秦河勝
秦 河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。姓は造。秦丹照[1]または秦国勝[2]の子とする系図がある。冠位は大花上[2]。
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[編集] 概要
秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある[要出典]。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。610年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。644年、駿河国富士川周辺で、大生部多(おおふべのおお)という者を中心に「常世神」を崇める集団(宗教)を、河勝が追討した、とされる。
没したのは赤穂の坂越である。一説には流罪に遭ったためという[要出典]。坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。さらに右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた[要出典]。秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、戦国大名で知られる土佐国の長宗我部氏が有名。幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。猿楽などに従事した芸能の民にも河勝の裔を名乗る者は多く、代表的なものとしては金春流が挙げられる。「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と金春禅竹が『明宿集』の中で記している。長谷川党は大和の国衆・十市氏を刀禰とする武士団であり、薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある。また、河勝は猿楽の祖でもあり、能楽の観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称した。現在、楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるといわれている[3]。
[編集] 景教との関係
佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。秦一族が渡来する6世紀以前にすでに唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。ただしこれは学会の通説とはなっていない。しかし、平安の都市が碁盤の目、つまり十字架のような十字路になっており、そのために景教と関係があるのではないか、と言われている。ローマは大秦と呼ばれている。また、秦の始皇帝の父親が碧眼であったと言われており、中東から移住してきたという説も存在し、現イラクやイラン(古代ペルシャ)、アラム地方、エラム地方にはゾロアスター教などユダヤ教やキリスト教の前身となる宗教が存在しており、古代のユダヤ人も住んでいた。(バビロニア)参照。ペルシャ、唐、日本の間ではシルクロードを通じて交易や人の移動があったと考えられるので、このような説が浮上してくる所以である。