エル・グレコ

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エル・グレコ
生誕 ドメニコス・テオトコプーロス
クレタ島カンディア
死没 1614年04月7日
国籍 ギリシア
教育 カンディア、ヴェネツィアトレド
著名な実績 油彩画、彫刻、祭壇画
代表作 オルガス伯の埋葬
運動・動向 マニエリスム
後援者 フェリペ2世
この人に影響を
与えた芸術家
ホルヘ・マヌエル・テオトコプリパブロ・ピカソ
この人に影響を
受けた芸術家
ティツィアーノティントレットミケランジェロジュリオ・クローヴィオヤコボ・バッサーノパルミジャーノコレッジョ
公式サイト
http://ibiblio.org/wm/paint/auth/greco/

エル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年4月7日)は、現在のギリシアクレタ島イラクリオン出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロスΔομήνικος Θεοτοκόπουλοςラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である。マニエリスム後期の巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、彼の作品が多数展示されている。

人物[編集]

グレコの作品に書かれたサイン

ヴェネツィア共和国統治時代のクレタ島のカンディア(現イラクリオン)に生まれ、イタリアを経てスペインに渡り、トレドに暮らした。 ギリシア人でありながらフェリペ2世に仕えたが、グレコの作品はフェリペに評価されなかった。グレコは晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていた。 彼の現存する作品のおよそ85%が聖人画を含む宗教画であり、後の1割は肖像画となっている[1]。グレコは絵画だけではなく、彫刻や建築の構想も手掛け、特にスペインにいた時期は建築に強い関心を寄せたが、実際に建物の建築をすることは無かった[2]。一方でグレコは自分が描いた油彩画が収められる祭壇衝立の設計、工房の彫刻家の人物像の原案の素描、建築家と共に祭壇衝立の設置される礼拝堂の建築、採光の考案なども手掛けた[3]

出生前のクレタ島の状況[編集]

250年以上に渡ってクレタ島の人々は侵略者との騒乱に明け暮れたが、1460年以降ヴェネツィアがクレタ島の支配権を握った。しかし政治、経済、軍事面でヴェネツィアの優越の確保への警戒は不十分だった。ヴェネツィア人たちは支配初期からギリシア正教会の支配を廃止し、聖職者の行動を都市国家の支配下に置いた。しかし、これはギリシアと西方の宗教、歴史などの要因による歴史的憎悪を悪化させ、ヴェネツィアとクレタ島の相互の心理的な距離を深めた。そのため15世紀以前に西洋とビザンティンの文化が混じり合うことは殆どなかった。クレタ島のギリシア人たちはビザンティン帝国の斜陽によって助けがなくなりつつも、自分たちの文化を保った。15世紀末になってラテン文化が島の都市部に入った。ビザンティンの影響は色濃く教育面で見られ、教会と強く結びついていた。聖職者が大抵家庭教師になり、教室が修道院に設けられた。クレタ島でもそれは行われた。14世紀中期に入った初期、クレタ島でのギリシア語教育は充実したものとなった。そこで南イタリアのギリシア人たちがギリシア語を習いにクレタ島を訪れた。15世紀が進む中で、クレタ島では学術的活動の増加が顕著になり、それは教育の質を高めることに繋がった。しかしクレタ島の写本屋の重要性は受け入れられていなかった。しかし多くの15世紀の学者と写本屋はクレタ島出身で、彼らは西側へのギリシア文化の拡散に重要な役割を果たした。またギリシア文学の拡散も起き、その公証人の大多数は中流階級でいくらかの職人がいた。またそのサインが複雑であることから読み書きの知識と学校教育が都市部において普及していたことが推測される。コンスタンティノープル陥落の数年後、クレタ島におけるギリシアとラテンの隔たりが縮小し、相互不信は理解と協力に置き換えられた。これはクレタ島とヴェネツィアの間でいくつもの文化の接触と交換が増殖・強化された。16世紀からは生活様式が教義上の問題となり、議論の元となった。ギリシア正教会のクレタ島の人々にはやや政治的であるが教会の認可のないカトリックの階級が存在した。それは宗教を妨害なく実行したいヴェネツィアに保障され、クレタ島外の僧による叙任権を保った。自由な州学校の需要が16世紀初めに明らかになった。一般的にヴェネツィア人はクレタ島の教育より軍に資金を費やすことを好んだ。背景にはヴェネツィア人が教育を制御なく広げることで強いギリシア正教会のインテリを作り上げることを拒んだとも言われる。結果教育の需要は家庭教師によって賄われた。16世紀のクレタ島で起きた学問の開花はクレタ島の問題に相対したヴェネツィアの政策の挫折と関係していた。この時よりカトリックのプロパガンダのヴェネツィアの援助は打ち切られ、宗教への寛容性が受け入れられた。カトリックの人口は急激に減少した。16世紀末ギリシアはローマ教皇の機関から外され、ギリシア正教会の生活に則ることが定められた。これによりラテン系の聖職者は権威が弱まり、教会消失の一因となった。16世紀のヴェネツィアは連邦政府の主要都市であり、クレタ島は植民地でなく州となった。これによりトルコの支配下になるまでクレタ島とヴェネツィアは同じ社会となった。これによって正教会とカトリックは互いに詳しくはなったが、敵対精神が文化交流の妨げとなった。16-17世紀の文化の開花はビザンティンと西方の文化の調和によって生まれ、新しい環境によって可能となった。ここでギリシア語が言語で力を持つようになり、これがルネサンスで古代ギリシアが持ち上げられるようになった。しかしラテンのアルファベットは流通した。クレタ島の名声は島の外にも広がり、また16世紀中頃から田舎でギリシア正教会の学校が繁栄し、最終的にヴェネツィア側もカンディアの学校を認めた。大学教育の買収は社会地位において重要で、16世紀の初めから多くのクレタ島の生徒たちが北イタリアに高い水準の教育を求めて移動した。彼らの多くはイタリアに残り学者となった一方で他の国に行った者もいた。1641年のトルコ上陸後彼らの多くがクレタ島を離れ、その後トルコの支配下に下った[4]

