ドリー・パートン

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ドリー・パートン
Dolly Parton
2005年4月、ナッシュビルにて
基本情報
出生名 Dolly Rebecca Parton
出生 1946年1月19日(68歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州サバービル
ジャンル カントリー
職業 シンガーソングライター女優フィランソロピスト
担当楽器 ギターピアノ
活動期間 1959年 - 現在
公式サイト Dolly Parton Official Website

ドリー・レベッカ・パートンDolly Rebecca Parton, 1946年1月19日 - )はアメリカ合衆国シンガーソングライター女優カントリー・ミュージックの第一人者であり、グラミー賞受賞者。女優兼モデルのジュリア・パートンは従姉妹。

映画『9時から5時まで』の主演および同名のテーマソング『9時から5時まで』、映画『マグノリアの花たち』で有名。

ビルボードのカントリーチャートで26曲が1位を獲得。1974年には「オールウェイズ・ラヴ・ユー」でカントリーチャート1位を獲得。この曲はのちにホイットニー・ヒューストンにカバーされ大ヒットしたが、ドリーの曲はあくまでカントリー曲そのものである。

グラミー賞には42回ノミネートされ7回受賞している。アカデミー賞には1980年『9時から5時まで』、2005年『トランスアメリカ』の2回、主題歌賞にソングライターとしてノミネートされるが受賞には至っていない。

人気曲である『Jolene』はホワイト・ストライプスがカバーしている他、オリヴィア・ニュートン=ジョン版が有名。

1984年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が彫られた。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」においては第73位[1]

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第64位[2]

2006年から、ディズニー・チャンネルで放送されている『シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ』の主人公マイリー・スチュワート/ハンナ・モンタナ(マイリー・サイラス)の叔母役として、時々出演している。出演したときには、たいていマイリー・サイラスと共に歌を歌う演出がある。

パートンは過去に豊胸手術を受けているだけでなく、目や唇も美容整形によって若返っている[3]

2013年10月21日、ナッシュビルで自動車の接触事故に遭い、軽傷を負った事が報じられた[4]

初期[編集]

テネシー州セビアビルで12人兄弟の4番めとして生まれた。

  • ウィラディーン・パートン(1940年3月24日 - )
  • デビッド・ウィルバーン・パートン(1942年3月30日 - )
  • コイ・デンバー・パートン(1943年8月16日 - ) - 長女の名前をドリークリスティーナ・パートンと名付けた。
  • ドリー・レベッカ・パートン(1946年1月19日 - )
  • ロバート・リー・"ボビー"パートンJR(1948年2月18日 - )
  • ステラ・メイ・パートン(歌手 1949年5月4日 - )
  • カシエ・ナン・パートン(歌手 1951年2月12日 - )
  • ランデル・ヒューストン・"ランディ"・パートン(歌手・ビジネスマン 1953年12月15日 - )
  • ラリー・ジェラルド・パートン(1955年7月6日 - 1955年7月6日)
  • フロイド・パートン(シンガー・ソング・ライター)、フレイダ・エステル・パートン(歌手) (双子) (1957年6月1日 - )
  • レイチェル・アン・パートン(女優 1959年8月31日 - )

家族は彼女が語ったところによると『極貧』だったそうだ。生活の困窮は初期の曲であり、彼女のお気に入りの曲でもある『コートはカラフル(Coat of Many Colors)』や『In the Good Old Days (When Times Were Bad)』で歌われている。セビア郡グレート・スモーキー山脈国立公園グリーンブライヤーの北にあるペンテコステ派の信者が多く住む村であるテネシー州ローカストリッジの田舎のぼろぼろのワン・ルームのキャビンに住んでいた。ビリー・レイ・サイラスと親友となり、彼の娘であるマイリー・サイラスの名付け親となった。彼女の音楽的要素は教会の経験で培われていった。彼女は祖母がペンテコステ派の牧師だったとインタビューに答えたことがある。現在コンサートで時々宗教的な歌を歌うことがある。

キャリアの始まり[編集]

