魔女狩り

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棒にまたがった魔女図像の最初期のもの[1]マルタン・ル・フランフランス語版の長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より。

魔女狩り(まじょがり、: chasse aux sorcières: Hexenverfolgung: witch-hunt)は、魔女または妖術[註 1]の被疑者に対する訴追裁判刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。妖術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と結託してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは社会不安から出来した集団ヒステリー現象であったとも考えられている。

かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かった。このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された[2]」と考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。

妖術に対する恐れは過去のヨーロッパのみならず多くの社会に普遍的にみられる人類学的事象であり、20世紀以降もアフリカパプアニューギニアインドなどで妖術の容疑者に対する迫害が行われたことが報告されている[3]。それら非ヨーロッパ諸国の現代の魔女狩りとヨーロッパの歴史的魔女狩りとの類似点に鑑み、魔女狩りの定義を拡大適用して時代や地域の限定から解き放つ必要が生じている[4]

ヨーロッパにおける魔女狩り[編集]

古代以来、何らかの超自然的な手段で他者を害することのできる人がいると信じられていた。ヨーロッパにおいてこの信仰はラテン語マレフィキウム英語版と呼ばれる「害悪魔術」の概念につながっていく[註 2]

ギリシア語のパルマコン (pharmakon) は医薬と毒薬という両義性をもつ言葉で、これから古代ギリシアで妖術に相当するパルマケイア (pharmakeia) という言葉が派生した(パルマケウス pharmakeus、女性形パルマケウトリア pharmakeutria は薬師、毒殺者、妖術師を意味する)。イオニアの古代都市テオースで、毒ないし悪しきまじない (pharmaka deleteria) で人や国家に危害を加える者は死すべし、という禁令があったことを示す史料があり、他の都市にも同様の掟があったと考えられる[5]

古代ローマでは害悪魔術は犯罪として処罰の対象であった。共和制ローマの最初期の成文法「十二表法」では、超自然的な方法で他人の畑作物を自分のものにする行為などに対する刑罰が規定されていた。リウィウスの『ローマ建国史』によると、疫病で多数の死者が出た前331年に、170人がウェネフィキウム(veneficium、毒殺ないし妖術)の嫌疑をかけられて処刑された。さらに前2世紀には妖術の廉で数千人規模の人々が処刑される事件が数回起こったという(前184年に約2千人、前182-180年に約3千人)[6]。これらの事例には、社会不安の高まりがパニックを引き起こしたことや拷問の横行など、後のヨーロッパの魔女狩りと同様の特徴がみられる。

中世ヨーロッパでも、暴力や窃盗と並んで「呪術によって出た害」も裁きの対象となっていたが、世俗的な犯罪としての妖術には特別重い刑が科されるというわけでなく、他の犯罪と同じように被害に応じた刑が科せられていた。また、同じ呪術でも良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる白魔術は一般的に良いものとみなされていた。中世ヨーロッパの各地では、刑事裁判も民事裁判と同様に告発的訴訟手続を通じて行われており、原告と被告の当事者が対等の立場で争い、地元の有力者が参審人として不文律的な慣習法に基づいて判決を提案するという形式が取られていた。告訴する側が被告の有罪を証明して裁判官に認めさせることに失敗すると、告発者の方が罰を受けなければならなかった(同害刑法)。被告の無罪を証明する方法として神判決闘が行われることもあった[註 3]。記録に残る中世の妖術裁判の事例が少ないのは、そのような訴訟手続では妖術師を裁くことが困難であったためではないか、とノーマン・コーンは論じている。一方、中世の民衆が行った妖術師に対する私刑については、年代記等にさまざまな事例が記録されている[7]


