
- 川守田英二 著/中島靖侃 編『日本の中のユダヤ イスラエル南朝二族の日本移住』(たま出版、1990年) ISBN 4-88481-220-4
- ラビ・マーヴィン・トケイヤー 著/久保有政 訳『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史 失われた10部族の謎』(徳間書店、1999年) ISBN 4-19-860965-9
- 久保有政&ケン・ジョセフ 著/ラビ・マーヴィン・トケイヤー 解説『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史2 仏教・景教篇』(徳間書店、2000年) ISBN 4-19-861144-0
- 長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』(筑摩書房ちくま文庫、2001年) ISBN 4-480-03658-X
- 第四章 日本ユダヤ同祖説と陰謀説のあいだで p157~p190
- ノーマン・マクレオド&久保有政『〈超図説〉 日本固有文明の謎はユダヤで解ける』(徳間書店、2004年) ISBN 4-19-861887-9
- 上杉千郷『狛犬事典』(戎光祥出版、2001年) ISBN 4-900901-20-2
[編集] 関連項目
- イスラエルの失われた10支族
- 漫画『赤い鳩』(小池一夫、池上遼一)
- 剣山 (徳島県)
- 河豚計画
- キリストの幕屋
- 竹内文書
- イエスの墓#青森県戸来村
- 日鮮同祖論
- 日琉同祖論
- アーリアン学説
- 選民思想
- トンデモ本、陰謀論、電波系

