クリスティーヌ・ド・ダヌマルク

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クリスティーヌ・ド・ダヌマルク

クリスティーヌ・ド・ダヌマルク(Christine de Danemark, 1521年11月 - 1590年8月10日)は、ロレーヌ公フランソワ1世の妃。デンマーククリスチャン2世イサベル・デ・アウストリアの末子として、デンマーク・フュン島Nyborgで生まれた。デンマーク語名はクリスティナ・ア・オレンボー(Christina af Oldenborg)、イタリア語名はクリスティーナ・ディ・ダニマルカ(Cristina di Danimarca)。

父が廃位されたのち、一家でフランドルへ亡命。困窮を見かねた大叔母マルグリット・ドートリッシュに子供たちは引き取られ、カトリック教徒として養育された。

1533年、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚。しかし2年後に死別したため、帰国。

1538年、ブリュッセルの宮廷に居たところ、ドイツ人画家ハンス・ホルバインと面会する。彼はイングランド宮廷画家であり、ヘンリー8世は1537年に3度目の妃ジェーン・シーモアと死別していたため、ふさわしい花嫁を探す密命をホルバインに課した。ホルバイン作の肖像画には、彼女は喪服姿で描かれている。イングランド大使を通じてヘンリーから求婚されたクリスティーヌだが、妃への虐待が既にヨーロッパ中に知れ渡っていたため結婚する気はなく、「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」とやんわり拒絶した(ヘンリーの最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンは、彼女の母方の大叔母である)。

ヘンリーの結婚申し込みがなくなると、1541年にクリスティーヌはバール公フランソワと結婚した。ここでも不思議な縁があった。フランソワはかつてアンヌ・ド・クレーフェ(英語名アン・オブ・クレーヴズ、ヘンリーの4度目の王妃)と婚約したことがあったが、彼はクリスティーヌを選びアンヌとの婚約を解消したのだった。フランソワは1544年に父アントワーヌのあとを継いでロレーヌ公となったが、わずか1年後に没した。幼い長男がロレーヌ公シャルル3世となり、クリスティーヌは長く摂政を務めた。

クリスティーヌは、トルトーナで亡くなった。

子女[編集]