かつて「魔女狩り」といえば、「中世ヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派の弾圧やテンプル騎士団への迫害以降にローマ教皇庁の主導によって異端審問が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」などと語られることが多かった。しかし1970年代以降、さまざまな研究によってこのようなステレオタイプな見方は覆されることになった。ノーマン・コーンとリチャード・キークヘファー (Richard Kieckhefer) はそれぞれ独自に、それまで14世紀前半の南仏で大規模な魔女迫害が起こったと言われていたのは、実は19世紀の小説家ラモト=ランゴンの空想の産物を歴史家が真に受けたものにすぎない、ということを明らかにした[8]。実際には、記録に残っている最初の大規模な魔女裁判が起こったのは中世も終わりに近づいた15世紀前半のことであった[9]。異端の追求は行っていても、呪術の問題は管轄外であった異端審問官が魔女狩りとかかわりを持つようになるのは、15世紀に入ってからのことである[註 4]。また、15世紀の初期の魔女裁判においても、審問を行ったのは必ずしも異端審問官ではなく、司教裁判所や世俗裁判所が異端審問的/糾問主義的な裁判手続をもって執行する場合もあった。ヨーロッパ大陸では、中世から続く当事者主義的な訴訟手続は、司直が職権として訴訟を開始し判決までを取り仕切る糾問主義的な訴訟手続に取って代わられた。教会法廷の扱う魔女裁判はやがて減少し、魔女裁判の最盛期には世俗法廷で行われるものが大半となった。この時代、ドイツの一部の村では「委員会」という組織が結成され、住民を代表して魔女を告発するだけでなく、証人を尋問したり、領邦裁判所に圧力をかけるなどして魔女迫害を推進した。イングランドでは国王の任命した職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行った[10]

魔女狩りの展開と衰退[編集]

12世紀に始まった異端審問が本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはワルドー派が迫害を逃れて潜伏していたアルプス西部地方(スイスのヴァレー州、フランスのドーフィネサヴォワ)で始められた。ノーマン・コーンによれば、記録に残るものでは1428年にスイス、ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供を捕えて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった(当時は魔女は群れるものとされていたのであり、森に一人で住む魔女というイメージはグリム童話などに負うところが大きい[11])。

また、魔女の概念は当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義とも結びつき、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像が作られていった。魔女の集会がユダヤ人にとって安息日を意味する「サバト」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ主義の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。

『魔女の槌』題扉

15世紀に入ると、魔女と妖術に関する書物が一種のブームとなる。たとえばニコラス・ジャキエ英語版の『異端の魔女の鞭』(Flagellum Haereticorum Fascinariorum, 1450年)やウルリヒ・モリトール英語版の『魔女と女予言者について』(De lamiis et phitonicis mulieribus, 1489年)などがあり、特に有名なものとしてドミニコ会の異端審問官であったハインリヒ・クラーマー英語版によって書かれた『魔女の槌』(1487年)がある。

魔女狩りに対しては当時から多くの反対意見があったが、その中で特に大きな影響を与えたのがヨーハン・ヴァイヤーであった。1563年に『悪霊の幻惑について』 (De Praestigiis Daemonum) を発表し、『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠も信仰もない」と非難している。その一方で、「やっかいな悪魔に誘惑された高位高官の人びとに対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり責任は悪魔にあるとの説を展開し、これまで魔女裁判を行った者への配慮も怠らなかった。同書は大きな反響を呼び、多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書の論理で弁明をすることもあった。第三版の刊行時にヴァイヤーは皇帝フェルディナント1世に「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら、次第に魔女狩りを行う地方が増加していき、ヴァイヤーが『悪霊の幻惑について』を執筆した地においても1561年には水審と拷問が復活している[12]

魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについてはさまざまな説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀はガリレオ・ガリレイ1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン1643年-1727年)など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的な魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといってもメディアの発達していない当時の社会ではある思想が階級や国境を超えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートンが錬金術に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考様式から脱していなかったことを理解する必要がある。

ただ、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック・プロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女や妖術への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかった。しかしながら、これを引き継いだ1735年妖術行為禁止令は、1951年に詐欺的霊媒行為禁止令に取って代わられるまで存続し、1944年にヘレン・ダンカンが最後の拘留者となった。この逮捕は、彼女によってノルマンディー上陸作戦の計画が露見するかもしれないことを恐れた軍情報部の要請によるものとも言われている。1735年妖術行為禁止令は1983年までアイルランドで施行され続けた(が、実際に適用されることはなかった)。パレスチナを委任統治していたイギリスの法制度を導入したイスラエルでは、現在でも施行され続けている。詳細は en:Witchcraft_Act#1735_Act を参照。

魔女裁判の方法[編集]

魔女の火刑

魔女狩りの根拠とされたのは旧約聖書出エジプト記」22章18節の「女呪術師を生かしておいてはならない」 (מְכַשֵּׁפָה לֹא תְחַיֶּה [məḵaššēṕāh lō’ təḥayyeh]) という記述である[13]。ここで言う女呪術師、原語メハシェファ (מְכַשֵּׁפָה) とは、「魔法を掛ける」「魅惑する」という意味の動詞キシェフ (כִּשֵּׁף [kiššēṕ]) と語根を同じくする女性名詞である[14]。この「魔術を行う女性」というほどの曖昧な表現が、ヴルガータでは「妖術師」 (maleficos)、欽定訳聖書1611年)では「魔女」 (witch) という言葉に訳され、当時の人々のイメージに合わせて書き換えられた。このため、この部分が魔女狩りの聖書における根拠になりうると考えられた。