パートンは子供の頃に東部テネシーのラジオやテレビのローカル番組で歌い始めた。9歳の頃、テネシー州ノックスビルのラジオ局WIVK-FMとテレビ局WBIR-TVの『キャス・ウォーカー・ショー』に出演した。13歳の頃、ルイジアナの小さなレコード会社ゴールド・バンド・レコードでレコーディングをして、テネシー州ナッシュビルグランド・オール・オープリーに出演した。その際ジョニー・キャッシュと初めて会い、やりたいようにやるように励まされた。1964年、高校を卒業した日、彼女はたくさんの伝統的でありながらポピュラーな音楽と共に東部テネシーからナッシュビルに引っ越した。

彼女の最初の成功は彼女のおじであるビル・オウエンビル・フィリップスの『Put it Off Until Tomorrow』とスキーター・デイビスの1967年のヒット曲『Fuel to the Flame』に楽曲提供し、両方ともトップ10入りしたことである。またこの頃、ハンク・ウィリアムスJRへマイナー・チャートのヒット曲を書いた。1965年後半、当初はバブルガム・ポップ・シンガーとしてマウンテン・レコードと契約し、唯一『Happy, Happy Birthday Baby』を発売したがビルボードの100位以内に入らなかった。

マウンテン・レコードは彼女の作曲したカントリー音楽をビル・フィリップスの歌(記載はないがパートンはコーラス参加)で『Put It Off Until Tomorrow』を発売し、1966年のカントリー音楽チャートで6位となった。彼女の最初のカントリーのシングル『Dumb Blonde』(この時代の彼女の録音曲の1つであるが作詞はしていない)は1967年のカントリー音楽チャートで24位となり、追って同じ年に17位となる『Something Fishy』を発売した。2曲は最初のアルバム『Hello, I'm Dolly』に収録されている。

結婚[編集]

1966年5月30日、カール・トーマス・ディーンとジョージア州リングゴールドで結婚した。パートンがディーンと出会ったのは結婚の2年前、彼女がナッシュビルに来た最初の日のウィッシー・ウォッシーというコインランドリーだった。彼が初めて掛けた言葉は「そんな所にいると日焼けしちまうよ、お嬢さん」だったと自著で述べている。

ナッシュビルでアスファルト舗装の事業を営むディーンはいつも人前に出ることを避け、イベントに彼女と同行することは稀である。パートンによると、夫が彼女の公演を見たのはたった一度だけだという。しかし、彼女はまたインタビューで二人があまり一緒にいないように見えるのは、単に夫がいるところを見ている者がないからだとも語った。さらに、夫のロマンティックな一面を挙げ、しばしば驚くほど自発的に彼女に愛情を見せることがあり、時には彼女に自作の詩を送ることすらあるとも話している。

夫婦はナッシュビルの自宅で彼女の幼い弟妹たちを何人か育て、甥や姪たちにはパートンのことを『アント・グラニー(婆ちゃん伯母さん)』と呼ばせかわいがっているが、実子はいない。2011年5月30に二人は結婚45周年を迎えた。

またパートンと夫は、2年間に相次いで亡くなった友人夫妻が遺した息子を家族の唯一の警備員として雇っている。

音楽キャリア[編集]

1967年–1976年: カントリー・ミュージックでの成功[編集]

1967年、カントリー歌手のポーター・ワゴナーは毎週放送していた自身の番組『ポーター・ワゴナー・ショー』と地方巡業にパートンをレギュラー出演させようとした。

当初は、それまでの出演者ノーマ・ジーンが外されたことで観客は不快に思い、時々観客からノーマ・ジーンの名前をコールされたりしたが、最終的に受け入れられた。また、彼の所属するRCAレコードにパートンを契約させようとした。投資をおさえるためまずはワゴナーとのデュエットで最初のシングルを発売した。1967年終盤にこのシングル『The Last Thing on My Mind』が発売され、1968年1月、カントリーのトップ・テンに入り、事実上6年間トップ・テンに入り続けた。

1968年夏、パートンのRCAでの最初のソロ・シングル『Just Because I'm a Woman』が発売され、緩やかにヒットし、17位となった。その後10年、後にワゴナーとのデュエットで成功する『In the Good Old Days (When Times Were Bad)』以外ヒット曲に恵まれなかった。1968年、このデュエットはカントリーミュージック協会のボーカル・グループ賞を受賞したが、パートンのソロのレコードは賞を獲れなかった。1969年、パートンの将来に投資し、パートンがビル・オウエンと共に創立した出版社オウェパーのほぼ半分を所有していたワゴナーはパートンのソロ活動が成功しないために不和となっていった。

