酒井勝軍

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酒井 勝軍(さかい かつとき、1874年3月15日 - 1940年7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。

経歴[編集]

  • 1874年3月15日山形県上山町(現上山市)で生まれる。幼名を山下勇吉といい、後に酒井姓を継いだ。山形英学校に入学するものの、家庭の事情で退学をする。
  • 1888年(明治21年)J.P.ムーアによるキリスト教の洗礼を受けて、キリスト教徒になる。
  • 1894年(明治27年)東北学院に入学。苦学して卒業した。
  • 1896年(明治29年)に初の著作『伯多大帝』(ピョートル大帝)刊行(筆名:秋野茂広)。
  • 1898年(明治31年)音楽研究を目的として渡米。サンフランシスコで新聞記者をした後にシカゴに行き、シカゴ音楽大学、ムーディ聖書学院に学ぶ。
  • 1902年(明治35年)帰国する。直ちに東京唱歌学校を設立し、新進気鋭の牧師として頭角をあらわしていく。
  • 1903年(明治36年)に『うれしき鐘歌[1]』刊行
  • 1904年(明治37年)-1905年(明治38年)語学が堪能であったことから観戦外国武官接待係として日露戦争に従軍し、実戦を目撃。初めは親米主義的・民主共和主義的・反戦平和主義的であったが次第にキリスト教の枠組みからはずれるようになっていく。
  • 1906年(明治39年)に『讃美論』、『教育と音楽[2]』などの著を刊行、湯谷瑳一郎と共に『クリスマス讃美歌』を編刊、讃美奨励会(のち日本讃美団、国教宣明団)を組織、『讃美の友』誌を発刊した。
  • 1914年(大正3年)6月7日、渋谷の夜空に幻影をみる。
  • 1918年(大正7年)シベリア出兵に通訳として従軍し、白軍将校を接待して『シオン賢者の議定書』と反ユダヤ主義の存在を知る。
  • 1923年(大正12年)帰国。
  • 1924年(大正13年)酒井は『猶太人の世界征略運動』、『猶太民族の大陰謀[3]』、『世界の正体と猶太人』を相次いで発表し、日本に反ユダヤ主義の存在を紹介する。しかし、酒井の主張は単純な反ユダヤ主義的主張ではなく、ロシアやナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に口実を与えた史上最悪の偽書『シオン賢者の議定書』も、酒井にかかっては、ユダヤ人とマソン(フリーメーソン)の暗躍が最終的には「神選の君主」たる皇室の栄光につながるという証拠文書となり、シオニズムも日本回帰運動として解釈されてしまう。酒井の主張は次第に反ユダヤ的なものから、親ユダヤ的なものに変わっていく。彼のこの思想の変遷や行為は満州経営にユダヤ資本の導入を目指し、同時にアメリカとの関係強化を画策する安江仙弘河豚計画に影響を与えたと考えられる。安江と酒井はシベリア出兵からの友人であり、酒井にシオン賢者の議定書を出版させたのも安江だと言われている。『進んで米国を敵とすべし』刊行。
  • 1927年(昭和2年)安江と酒井はパレスチナエジプト大日本帝国陸軍からユダヤ研究のために派遣された。それ以来、安江は親ユダヤ主義傾向を強めている。(酒井はエジプトではピラミッドも研究したと言われる)安江も大日本帝国陸軍特務機関に勤めながら、日ユ同祖論の書籍を出版している。安江の行為は、河豚計画を最終目的とする行為と思われるが、酒井の行為も側面から安江の計画を支援したとも考えられる。『神州天子国』出版。
  • 1928年(昭和3年)、『橄欖山上疑問の錦旗』出版。
  • 1929年(昭和4年)3月10日、酒井は高畠康次郎、長谷川栄作、中山忠也、中山忠直、鳥谷幡山らとともに磯原町天津教総本山の皇祖皇太神宮竹内巨麿の所有する竹内文書(前年公開)を拝観した。9月11日酒井は入来重彦、星野房次郎、伊藤善彌、前田準らとともに竹内巨麿を訪ね古代イスラエルのオニックスを求め「発見」し[4]同年『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』(国教宣明団出版)を出版した。11月3日、11月21日にも皇祖皇太神宮訪問。
  • 1930年(昭和5年)『神代秘史百話[5]』出版。
  • 1931年(昭和6年)、『天皇礼賛のシオン運動』出版。
  • 1932年(昭和7年)に日猶協会設立。
  • 1934年(昭和9年)4月24日、酒井は広島県庄原市を府中町専売出張所所長である堀準衛ーらとともに調査し葦嶽山をピラミッドであると断定した。5月30日に中国新聞記者らに公開調査し、全国の新聞に報じられ、広島県の山村の村が一躍脚光を浴び、続々と見物客が押し寄せることになる。(鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月、青森県戸来村(現新郷村)において、ピラミッド大石神を「発見」する。1935年(昭和10年)8月初、同ピラミッドを訪問した、竹内巨麿は塚を発見したとし後にキリストの墓とした。[6])9月11日の講演の後に飛騨高山でピラミッド上野平を「発見」する。同年、『太古日本のピラミッド[7]』(国教宣明団)出版。その後、続々と「日本のピラミッド」は「発見」され、現在に至っている。
    酒井が提唱する日本のピラミッドとは、日本のものがエジプトをはじめ海外のように人工的に造られた建造物ではなく、自然の地形を利用しながら半人工的に石や土を積み上げて造られたものだという。そして数千年という長い年月の中で日本の風土環境の中、自然の山のようになってしまった。これは、古墳が地上から見たのでは自然の山々と区別がつかないのと同じであると唱えている。
  • 1935年(昭和10年)『神代秘史』出版。
  • 1936年(昭和11年)神秘之日本社を創る。10月1日雑誌『神秘之日本』をだす。同年『神字考』出版。他に『ピラミッドの正體』などの本を出版する。その主張する内容は日本の天皇は世界に君臨すべきこと、神政復古の実現を目指すべきであること、超古代の日本に優れた文明が存在したことなどであった。それにも関わらず、酒井の出版物はしばしば特別高等警察に押収され、彼も拘束されている。しかし数々の弾圧にも屈することなく、酒井は「竹内文書」の世界を主張し続けた。
  • 1937年(昭和12年)、『天孫民族と神撰民族[8]』出版において酒井は明確にシオニズム支持の立場を表明する。
  • 1938年(昭和13年)、岩手県釜石市西の五葉山裾野の甲子村明神台で調査、5月22日、付近の川原で「ヒヒイロカネ」を発見したという。
  • 1939年(昭和14年)10月15日、地元10人と岩手県五葉山の調査。
  • 1940年(昭和15年)7月6日に酒井は死亡した。墓は多磨霊園にある。