魔女として訴えられた者には、町や村、もしくはその近郊に住む女性で、貧しく教養がない、あるいは友人が少ないといった特徴を持つものが多かったようである。近代に入ってもカトリック・プロテスタントを問わず、宗教界の権威者たちは非キリスト教的な思想を嫌った。それは旧約聖書にあるヘブライ人たちの多神論への攻撃にその論拠を求めたものであった。

裁判において訴えられた者が魔女であるか否かは取調べによって明らかにされた。取調べでは拷問が用いられることもあり、最も残酷なものとしては熱い釘をさしたり、指を締め上げたりといった恐ろしい方法も用いられた。ただ、このような拷問が全員に対して行われたわけでなく、拷問の使用の是非は地域や取調官の性格によっていた。たとえば清教徒革命の時代(17世紀)にイギリス東部で「魔女狩り将軍」を名乗ったマシュー・ホプキンスなる人物がいた。かれは魔女と思しき人物を探し出し、体にある「魔女のしるし」を見つけては魔女であることを確定していた。ホプキンスは魔女狩りの歴史において最悪の「魔女発見人」の一人であるが、かれの取り調べた件であっても、訴えられた人がすべて魔女とされたわけではなく、無罪放免になったケースも多かったことが明らかになっている。ただ、このホプキンスの魔女に対する取調べでは、残酷な拷問が用いられたり、魔女であることの証明を得るため、拷問によって本人の自白を得るか、知人や隣人に証言させるという方法を用いたことが知られている。

処刑法としてはヨーロッパ大陸では焚刑(火あぶり)が多く見られたが、イギリスでは絞首刑が主流であった[15]。ほかにも溺死刑などがあった。

『拷問の歴史』 (The History of Torture Throughout the Ages) の中でジョージ・ライリー・スコット英語版によると、魔女の疑いをかけられた者に対しての取調べや拷問は、通常の異端者や犯罪者以上に過酷なものでなければならないという通念がはびこっており、それだけでなく魔女に対する取調べのために新しく考案された拷問もあったという。

時期と地域、犠牲者数[編集]

魔女狩りはかつて「長期にわたって全ヨーロッパで見られた現象」と考えられていたが、現代では時期と地域によって魔女狩りへの熱意に大きな幅があったことがわかっている。全体として言えることは、魔女狩りが起きた地域はカトリック・プロテスタントといった宗派を問わないということであり、強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたということである。その理由としては、小領邦の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまったことが考えられる。

時期を見ると16世紀後半から17世紀、さらに限定すると中央ヨーロッパでは1590年代、1630年頃、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。

地域別に見るとフランスは同じ国内でも地域によって差があった。ドイツでは領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。イタリアヴェネツィアでは裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され処刑はほとんどなかった。スウェーデンでは強力な王権のもとで裁判手続が厳守されており、三十年戦争期には占領したドイツ領邦で魔女狩りを抑止していたが、17世紀中頃より大規模な魔女狩りが発生している。スペインバスク地方を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。オランダでは1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。ポーランド、少し遅れて18世紀のハンガリーでは激しい魔女狩りが起こった。イングランドでは1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に、イングランドに隣接し1717年以降同君連合を形成していたスコットランドでは1590年代~1660年代と長きにわたっており、一方アイルランドではほとんど見られなかった。北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、1692年ニューイングランドのセイラムで起こった大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判)が例外的な事件であった。それゆえに人々に衝撃を与えアメリカの歴史に暗い影を落とした。同時に、魔女狩りの当事者による公的な謝罪が行われた唯一の事件でもあった[16]

魔女狩りの犠牲者に関しての最も極端な説は、18世紀の歴史家ゴットフリート・クリスティアン・フォークト英語版が示した900万人である。これはあまりに極端であるとしても、かつて魔女狩りについて(客観的な根拠がないまま)犠牲者数が数十万人から数百万人と見積もられていた時代もあった。しかし近年行われている一次史料からの推計によれば、魔女裁判による処刑者数は1428年から1782年までに全ヨーロッパで最大4万人であるとされており、ヴォルフガング・ベーリンガー英語版、ロビン・ブリッグス (Robin Briggs)、ロナルド・ハットン英語版といった研究者らはこの見解で一致している[17](民間の魔女迫害における私刑の犠牲者はこの推計に含まれないが、これについては無根拠な憶測しかできない[18])。