1970年頃、パートンとワゴナーの不和は拡大したが、彼女が持っていたレコードのジミー・ロジャースの『Mule Skinner Blues』で修復をはかった。1971年2月、綿密にカバーしたこの曲は3位となり、『Joshua』で初のナンバー・ワンのソロ・シングルとなった。次の2年間、彼女の代表曲となる『コートはカラフル(Coat of Many Colors)』(1971年、第4位)などの多くのソロのヒット曲、およびデュエット曲を発表した。彼女のシングルの中でヒットしなかったのは『Joshua』までであった。1973年終盤に発売された曲は1974年2月トップに入り、1976年イギリスで7位となり、これがパートンの最初のイギリスでの成功となった。1974年4月、パートンとワゴナーは最後のデュエットのコンサートを行い、1974年半ば契約途中で『ポーター・ワゴナー・ショー』への出演をやめ、1976年彼女のレコードのプロデュースへの援助だけとなった。1975年の『Say Forever You'll Be Mine』が2人の最後のデュエット・アルバムとなった。

1974年、ワゴナーへ向けて書いたとされる『オールウェイズ・ラヴ・ユー』が発売され、カントリー音楽チャートでナンバー・ワンとなった。エルヴィス・プレスリーがこの曲をカバーしたいと表明した。パートンは彼のマネージャーのトム・パーカー大佐に会うまでは興味があったが、パーカー大佐はプレスリーが録音した曲の通常の手続き同様に出版権をプレスリー側に半分以上持てるように契約するようにせまったため興味を失った。その後彼女は長年の間この曲の印税として数100万ドルを得ることとなった。このことなどから彼女はショー・ビジネス界の『アイアン・バタフライ(鉄の蝶)』と呼ばれるようになった。

1977年–1986年: ポップ・ミュージックへの進出[編集]

1983年, ハワイのホノルルにて

1974年から1980年、彼女は常にカントリーのチャートのトップ10に入り、少なくとも8曲はナンバー・ワンとなった。パートンは自身のバラエティ番組Dolly!』(1976年~1977年)を持っていた。この間、ローズ・マドックスキティ・ウェルズオリビア・ニュートン=ジョンエミルー・ハリスリンダ・ロンシュタットなど多くの歌手が彼女の曲をカバーし、彼女の兄弟のランディとステラが全ての契約を請け負った。

また、この期間パートンはカントリー音楽の垣根を越えて認知度を高めようと試み始めた。1976年、彼女はロサンゼルスのPR会社のカッツ・ガリン・モーレーと契約し、サンディ・ガリンと共に仕事をした。ガリンはその後の25年間マネージャーとして勤めた。

1976年、ポーター・ワゴナーとの共同プロデュースのアルバム『All I Can Do』が発売されるとパートンの活動はさらに活発になり、ポップ・ミュージックの主流にさらに近付いていった。彼女の完全なセルフ・プロデュース作品は1977年の『New Harvest – First Gathering』で、R&Bのクラシック『My Girl』、『Higher and Higher』のカバーを含み、彼女のポップ・ミュージックの能力を最大限に発揮した作品である。おおむね好評であったが、彼女が望んだほどの成功には至らなかった。カントリー・アルバムではトップになったが、ポップ・アルバム・チャートでは71位にとどまった。アルバムからのシングル『Light of a Clear Blue Morning』はBillboard Hot 100において87位にしかならなかった。

New Harvest – First Gathering』の残念な結果の後、パートンは挽回すべくポップ・ミュージックのプロデューサーゲイリー・クラインに次のアルバムを依頼した。その結果、1977年の『Here You Come Again』は彼女の最初のミリオン・ヒットとなり、カントリー・チャートのトップになると同時にポップ・アルバムのチャートでは20位となった。バリー・マンシンシア・ワイルによるタイトル曲である良作『Here You Come Again』はカントリーのシングル・チャートでトップとなり、パートンの最初のポップ・ミュージックのチャートのトップ10入り(第3位)した曲となった。アルバムからの2曲めの両A面シングル『Two Doors Down/It's All Wrong But It's All Right』もまたカントリーのシングル・チャートでトップとなり、ポップ・ミュージックのチャートで20位に入った。1970年代終盤から1980年代初頭までその後に出されたシングルはポップ・ミュージックとカントリー双方に同時にチャート入りした。彼女のアルバムはこの間、ポップとカントリーのクロスオーバーに成功したと言える。