酒井には勲五等が贈られている。

酒井勝軍に影響を受けた人達[編集]

オカルト雑誌「ムー」創刊にも参画し、1980年代オカルトブームに大きな役割を果たした武田崇元は酒井の著作に大きな影響を受け、彼の発行していた「神秘之日本」を復刻している。さらにオウム真理教麻原彰晃は「ムー」1985年(昭和60年)11月号において後に教団内で女帝と呼ばれる石井久子を伴い酒井勝軍縁の東北地方まで旅して酒井の著作の中に登場してくる霊石「ヒヒイロカネ」を生前の酒井と面識のあったという老人より譲り受けたと記述している。

脚注[編集]

  1. ^ うれしき鐘歌』 - 国立国会図書館
  2. ^ 敎育と音樂』 - 国立国会図書館
  3. ^ 猶太民族の大陰謀』 - 国立国会図書館
  4. ^ 「余はオニックス亦無かるべからずと独断し」「『竹内さん、これだけの神宝が揃ふて居る以上必ずオニックスが有る筈ですから是非お探しを願いたい』『オニックスとはどんな石ですか』『縞瑪瑙です』『ソンナものは有りません』『イヤ有る筈です』『ありません』『無いことはありません』余は必ず有ると信じて竹内氏に迫つた。そして余りに押強く出た為に竹内氏は寸時考え込んだ末『そう言はれて見ると実は十戒石と一緒に小さな硬い石がありましたが、余り能く火が出るので神宮の火打石に使って居ります、マサカそれでは無いでせう』(中略)氏は直ちに社殿に行って其石を持参した。余鉱石などには何等の識見がない。併し其石を拝見した時に直ちに『これだ』と叫んだのである。(中略)捜索の末に之に付帯した二三の古文書が発見された。何れも神代文字である(後略) - 『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』 季刊『邪馬台国』1993年(平成5年)秋号52号梓書院、[[原田実 (作家)|]]「和田家史料」群と『竹内文献』増殖する古文書群 に所収
  5. ^ 神代秘史百話』 - 国立国会図書館
  6. ^ 鳥谷幡山『十和田湖を中心に神代史蹟たる霊山聖地の発見と竹内古文献実証踏査に就て併せて猶太聖者イエスキリストの天国(アマツクニ)たる吾邦に渡来陰棲の事蹟を述ぶ』(新古美術社1936年(昭和11年))、『神代秘史史料集成・地の巻』八幡書店 復刻所収による
  7. ^ 太古日本のピラミッド』 - 国立国会図書館
  8. ^ 天孫民族と神選民族』 - 国立国会図書館

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]