魔女狩りとは何だったのか[編集]

19世紀に入って近代的な歴史学が発展すると、魔女狩りを歴史の中でどのように理解すべきかについて多くの説が提示された。

たとえばドイツの歴史家ヴィルヘルム・ゾルダンドイツ語版は、魔女狩りとは権力者や教会関係者が金銭目当てで行ったものだという説を唱えた。つまり封建制度時代によく行われていた私的徴税の一種を行うための詭弁として魔女狩りが行われたというものであるが、被告のほとんどが財産をもたない貧しい人々であったことや、告発者が利益を得る仕組みがなかったことが明らかになっているため、現在では受け入れられていない。

他にも、19世紀のフランス人ジュール・ミシュレやエジプト研究家マーガレット・マリー英語版は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と考えたが、実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠は依然として何も得られていない。20世紀に入ってもジェラルド・ガードナーが「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰を信じていた男女である」と唱え、今日ウイッカと呼ばれている宗教運動の創始者となった。他にもアメリカのフェミニスト研究者バーバラ・エーレンライク英語版とディアドリー・イングリッシュ (Diedore English) は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱えた[19]。しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない。

20世紀に唱えられた説では、完全ではないものの複合的に要因の一つと考えうるものがある。たとえば魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りのスケープゴートであったという説。この説はペストや戦争が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張するが、実際には三十年戦争のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、それほどはっきりとしたつながりが見られない。次にイギリスの歴史家ヒュー・トレヴァ=ローパーらが唱えた「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」という説がある。つまりカトリックが優位な地域では、少数のプロテスタント市民に対し、魔女の烙印を押して迫害し、逆にプロテスタント地域ではカトリック市民が魔女とされたということである。しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかった地域(たとえばイングランドのエセックス州、スイスのジュネーヴ、イタリアのヴェネツィア、スペインとフランスにまたがるバスク地方など)においても激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争った地域(たとえばアイルランドやオランダ)であっても魔女狩りがほとんどなかったところがあることを説明できないなど、確実な説とは言いがたい。

J・H・エリオット (J. H. Elliott) は魔女狩りが中央集権化した国家や教会の中枢による臣民のコントロール手段であったと考えたが、この理論では権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害を指す言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた著述家マティルダ・ジョスリン・ゲージ英語版が述べた900万人であるとさえした(最初に900万人と算定したのは啓蒙時代の学者ゴットフリート・クリスティアン・フォークトであったことが判明している[20])。時にこれを「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということ(たとえばアイスランドでは裁判を受けたものの80%が男性であった)も明らかにしている。

確実に言えることをまとめると、当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。現代の歴史学ではかつての魔女狩りについてのイメージの多くが否定されているにもかかわらず、多くのメディアなどでは依然として魔女狩りをステレオタイプのまま捉えて「キリスト教会主導で行った大量虐殺」としている。 一方で、大虐殺であったことは確かであるという意見もある[誰?]

現代の魔女狩り[編集]

インド農村部やアフリカの一部、パプア・ニューギニアなどでは未だに妖術精霊の存在、シャーマニズムが信じられており、一部の暴徒によって私刑という形で魔女狩りが行われている。

インドでは、2008年3月ごろにテレビで農村部の魔女狩りの様子が放映され、女性を暴行したとして6人が逮捕された[21]

ナイジェリアでは魔女の疑いが掛けられた子供たちが魔女ではないとして抗議活動を行っている[22]

ガンビアでは魔女の疑いがかけられ千人ほどが拘束され、ヤヒヤ・ジャメ大統領自身が魔女狩りへの関与をしていると、アムネスティ・インターナショナルから報告されている[23]

タンザニアでは、不妊や貧困、商売の失敗、飢え、地震などの災厄は魔女の仕業という迷信が根強く残っている。タンザニアの人権団体「法と人権センター(LHRC)」は、魔女狩りによって年平均500人の女性が殺されていると主張している[24]