1978年、パートンはアルバム『Here You Come Again』でグラミー賞最優秀女性カントリー・ボーカル賞を受賞した。彼女は『Heartbreaker』(1978年)、『Baby I'm Burning』、『You're the Only One』(共に1979年)と次々とヒットを飛ばし続け、ポップ・ミュージックのシングル・チャートで全てトップ40に入り、カントリーのシングル・チャートではトップになった。1977年、1978年、1979年とテレビに出演し、パートンの知名度は上がり続けた。最も顔が知れ渡るきっかけとなった1977年12月の率直なインタビュー番組『バーバラ・ウォルターズ・スペシャル』(『Here You Come Again』の発売に合わせた時期)である。続いて1978年、ABCテレビジョンの『シェール・スペシャル』に出演、キャロル・ バーネットとの共演でCBSの自身の番組『Carol and Dolly in Nashville』に出演した。またCBSのスペシャル番組『Fifty Years of Country Music』でロイ・クラークグレン・キャンベルとの3人での司会の番組に出演した。1979年、パートンはワシントンD.C.フォード劇場で収録されたNBCのスペシャル番組『The Seventies: An Explosion of Country Music』に出演した。当時の大統領ジミー・カーターもこの番組の収録を観覧していた。

パートンの成功は1980年にも伸び続け、ドナ・サマーによって書かれた『Starting Over Again』、『Old Flames Can't Hold a Candle to You』、『9 to 5 (9時から5時まで)』の3曲のナンバー・ワン・ヒットに恵まれた。

映画の撮影に時間を割いていたため作曲のための時間が少なくなり、1980年代初頭はほとんどバリー・マンシンシア・ワイルルパート・ホームズゲイリー・ ポートノイキャロル・ベイヤー・セイガーなどの著名なポップ・ミュージックの作曲家の曲をレコーディングした。

9 to 5』をテーマ曲とする映画『9時から5時まで』(1980年)でパートンはジェーン・フォンダリリー・トムリンと共演し、このテーマ曲はカントリーのチャートでナンバー・ワンだっただけでなく、1981年2月にはポップ・ミュージックのチャートとアダルト・コンテンポラリーのチャートでもナンバー・ワンとなり、トリプル・ナンバー・ワン・ヒットとなった。パートンはカントリーとポップ・ミュージックの双方同時にナンバー・ワンとなった数少ない女性カントリー歌手の一人となった。またこの曲はアカデミー賞の部門の一つであるアカデミー歌曲賞にノミネートされた。

1981年から1985年の間、パートンのシングルはカントリーのトップ10に登場し続け、12曲のトップ10ヒット曲を生み出し、それらの半分はナンバー・ワンとなった。パートンはポップ・ミュージックのチャートに登場し続け、映画『テキサス1の赤いバラ』(1982年)に使用された『オールウェイズ・ラヴ・ユー』を再録してその年のトップ50に入り、1983年、バリー・ギブプロデュースでビージーズによって書かれたケニー・ロジャースとのデュエット曲『Islands in the Stream』は2週連続ナンバー・ワンとなった。

彼女のアルバムの多くは純粋なカントリーだった頃から『Islands in the Stream』のようにアダルト・コンテンポラリーに位置付けられていた。彼女はまた1986年にテネシー州ピジョン・フォージにオープンしたドリーウッドのようなエンターテイメント事業などの新しいビジネスを模索し続けた。彼女のレコード売り上げはまだ好調で『Save the Last Dance for Me』、『Tennessee Homesick Blues』(共に1984年)、『Real Love』(ケニー・ロジャースとのデュエット)、『Don't Call It Love』(共に1985年)、『Think About Love』は全てカントリーのチャートでトップ10となった。(『Tennessee Homesick Blues』と『Think About Love』はナンバー・ワンとなった。『Real Love』もまたカントリー・シングル・チャートでナンバー・ワンとなり、ポップ・ミュージックとのクロスオーバー・ヒットとなった)しかしながらRCAレコードはその年の契約が切れると更新せず、1987年、彼女はコロムビア・レコードと契約した。

ビジネス[編集]

