スペイン・ハプスブルク朝

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黄金の世紀と呼ばれたスペイン・ハプスブルク朝のころにおけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年-1640年)

スペイン・ハプスブルク朝は、16世紀初めから17世紀末まで続いた、ハプスブルク家によるスペイン統治時代を指す。ハプスブルクのスペイン語名によりアブスブルゴ朝とも呼ばれる。

この時代、スペインはアメリカ大陸太平洋フィリピンマリアナ諸島)に広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を有し、またヨーロッパにおいてもネーデルラントフランシュ=コンテ北イタリアミラノ公国)、南イタリアナポリ王国シチリア王国サルデーニャ)などを支配下に置いた。カルロス1世はまた神聖ローマ皇帝を兼ねた。1580年から1640年にかけてはポルトガルも兼ねることで、イベリア半島全域を支配するだけでなく、ポルトガルが南米アフリカアジア沿岸に持っていた植民地をも併せ持つことになった。

歴代君主[編集]

ハプスブルク家における近親婚[編集]

フェリペ1世からカルロス2世に至るまでの系図

スペイン・ハプスブルク家およびオーストリア・ハプスブルク家では、一族内での近親婚が繰り返された。また、フェリペ2世以降は3親等間での結婚(叔姪婚)が増える。それには以下の要因があった。

  • 厳格なカトリック政策で、プロテスタントの王侯との結婚ができない。
  • ヨーロッパ屈指の名門であり、家格の低い諸侯との結婚ができない。

結果、縁組できるのはフランス王家、ポルトガル王家、ボヘミアハンガリー王家、ポーランド=リトアニア王家、オーストリアの同族のいずれかに絞られることになった。しかし、フランスとは三十年戦争(1618年 - 1648年)以来敵対関係になり、ポルトガル王家はフェリペ2世以後スペイン王家と同一に、ボヘミア=ハンガリー王家はフェルディナント1世以後オーストリアの皇帝家と同一になり、ポーランド=リトアニアではヴァーサ家の断絶後は王位の世襲が絶えて特定の「王家」が存在しなくなった。そのため、オーストリア・ハプスブルク家との間での結婚、つまりフェリペ1世の息子カルロスとフェルディナントの子孫の間で近親婚が繰り返された(しかもカルロス1世の代ですでにいとこ婚を行っている)。その結果フェリペ4世の子のカルロス2世は遺伝子系の疾患を持って生まれて早世、後継ぎもなく断絶したと言われる[1]

スペイン・ハプスブルク家の近親婚の程度を示す近交係数をコンピュータで計算してみたところ、初代フェリペ1世のときには0.025だった数値が、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していた。その間に行われた11組の結婚のうち、9組が叔姪婚であった。また、0.2以上の近交係数の王族も複数いたことが判明している。スペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率は、当時の農村部の乳児死亡率より高かった。

脚注[編集]

  1. ^ “スペイン・ハプスブルク家、断絶の原因は「近親婚」か 研究結果”. AFPBB News (マドリード/スペイン). (2009年4月16日). http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2592887/4035719 2011年10月14日閲覧。 

関連項目[編集]