サウジアラビアでは21世紀の現在も合法的に魔女狩りが行われており、イスラム宗教省の魔法部で魔法使いに魔法をかけられた場合にどうしたらよいか電話相談を受け付けている。公的機関で本気で実施されており、相談内容に信憑性がある場合には実際に調査、逮捕、起訴が行われ、実際に魔女とされる人物が死刑執行されている。また、魔女の摘発は宗教警察である勧善懲悪委員会が行っている。サウジアラビアの法律では直接的に魔術の使用を犯罪として定義した法律そのものはないが、人間が魔法などの超自然的な力を持つと主張したり、信じることはアラーへの冒涜であるとされており、アラーへの冒涜には死刑が適用される。 魔法が死刑適用もありえる重罪ではあるが、現在でも地方では土着信仰の魔術を行う人物がいて、年に数件は摘発されている。 サウジアラビアの裁判制度は2009年現在でも政教一体のイスラム法に基づく宗教裁判であり、イスラム教ワッハーブ派の信仰に対する異端審問としての性格を持っている。実際に2005年5月に魔術を使用した霊媒師の女性に死刑が執行されている。 ヒューマン・ライツ・ウオッチは魔女への死刑撤回を求めている。2009年11月9日にもレバノンの霊能力者が死刑判決を受けている[25]

2013年2月にはパプア・ニューギニアのマウントハーゲンで、20歳の女性が魔術で息子を殺したとして暴徒に焼き殺される事件があった。現地の警察も多数の暴徒を制止できず、惨劇を防げなかった[26]

タンザニアでは、魔法・黒魔術信仰が多くの地域で残っているため「魔女狩り」と称した女性殺しが横行しており、現地の人権団体「法的権利と人権センター(Legal and Human Rights Centre、LHRC)」は、毎年500人が「魔女狩り」に遭っており、2005-11年の間に約3000人が殺害されたと報告している[27]

広義の「魔女狩り」[編集]

あるコミュニティ間で、思想的偏見にもとづいて行われる糾弾・排除行為のことを「魔女狩り」と隠喩することがある。たとえば1950年代のアメリカ合衆国で吹き荒れたマッカーシズムの嵐や、1960年~1970年代中華人民共和国で約2千万人が虐殺された文化大革命での騒動もこの意味での「魔女狩り」になる。吊るし上げ総括と似た意味を持つが、より「理不尽さ」の面を強調する時に用いることが多い。

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  1. ^ 社会人類学では、エヴァンズ=プリチャードによる南スーダンのアザンデ族の研究以降、病などの不幸の原因を説明する概念としての呪術 (magic) を邪術 (sorcery) と妖術 (witchcraft) に区別することが行われている。前者は何らかの物質や道具などを用いて意図的に他者に害を及ぼそうとする技術であり、後者は特定の人に宿る力が非意図的に他者に災いをもたらしてしまうことである。これを行使するとされる者にはそれぞれ邪術師 (sorcerer)、妖術師 (witch) という術語が当てられる。しかし、そのような意味での邪術と妖術の区別は、ヨーロッパの歴史においては明確でなかった。一般に魔女と翻訳される西洋のウイッチは、主にここでいう邪術を使う者を指していたと言ってよい(『宗教学辞典』 東京大学出版会、683頁)。また、文化人類学以外の分野では魔法と魔術などさまざまな訳し方があり、統一的な訳語は定まっていない。そういったことを考慮して、ここでは文化人類学でいう邪術と妖術とを併せて広義の妖術として一括する。
  2. ^ 「悪行」を意味するラテン語の maleficium は、古代ローマで遅くとも4世紀には妖術を意味する言葉としても使われるようになり、その概念は中世ヨーロッパに引き継がれた(コーン, 山本訳 1983, p. 199)。
  3. ^ 神判の一つに、縛られた被告を水に投入し、浮けば有罪、沈めば無罪とする水審がある。このような試罪法は迷信として否定されたが、水審は魔女裁判では広く用いられ、被告が自ら身の潔白を示すために申し出ることがあった。沈んでも引き上げることができるように、通常は水審を受ける者にロープが取り付けられた(牟田 2000, pp. 103-107)。
  4. ^ 中世のカトリック教会において占術や呪術は取り除くべき迷信とされたが、13-14世紀の異端審問官が民衆の呪術的行為に積極的に介入することはなかった。教皇アレクサンデル4世は1258年に、異端審問官が占術や呪術の件を扱うのは、それが異端であることが明らかな場合に限ると定めた(デッカー, 佐藤・佐々木訳 2007, pp. 16-17)。

出典[編集]

