ブルーノ・タウト

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ブルーノ・タウト

ブルーノ・タウトBruno Julius Florian Taut1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツ東プロイセンケーニヒスベルク生まれの建築家都市計画家[1]鉄のモニュメント1910年)、ガラスの家1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。

ジャポニスムアール・ヌーヴォーを通して日本に関心をもち、晩年来日し長期滞在した。

人物・来歴[編集]

ブルーノ・タウトは父ユリウス・ヨーゼフ・タウト、母ヘンリーテ・アウグステ・ベルタ・タウトの第三子として1880年5月4日に生まれた[1]。ケーニヒスベルクの建築学校を卒業後、ベルリンのブルーノ・メーリンク、シュトゥットガルトのテオドール・フィッシャーの設計事務所勤務を経て、1909年、ベルリンで建築設計事務所開業[2]1910年ドイツ工作連盟に参加。ライプツィヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる[3]。また1919年に、アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想『アルプス建築』や『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。

1924年から携わったブリッツジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受けた[4]。当時、第1次世界大戦で敗戦国として製品を作ることで賠償金を支払っていたドイツでは、労働者が劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであった。住宅供給公社ゲハークに就職したタウトは、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924年から1931年の8年間で12000軒の住宅建築に関わった。1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の教授に就任。

革命への憧れをもっていたタウトは、1932年から1933年までソ連で活動するが、建築界の硬直性に直面し、結局ドイツに帰国する。ところが、その直前にドイツではナチスが政権を掌握。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道ウラジオストックに到達し、海路で日本の敦賀に上陸した。祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月、日本を訪れ、そのまま亡命した。

来日の翌日、桂離宮へ案内された。桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎の達磨寺境内の洗心亭で過ごした。群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、和紙漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。

1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住。首都であるアンカラアンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍した(そのほとんどは現存している)。1938年に長年患っていた気管支喘息のため死去した。最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。タウトの遺体はエディルネ門墓地に葬られた[5]

作品[編集]

著書[編集]

  • 篠田英雄訳 『日本の家屋と生活』 春秋社、スケッチも多数収録。
    • 『タウト 日本の家屋と生活』 岩波書店、大判で数度復刊。1995年ほか
  • 篠田英雄訳 『ニッポン ヨーロッパ人の眼で観た』 春秋社
    • ※旧版は「タウト著作集」(全5巻)。他は『建築・藝術・社会』、『日本の藝術 ヨーロッパ人の眼で観た』、『日本の建築』。
  • 篠田英雄訳 『日本雑記』 〈中公クラシックス中央公論新社
  • 篠田英雄編訳 『忘れられた日本』 中公文庫
  • 篠田英雄訳 『日本美の再発見』 岩波新書旧赤版
  • 篠田英雄訳 『建築とは何か (正・続)』 〈SD選書鹿島出版会
  • 篠田英雄訳 『建築藝術論』 岩波書店(数度重版)
  • 篠田英雄訳 『画帖 桂離宮』 岩波書店・帙入り(1981年、限定復刻2004年)
  • 篠田英雄訳 『日本 タウトの日記 1933年-1936年』(岩波書店全3巻、旧版全5巻)  
  • 森儁郎〔トシオ〕訳 『日本文化私観 ヨーロッパ人の眼で見た』 講談社学術文庫
  • 森儁郎〔トシオ〕訳 『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』 講談社学術文庫  
  • 斉藤理訳 『新しい住居 つくり手としての女性』 中央公論美術出版
  • 斉藤理訳 『一住宅』 中央公論美術出版
  • 杉本俊多訳 『都市の冠』 中央公論美術出版

関連文献[編集]

  • タウト撮影 『タウトが撮ったニッポン』 酒井道夫・沢良子・平木収編著、武蔵野美術大学出版局
  • 高橋英夫 『ブルーノ・タウト』 新潮社講談社学術文庫ちくま学芸文庫
  • 田中辰明・柚本玲 『建築家ブルーノ・タウトー人とその時代、建築、工芸』 オーム社、2010年
  • 田中辰明 『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』 中公新書 2012年
  • 鈴木久雄 『ブルーノ・タウトへの旅』 新樹社-タウトの足跡・建築物を自ら訪ねた記録。
  • 土肥美夫生松敬三編訳 『ブルーノ・タウトと現代 「アルプス建築」から「桂離宮」へ』 岩波書店  
  • 土肥美夫 『タウト芸術の旅  アルプス建築への道 <旅とトポスの精神史>』 岩波書店
  • 宮元健次 『桂離宮 ブルーノ・タウトは証言する』 鹿島出版会
  • SD編集部編 『ブルーノ・タウト 1880-1938』 鹿島出版会  

展覧会図録[編集]

  • 『ブルーノ・タウト 桂離宮とユートピア建築』 マンフレッド・シュパイデル監修、ワタリウム美術館編/オクターブ、2007年2月
  • 『ブルーノ・タウト 1880-1938』 マンフレッド・シュパイデル、セゾン美術館(一條彰子、新見隆)編著、トレヴィル、1994年
  • 『ブルーノ・タウトの工芸と絵画』 上毛新聞社出版局、群馬県立歴史博物館編、1989年4月
  • 『建築家ブルーノ・タウトのすべて 日本美の再発見者 Bruno Taut 1880-1938』
     武蔵野美術大学タウト展委員会編、1984年。国立国際美術館・武蔵野美術大学、〈生誕100年記念〉ヨーロッパ・日本巡回展図録

日本との関係[編集]

  • 桂離宮日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
  • 日向別邸は熱海市に寄贈され、2005年から一般公開、2006年「旧日向家熱海別邸地下室」が重要文化財に指定された。日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された。
  • 高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている[6]
  • 渋谷駅前で忠犬ハチ公を見かけた折、存命中に銅像まで建ったその逸話に感嘆しつつも、自身が残した実績と裏腹に母国では社会的に抹殺された身であることを嘆いている。
  • 群馬県高崎市の創造学園大学内にブルーノ・タウト資料館が、2004年4月より設置され常設展示を行い、また「ブルーノ・タウト賞」を設けた(4回まで)が、経営母体である堀越学園の経営悪化により、2010年8月に資料館は閉館され、展示品は岩波書店に返却された。
  • イスタンブール郊外のベシクタシュ地区オルタキョイに、「タウト・ヴィラ」と呼ばれるタウトの自邸があり、引き戸など、日本滞在中に知った日本建築のディテールが取り入れられていることから「ジャパン・ハウス」とも呼ばれている[7]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]