英領ウガンダ計画

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英領ウガンダ計画(British Uganda Programme)は、20世紀初頭にイギリス政府が、イギリス領東アフリカ(現在のケニアおよびウガンダ)の一部にユダヤ人国家を作ろうとした計画。

経緯[編集]

計画の打診[編集]

1903年、当時の植民地相であったジョゼフ・チェンバレンテオドール・ヘルツルらのシオニズム運動グループにアフリカでの母国建設を打診した。当時、ロシア帝国ではユダヤ人に対してポグロムが起こっていたが、チェンバレンは弾圧から逃れたユダヤ人のための行き場として今日のケニアにあるマウ高原の5,000平方マイル(約13,000平方キロメートル)の土地の提供をもちかけている[1]

この打診は1903年にバーゼルで開催された第6回シオニスト会議の議題に上り、激しい議論が起こった。このころ、イスラエルの地であるパレスチナへのユダヤ人入植は着々と進んでいたが、オスマン帝国の領内に独自のユダヤ人国家を築くという目標は行き詰まりを見せていた。アフリカの高原への入植を支持する者は、これをイスラエルの地への入植という最終目標に先立つ応急措置として「聖地への前室」(ante-chamber to the Holy Land)や「夜をしのぐための場所」(Nachtasyl)などと呼んだ。一方、この打診を受け入れてしまうと今後パレスチナへのユダヤ人国家建設が困難になってしまうと考え、強硬に反対する者もいた。採決の直前にロシアからの代表が抗議のため退出してしまう一幕もあったが、動議は295票のうち177票の賛成で可決された。

調査[編集]

翌年、現地視察のために3人の代表が高原地帯へ送られた。この高原は赤道直下にもかかわらず標高が高いため気候は穏やかで、ヨーロッパ人の入植には適した場所だと考えられていた。しかし代表たちは、ライオンほか危険な野獣が多いことを問題に挙げている。その上、ヨーロッパ人の入植を従順に受け入れそうにないマサイ族が大勢暮らしていることが問題であった。

計画の破棄[編集]

この報告を受け、翌1905年のシオニスト会議ではイギリスによる打診を丁重に断ることを決めた。ユダヤ人の中には打診を断ったことを失敗と考えた者もいた。イズレイル・ザングウィルらはイスラエルの地にこだわるシオニストと対立し、世界のどこであれユダヤ人が住むに適する場所にユダヤ人の国を持つべきだという「領土主義」を主張してシオニスト会議から離脱し、ユダヤ領土主義組織(Jewish Territorialist Organization)を結成してアメリカやアジア、アフリカなどでの国家樹立を模索した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]