アーサー・ケストラー

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アーサー・ケストラーArthur Koestlerブダペスト1905年9月5日 - ロンドン1983年3月3日)は、ユダヤ人ジャーナリスト小説家、政治活動家、哲学者

ハンガリー出身のユダヤ人でありながら、著書『第13支族』で、アシュケナジムユダヤ人のルーツはユダヤ教改宗したハザール人であると主張した。またソ連の現状など当時タブーとされていたことを積極的に書いた。後にイギリスに帰化している。

生涯[編集]

誕生からパレスチナ入植まで[編集]

ユダヤ系ハンガリー人の父とオーストリア人の母に生まれる。出生時の名前は Kösztler Artúr(ケストレル・アルトゥール)。ドイツ語圏出身の母親がハンガリー語の習得を拒否したり、第一次世界大戦期にウィーンに一家で移住したなどの事情もあり、ケストラーは『真昼の暗黒』(1940)[3]前後までドイツ語によって著述を行った。以後、著作は英語によって行われることになるが、ケストラー自身はヨーロッパ大陸的な多言語使用者だった。 父親は実業家であり、その家庭は裕福なものであったが、第一次世界大戦によって事業の継続が困難になりウィーンに移住後、ケストラーがウィーン工科大学に入る頃には苦学をせざるを得ない状況だった。学生時代にはシオニストの決闘クラブに所属し、登山に熱中した。大学を中退後、確たるあてもないまま、シオニズムへの関心から1926年パレスチナに入植する。

ナチズムとスターリニズムの間で[編集]

パレスチナへの入植は思わしい結果に繋がらず、現地でドイツ最大の通信社ウルシュタインの職を得たのがきっかけとなり1929年にはフランス支局の特派員となった。翌年、自然科学についての知識の深さを認められ、科学欄編集長としてベルリン本社へ配属され、ここでナチスの台頭に直面する。以降、ホロコーストを題材とした小説『出発と到着』(1943)[4]の執筆など、終戦に至るまで一貫したナチス批判を繰り広げることになる。同時期、マルクスエンゲルスの思想に出会いドイツ共産党に入党する。ほどなくウルシュタイン社を解雇され国際革命作家同盟の招きでソビエトに滞在したが、その全体主義的独裁体制を目の当たりにして、1933年フランスに亡命することとなった。以後、スペイン内戦までの期間を食事にも事欠くような生活を送る。

スペイン内戦では、共産党組織のつてを頼り、英ニュース・クロニクル紙の特派員としてフランコの反乱軍の支配地域に二度の潜入報道を試みる。一度目は入国直後に身分が発覚、からくも脱出したが、フランコ軍ナチスの協力関係を暴露し、一定の成果を収める。これによってフランコ軍の怒りを買ったケストラーは、二度目の潜入時に捕らえられ、死刑の宣告を受けて四ヶ月の拘留をされるもイギリス政府の介入で救出されることとなった。この体験は『スペインの遺書』(1937)[1]として発表している。

イギリスでの短い休養を経てフランスに舞い戻ったケストラーは、第二次世界大戦勃発でヴィシー政権により反ナチス的人物と見なされ収容所に収監されることになる。ケストラーはフランス外人部隊に配属されることによって収容所から開放され、まもなく逃亡してイギリスに帰還する。この経緯は『地上の屑』(1941)[2]として発表されている。以後、イギリス軍に参加するなどして終戦までを送る。

『真昼の暗黒』(1940)[3]では、ソビエトへの移住経験やスターリンの粛清を逃れて来た知人の証言を元に、スターリン体制の非人道的裁判を小説化している。この小説はソビエトへの幻想の未だ消え去らない西欧知識層に衝撃を与え、一般にケストラーの最大の業績とされる。この時期にケストラーはドイツ共産党に対して離党通告を送り、トロツキスト(広義での)に転向する。

1945年、ケストラーはイギリスに帰化するが、その後しばらくをフランスで過ごすことになる。この頃のケストラーはボーヴォワールの私小説の登場人物にもなっていると言われる。

目に見えぬ文字[編集]

1956年、故郷を襲ったハンガリー動乱では積極的な活動を展開するも、自ら企画した集会では自身の政治への決別を公表して聴衆を失望させる。最近の伝記では、この時期のケストラーに複数件の女性への暴力沙汰の嫌疑がかけられている。ケストラーの女性に対する関心の強さは当時から周知の事柄であったらしく、彼の知人によると、逆に女性の側から手柄話を聞かされることすらあったとのことである。

以後[編集]

1960年ごろには、ティモシー・リアリーとも接触している[1]

表立った政治活動を控えるようになってからも幅広いテーマに渉って執筆を続けるが、主として元来の出自である自然科学の領域に対する関心を強める。1967年に出版した『機械の中の幽霊(The Ghost in the Machine)』[5]では彼の発明による概念「ホロン」の提唱などで、ニューサイエンスムーブメントの発端となる。同著では、カール・ポパーの唱えた反証可能性を下敷きに生物学心理学等における機械的観念論(還元主義)への批判を展開し、晩年は広範な学識を元に『偶然の本質』(1972)[6]に見られるように超常現象へ関心を寄せた。しかし、その意義について理解を寄せる者は決して多くはなかったようである。『機械の中の幽霊』でケストラーは様々な知的試みを展開するが、最終的な解決策としての薬物投与による人類の制御という提言については大きな疑問も残る。

生涯、強度の抑鬱状態に悩まされ、飲酒を好み、晩年は抗欝剤も使用していた。1983年3月、自身のパーキンソン病白血病を理由に、安楽死推進団体の規定手順に従い夫人と共にバルビツール剤(睡眠導入剤)を用いて服毒自殺を行い議論を呼んだ。現場には「自らの意志によってそれが可能である内に自らを苦痛から救出する」という動機と後に残される夫人シンシアへの謝罪と感謝を記したケストラーの遺書と共に、「アーサーのいない人生は私には耐えられません」という夫人の遺書も遺されており、二人の間にいかなるやりとりがあったかは永久に謎のままである。

主な著作[編集]

自伝[編集]

小説[編集]

評論他[編集]


(※注:主なもの。邦訳のないもので関連著作に記述のあるものは、参考として末尾に仮題を記しておいた。)

ケストラーと日本[編集]

ケストラーの日本嫌いはつと知られたところであり、日露戦争における大日本帝国の勝利を「ヨーロッパ個人主義の終わり」と評していた。1959年昭和34年)に来日した際、日本ペンクラブに対する声明で物議をかもしている。戦前から欧米の知識人に広く読者を持っていた学者の鈴木大拙の著作『東洋の心』の一文によると、この時期、を批判したケストラーの長い評論の載ったイギリスの月刊雑誌「エンカウンター」が大拙の元に届けられている(この雑誌の主宰はアーウィング・クリストル)。鈴木大拙には思想の立場から機械的観念論を批判した文章が多い。ケストラーが『機械の中の幽霊』[5]を出版したのは鈴木大拙死去の翌年1967年のことである。

サブカルチャーへの影響[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『フラッシュバックス』T・リアリー(山形浩生監訳、トレヴィルリブロポート
  2. ^ ドラッカー『傍観者の時代』、栗本慎一郎『ブダペスト物語』など

外部リンク[編集]