外交革命

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外交革命(がいこうかくめい、: Umkehrung der Allianzen, : Diplomatic Revolution)は、1756年に起こったヨーロッパの国際外交における重大な転換のことで、具体的には17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家ブルボン家が、七年戦争の前に同盟を結んだことを指す。背景にはイギリスとフランスの200年間におよぶ世界的抗争と、ハプスブルク=ロートリンゲン家になってからのオーストリアと新興プロイセンとの抗争という、二つの対立軸がある。

背景[編集]

同盟の構造

ハプスブルク家[編集]

1740年から1748年にかけてのオーストリア継承戦争で、オーストリア=ハプスブルク家は、新興のプロイセンに敗北してシュレジエン地方を喪失した。この敗北による衝撃は、これまでイタリア戦争三十年戦争スペイン継承戦争などを通じて抗争を続けてきたフランスより、主要な敵はプロイセンであるという認識を、当時のオーストリア宰相カウニッツなどに抱かせることになった。また、それまでの主要な同盟相手であったイギリスにも、この戦争における態度から不信感を抱いた。これらのことが、オーストリア=ハプスブルク家がフランス=ブルボン家へ接近を図る要因となった。このことが後にドイツ諸侯の失望を招き、ハプスブルク離れの遠因となるのである。

ブルボン家[編集]

一方で、当初フランス=ブルボン家はオーストリア=ハプスブルク家との連携に積極的ではなかった。ブルボン家とハプスブルク家との連携に転じた理由は、以下のような国際関係の理解から求められる。

オーストリア継承戦争で、反ハプスブルク家のプロイセンをフランスは支援した。一方、新大陸インドなどでフランスと対立していたイギリスイギリス帝国)は、オーストリアを支援する姿勢を見せていた。従って、イギリスとプロイセンは対立関係にあった。こうした中、ドイツ・ハノーファー王国の出身であるイギリス国王ジョージ2世は、プロイセンがハノーファーに危害を与えることを懸念した。プロイセンの牽制を図ったイギリスは、1755年サンクトペテルブルク協約で、プロイセンがハノーファーを攻撃した場合、ロシアがプロイセンを攻撃することを取り決めた。これを恐れたプロイセンはイギリスに接近し、翌1756年1月16日ウェストミンスター協約でハノーファーを攻撃しないことを約した[1]

以上のような経緯から、フランスと対立関係にあるイギリスに接近していったプロイセンに対し、フランスは裏切られたという印象をえる。こうして、1756年5月1日ヴェルサイユ条約が成立し、ブルボン家(フランス)とハプスブルク家(オーストリア)の間に防御同盟が成立するにいたった。その帰結として、フランス王太子(後のルイ16世)とマリー・アントワネットとの婚姻に繋がった。

歴史的意義[編集]

そもそもハプスブルク家のマクシミリアン1世ブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失った彼の娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ公女との再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたこと等から、確執が決定的なものとなった。

特に17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた。そのため、ドイツやイタリアの諸国、ポーランドスウェーデンオスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制するのがフランス外交上の伝統であった。「外交革命」はこうした1世紀以上にわたり続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。こうして、「外交革命」後に起こった七年戦争では、両家が同盟関係のもとで戦った。

また、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携する体制がここで完全に崩壊した。フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来までの国際秩序の再編が一層進んでいくことになった。

脚注[編集]

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  1. ^ 有坂純「フリードリヒ大王の七年戦争」、『歴史群像』、学習研究社、2004年4月、 p. 70。