1998年、ナッシュビル・ビジネスで最も裕福なカントリー歌手としてランクインした。

ドリーウッド・カンパニー[編集]

彼女が生まれ育ったテネシー州の東側、ピジョン・フォージに資財の多くを投じた。彼女はピジョン・フォージにあるテーマパークドリーウッド(以前のシルバー・ダラー・シティ)、ディナー・シアターのドリー・パートンズ・ディキシー・スタンピードウォーターパークドリーウッドのスプラッシュ・カントリーを運営するドリーウッド・カンパニーの共同所有者である。

ドリーウッドは年に300万人の来場者があり24回めのアメリカで最も人気のあるテーマパークにランクインされた。この地域はアメリカ南東部および中西部の広範囲に渡り観光地として盛況となった。アパラチアと呼ばれるこの地域は数十年の間経済的に困窮していたが、彼女の投資により復興した。

ディキシー・スタンピードはミズーリ州ブランソンサウスカロライナ州マートルビーチにも店舗を構える。以前はフロリダ州オーランドにもあったが、土地開発業者に土地と建物を売却し2008年1月に閉店した。

映画およびテレビのプロダクション会社[編集]

パートンは彼女の以前のマネージャーであるサンディ・ギャリンと共にサンドラ・プロダクションの共同経営者である。映画およびテレビのプロダクション会社であり、第62回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞Common Threads: Stories from the Quilt』(1989年)、テレビ・シリーズの『Babes』(1990年–1991年)、『バフィー 〜恋する十字架〜』(1997年–2003年)、他の映画は『花嫁のパパ』(1991年)、『花嫁のパパ2』(1995年)、『ストレート・トーク/こちらハートのラジオ局』(1992年)(パートン出演)、『サブリナ』(1995年)などがある。2009年、インタビューでコニー・フランシスは、ドリーに歌手人生の映画に出演してほしいと何年も言われていると話した。フランシスは歌手のグロリア・エステファンとすでにコラボレーションの交渉中であった。

他のビジネス[編集]

1987年から一時期、パートンはハワイ州ホノルルハワイ・カイで高級レストラン、ドックサイド・プランテーションを経営していた。また1990年代初期、レブロンからウィッグのオリジナルがあった。最も売り上げが高かったのは『ドリーズ・オウン』で、違う名前で現在も売られている。

慈善活動[編集]

1980年代半ばから、ドリーウッド基金をはじめとして読み書きを主とした多くの慈善活動をしている。

ドリー・パートンのイマジネーション・ライブラリー[編集]

この『ドリー・パートンのイマジネーション・ライブラリー』という読み書きプログラムは、ドリーウッド基金の一部であり、生まれてから幼稚園に入るまでの登録された子供たちに毎月1冊ずつ本を送っている。当初はセビア郡のみで始められたが、現在アメリカの36州(カナダを含む)の566カウンティで行われている。2007年12月、この活動はヨーロッパにも広がり、イギリスロザラムにあるサウス・ヨークシャーが最初の場所となった。

このプログラムは、毎年子供たちに無料で250万冊配布されたことになる。

2006年、料理本『Dolly's Dixie Fixin's: Love, Laughter and Lots of Good Food』が発行された。売り上げはドリーウッド基金に還元される。

他の慈善活動[編集]

ドリーウッドは雇用を生み出し、地域への税収入をもたらした。

アメリカ赤十字社や多くのHIV/エイズ関係のチャリティに提供するための資金集めをしている。

2006年12月、彼女が生まれた時に取り上げた医者であるロバート・F・トーマスの名前でセビア郡に病院がんセンターを建設するため50万ドルから9000万ドルを目標とし、このプロジェクトの資金調達のためのチャリティ・コンサートの計画を発表した。コンサートの集客は8000人だった。

2009年5月、テネシー大学の卒業式の送辞を送った。彼女のスピーチは彼女の人生について語り、そして夢を持つことをやめないように卒業生たちを励ました。

脚注[編集]

  1. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Dolly Parton”. 2013年5月26日閲覧。
  2. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
  3. ^ Nipped, Tucked & Talking”. ピープル (2003年9月1日). 2009年12月3日閲覧。
  4. ^ カントリー音楽の大御所D・パートン、車の接触事故で軽傷負う” - ロイター、2013年10月23日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]