スペイン1812年憲法

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スペイン1812年憲法(スペイン1812ねんけんぽう、Constitución española de 1812)は、1812年スペインカディスコルテス(全国的な国民議会)により公布された憲法。当時、国王フェルナンド7世らは逃避中であった。サン・ホセの日に採択されたためにスペイン人は「ラ・ペパ」(La Pepa)と愛称形で呼んだ[1]。ペパ(Pepa)はホセJosé、愛称形はPepeペペ)の女性形、ホセーファ(Josefa)の愛称形で、constitución(憲法)が女性名詞のために、そう呼ばれた。

コルテスが憲法を採択したときは、スペイン独立戦争ホセ1世を即位させたフランス帝国に対する戦争)の只中で、コルテスはカディスに逃れていた。したがって、カディス憲法とも呼ばれる。この戦争はフランシスコ・デ・ゴヤの絵画『1808年5月2日』で不朽のものとされた1808年5月2日夜に始まり、Charge of the Mamelukesとしても知られている。この戦争はナポレオン軍がスペインのゲリラとアーサー・ウェルズリー指揮のイギリス軍に直面するスペイン領でのゲリラ戦であった。

新しいコルテスは1810年9月24日に開会し、スペインのみならず、スペイン領植民地すべての民選の代議員が集められた[2]。議会当日に出席したのは議員総数180名のうち104名、そのうち47名は補充議員で、正当な議員は総数の3分の1程度であった[2]。アメリカ植民地に割り当てられた議員数は27名であった[2]

数点の基本理念が間もなく採択された。即ち主権国民にあり(国民主権)、フェルナンド7世を正当な王と認め、その代理は神聖不可侵である。カディスのコルテスでは激しい議論が行われ、スペイン最初の成文憲法が1812年3月12日に採択された。ナポレオン1世の介入以前、スペインはボルボン家に、さらに遡ればアブスブルゴ(ハプスブルク)家絶対君主として支配していた。

憲法制定は、議員数などに不満があるとしても、植民地人にとっては初めての国政参加であり、スペインと植民地アメリカの平等がわずかに進んだかのように思われた[2]。スペイン領アメリカの指導者層の多くは、スペインに忠実であろうとあり続けたが、この後のフェルナンド7世の姿勢により、このムードは打ち壊された[2]

フェルナンド7世が連合軍の手で1814年3月に復位すると、スペイン政府の新しい憲章を支持すると約束したが、何週間も経たないうちにカトリックを背景にした保守派に先導されて憲法を否定し(5月4日)、リベラル派の指導者を逮捕し(5月10日)、自分の不在中に同意なくコルテスが制定した憲法を否定する行為を正当化した。従って主権が国王のみに存するというボルボン家の考え方を主張する体制に戻ってしまった。

フェルナンドの酷い失政で、1812年憲法はスペインに立憲君主制をもたらすことを願っていたリベラル派を纏める文書となった。1820年リエゴ・イ・ヌニェス反乱を起こした後に始まる「自由主義の3年」(1820年~23年)に復活した[3]1823年のフェルナンドを解放するトロカデロの戦いの後、フェルナンドは激しい怒りを覚えながらも、リベラル派と憲法派に回帰した。

1837年憲法が制定されるまでリベラリスモの旗印となり、ポルトガルやイタリア、イベロアメリカ諸国の国民主義、リベラリスモに影響を及ぼした[3]。1812年以後スペインでは、2006年現在効力のある現行の1978年憲法を含め、全部で7つの憲法が制定された。

脚注[編集]

  1. ^ スペイン憲法に関するスペイン政府の公式サイトのOtras constituciones(2006年4月16日現在)
  2. ^ a b c d e 中川2000, pp80-81
  3. ^ a b スペイン・ポルトガルを知る事典、p.205 1812年憲法の項(岡住正秀執筆)

出典[編集]

  • 中川和彦「ラテンアメリカの独立の動きと先駆的憲法」、『成城法学』第61号、成城大学法学部、2000年3月、 67-94頁。
  • 『スペイン・ポルトガルを知る事典』 池上岑夫ほか監修、平凡社、1987年ISBN 4582126189