フィービ・スノウ

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フィービ・スノウ
基本情報
出生名 フィービ・アン・ローブ
出生 1950年7月17日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
死没 2011年4月26日(満60歳没)
ニュージャージー州エディソン
ジャンル フォークロックソフトロック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ヴォーカル, アコースティックギター
活動期間 1972年 — 2010年
レーベル シェルター
コロムビア
アトランティック
イーグル
共同作業者 Sisters of Glory

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フィービ・スノウPhoebe Snow、本名フィービ・アン・ローブ、1950年7月17日 - 2011年4月26日)は、アメリカ歌手作曲家ギタリストである。代表作はチャート1位となった1975年のPoetry Man(ポエトリー・マン)。彼女の歌声は、うなるようなブルース調の低音から4オクターブ以上の音域を持っていると、ニューヨーク・タイムズは表現している。

デビューまで[編集]

ニューヨーク市に生まれたフィービ・スノウは、デルタ・ブルースブロードウェーのショーミュージック、デキシーランド・ジャズクラシック音楽フォーク音楽にあふれる街角に育った。彼女の父メリル・ローブは、本業は害虫駆除業者であったが、アメリカの映画と演劇に豊富な知識を持つ元エンターテイナーで、骨董品の熱心なコレクター・修復家でもあった。彼女の母リリ・ローブは、マーサ・グレアム舞踏団で演じたこともあるダンス教師であった。

スノウはニュージャージー州ティーネックの高校を卒業後すぐ、イリノイ州マウント・キャロルのシャイマーカレッジに進学したが、卒業せず音楽に没頭した。学生時代からマーティン・トリプルオーのギターを携えてグリニッジ・ビレッジのクラブを回り、アマチュア・ナイトで演奏した。彼女の芸名フィービ・スノウは、1900年代初頭のDL&W鉄道の広告に登場する、有蓋貨車に乗る若い女性の架空のキャラクターから採られた。

デビューとPoetry Manの大ヒット[編集]

1972年、ビターエンドクラブでシェルター・レコードのプロモーション担当重役デニー・コーデルに見出されたスノウは、契約後に初めてのレコーディングを行ない、1974年セルフタイトル・アルバム「Phoebe Snow(邦題:サンフランシスコ・ベイ・ブルース/ブルースの妖精フィービ・スノウ)」をリリースした。ゲストにザ・パースエイジョンズズート・シムズテディ・ウィルソンデビッド・ブロムバーグデイブ・メイソンを迎えたこのアルバムは、アメリカ国内で100万枚以上を売り上げ、当時最も評価されたレコードと言われた。「Phoebe Snow」はビルボードアルバムチャート・トップ5アルバムにランクインしたのに加え、「Poetry Man」がビルボードホット100のトップ5シングルにランクインした。このアルバムでスノウは、グラミー賞の最優秀新人賞にノミネートされ、有名歌手・作曲家の仲間入りを果たした。1975年のヒットシングル「Gone at Last(邦題:哀しみにさよなら)」でも共演した、ジャクソン・ブラウンポール・サイモンのツアーに同行して前座を務めたスノウは、雑誌ローリング・ストーンの表紙にも登場した。人気番組サタデー・ナイト・ライブへの出演では、ソロおよびポール・サイモン、リンダ・ロンシュタットとのデュエットを披露した。

ポール・サイモンのヒット曲「50 Ways To Leave Your Lover」には、ヴァレリー・シンプソンパティ・オースティンとともにバックボーカルとして参加した。この曲と「Gone At Last」はともに、サイモンの1975年グラミー賞受賞アルバム「Still Crazy After All These Years」に収録されている。

障害を持つ娘の出産と養育[編集]

Poetry Manのヒットと同時期、スノウはわずかの間だけフォークシンガーのフィル・カーンズと結婚し、1975年12月に娘ヴァレリー・ローズを授かったが、この子は生まれながら深刻な障害を患っていた。スノウは娘を施設で育てることを拒み、彼女が2007年3月18日に31歳で亡くなるまで自宅で看病を続けた。この娘の養育が事実上、スノウを音楽業界での輝かしいキャリアから遠ざけることとなった。