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  1. ^ 黒川 (2014), pp. 55-56.
  2. ^ 長谷川 (2012)
  3. ^ ベーリンガー, 長谷川訳 (2014), p. 325.
  4. ^ ベーリンガー, 長谷川訳 (2014), p. 8.
  5. ^ 黒川 (2011), p. 15.
  6. ^ ベーリンガー, 長谷川訳 (2014), p. 75.
  7. ^ コーン, 山本訳 (1983), 第8章.
  8. ^ デッカー, 佐藤・佐々木訳 (2007), p. 40. コーン, 山本訳 (1983), 第7章.
  9. ^ コーン, 山本訳 (1983), 第12章.
  10. ^ 黒川 (2014), pp. 186-187.
  11. ^ スカール, カロウ, 小泉訳 (2004), p. 30.
  12. ^ バッシュビッツ, 川端・坂井訳 (1970),第3部.
  13. ^ ミルトス・ヘブライ文化研究所編 『出エジプト記 II』 ミルトス 〈ヘブライ語聖書対訳シリーズ 4〉、 1993年、28頁。 ISBN 4-89586-208-9
  14. ^ キリスト聖書塾編集部編 『現代ヘブライ語辞典』 キリスト聖書塾、 1984年、215頁、261頁。 ISBN 4-89606-103-9
  15. ^ スカール, カロウ, 小泉訳 (2004), p. 53.
  16. ^ バッシュビッツ, 川端・坂井訳 (1970), 第9部.
  17. ^ スカール, カロウ, 小泉訳 (2004), p. 34.
  18. ^ スカール, カロウ, 小泉訳 (2004), pp. 34-35.
  19. ^ スカール, カロウ, 小泉訳 (2004), pp. 63-64.
  20. ^ ベーリンガー, 長谷川訳 (2014), pp. 226-227.
  21. ^ インドの「魔女狩り」がテレビで放送、警察は捜査開始 AFP
  22. ^ 「魔女狩り」にあう子どもたち、父親から火をつけられた少年の体験談 ナイジェリア
  23. ^ ガンビアで“魔女狩り” 千人連行、迫害と人権団体」 共同通信、2009年3月21日。
  24. ^ “魔女狩りで年500人殺害=タンザニア”. 時事通信. (2012年5月30日). http://jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012053000066 
  25. ^ サウジアラビア、イスラム法廷で霊能力者に死刑判決
  26. ^ 20歳“魔女”暴徒に焼き殺される 日刊スポーツ2013年2月12日
  27. ^ 国際ニュース 魔女狩りで女性2人殺害、タンザニアAFPBB News 2014年10月18日

参考文献[編集]

  • 黒川正剛 『図説 魔女狩り』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年
  • 黒川正剛 『魔女狩り - 西欧の三つの近代化』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2014年
  • 長谷川直子 「魔女と魔女狩り」『はじめて学ぶイギリスの歴史と文化』 ミネルヴァ書房、2012年
  • 牟田和男 『魔女裁判 - 魔術と民衆のドイツ史』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2000年ISBN 4642055029
  • ノーマン・コーン 『魔女狩りの社会史 - ヨーロッパの内なる悪霊』 山本通訳、岩波書店、1999年(原著1983年)。ISBN 4000264109
  • ジェフリ・スカール、ジョン・カロウ 『魔女狩り』 小泉徹訳、岩波書店〈ヨーロッパ史入門〉、2004年ISBN 4000270915
  • ライナー・デッカー 『教皇と魔女 - 宗教裁判の機密文書より』 佐藤正樹・佐々木れい訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2007年ISBN 9784588008757
  • クルト・バッシュビッツ 『魔女と魔女裁判 - 集団妄想の歴史』 川端豊彦・坂井州二訳、法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1970年ISBN 4588020269
  • W. ベーリンガー 『魔女と魔女狩り』 長谷川直子、刀水書房、2014年ISBN 9784887084131

関連書籍[編集]

  • 小山敏三郎 『セイラムの魔女狩り - アメリカ裏面史』 南雲堂、1991年ISBN 4000264109
  • 森島恒雄 『魔女狩り』 岩波書店〈岩波新書〉、1970年ISBN 4004130204
  • バーバラ・エーレンライク、ディアドリー・イングリッシュ 『魔女・産婆・看護婦 - 女性医療家の歴史』 長瀬久子訳、法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1996年
  • アン・ルーエリン・バストウ 『魔女狩りという狂気』 黒川正剛訳、創元社、2001年ISBN 4422202243
  • チャドウィック・ハンセン 『セイレムの魔術 — 17世紀ニューイングランドの魔女裁判』 飯田実訳、工作舎、1991年ISBN 4875021798
  • ミシュレ 『魔女』(上・下)、篠田浩一郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1983年ISBN 4422210661
  • Kieckhefer, Richard (1976). European Witch Trials: Their Foundations in popular and learned culture, 1300-1500. University of California Press. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]