Poetry Man以後[編集]

シェルター・レコードとの契約のこじれからコロムビア・レコードに移籍したスノウは、1976年フィル・ラモーンのプロデュースによるセカンドアルバム「Second Childhood(邦題:夜の調べ)」をリリースした。よりジャジーで内省的なこの作品の売り上げは、前作と比べて芳しいものではなかった。プロデューサーをデビット・ルービンソンに変えて同年後半にリリースした「It Looks Like Snow(邦題:雪模様)」ののち、1977年には再びレイモンによる「Never Letting Go(邦題:薔薇の香り)」を発表した。バリー・ベケットのプロデュースによる1978年のアルバム「Against the Grain(邦題:詞華集)」を最後にコロムビアを離れたが、このころ重い障害を持つ娘の育児の負担により、音楽活動に力が入らなくなっていったと、のちにスノウは述懐している。

1981年、スノウはミラージュ・レコードと契約し、ビリー・ジョエルのバンドメンバーとレコーディングした「Rock Away」をリリースした。1983年のローリングストーン・レコードガイドでは、「同世代の歌手の中でも天性の素晴らしい声を持ち、スタイルとしても技術的にもどんな歌でも歌えるのだが、未だ答えの出ていない問題は、これほどの才能をどの方向に向かわせればいいのか、ということである」と、この時点でのスノウのキャリアが総括されている。とは言え1980年代のスノウは長くレコーディングから遠ざかり、自身も重い病気を患いながら、時折AT&Tその他の短いCMソングを、病気の娘の養育費用と生活のために歌うだけになっていた。

1989年になってスノウは「Something Real」で復帰を果たし、アダルト・コンテンポラリーチャートにランクインするヒット曲を生んだ。1990年には、エレクトラ40周年記念アルバム「ルバイヤート」収録曲として、デラニー&ボニーの「Get ourselves together」を、アース・ウインド&ファイアーのギタリスト、ディック・スミスを従えてカバーした。1992年にはドナルド・フェイゲンの「ニューヨークロック&ソウルレビュー」ツアーに同行し、同バンドのニューヨーク・ビーコンシアターで録音されたライブアルバムにも登場した。この時期、彼女自身の作品のレコーディングは行われていなかったが、フィービはソロアーティストとしてのツアーを、アメリカ、イギリスドイツ、初の来日となった日本で行なっている。その後の1990年代は、ラジオやテレビ番組の収録、トリビュート・アルバムへの出演などをコンスタントに続けた。

1998年、ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニから文化功労賞を授与されたほか、ドン・カーシュナー・ロックアワードニューヨーク・ミュージック・アワードクリオ賞などを受賞している。1999年にはキャンプ・デービットアメリカ大統領ビル・クリントンヒラリー夫妻らを前にパフォーマンスを披露している。2003年に14年ぶりとなるオリジナル・アルバム「Natural Wonder」をリリースした。その後2008年にライブアルバムを発売したほか、2010年にニューアルバムの発売と、同年3月からライブツアーを予定していた。

死去[編集]

2010年1月19日にスノウは脳出血を起こして昏睡状態に陥り、血液凝固肺炎心不全などの合併症を併発した。2011年4月26日ニュージャージー州エディソンで、60歳で死去した。

ディスコグラフィー[編集]

アルバム[編集]

コンピレーション[編集]

シングル[編集]

  • 1975年 Poetry Man
  • 1975年 Harpo's Blues
  • 1975年 Gone at Last (with Paul Simon and Jessy Dixon Singers)
  • 1977年 Shakey Ground
  • 1979年 Every Night
  • 1981年 Games
  • 1981年 Mercy, Mercy, Mercy
  • 1988年 Dreams I Dream (with Dave Mason)
  • 1989年 If I Can Just Get Through the Night
  • 1989年 Something Real
  • 2003年 Three Little Birds (with Gregory Abbott)

日本での出来事[編集]

2011年7月不祥事閣僚を辞任した松本龍が、会見でNever Letting Goを引き合いに出したことで、フィービ・スノウの名が改めて広く日本国内で知られることになった。

外部リンク[編集]