生涯[編集]

若年期[編集]

エル・グレコは 1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都であり港市であるカンディア(現イラクリオン)で生まれた。 当時の彼の作風にはポスト・ビザンティン美術の影響が見られる。ビザンティン帝国は1453年オスマン・トルコによって国としての歴史に幕を下ろした。しかし旧支配地域ではビザンティン美術の伝統であるポスト・ビザンティンが残っていた。それはカンディアでも変わりなく、宗教祭事及び図像学的にカトリックとは異なった世界が形成されていた。グレコはその影響を受けて育った面もある[5]。カンディアではこのように後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となり、同時に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられる。1563年までには画家として独立していた[2]1566年にエル・グレコがカンディアで金地に書いたキリストの受難図(イコンの一種)があり、それをくじで売却するための査定の許可を求めている[6][2]。この時点でグレコは「親方」の称号を得ていた[7]。また同年、トマス・バレストラスによりよりテオトコプーロス兄弟が何らかの形で苦しめられていたことに対して、バレストラスがそれをやめなければガレー船送りにするというヴェネツィア政府の公文書による警告が残っている[7]

『蝋燭に火を灯す少年』ルネサンス期の流行である古典の記述に基づいて、失われた美術品を再現したと言われる作品。本作はプリニウスの『博物誌』にある記述に作られた[8]

ヴェネツィア派との交流[編集]

グレコによるジュリオ・クローヴィオの肖像

グレコは1567年の春か夏、遅くとも1568年の春か夏にギリシア系クロアティア人ジュリオ・クローヴィオ英語版の推薦を受けてヴェネツィアに渡っていた[9][10][2]。その際ティツィアーノ・ヴェチェッリオに弟子入り、もしくは工房の外でその様式を学んだ可能性の方が高いことが指摘されている[2]。これによりグレコはビサンティン方式の一切を放棄したわけではなかったが色彩遠近法解剖学、油彩技法の使用などの点でヴェネツィア・ルネサンス方式を習得していった。他にもヴェネツィアで西欧流の技法や図像、地図製作の知識を習得した[9][11]。当時ファルネーゼ家は教皇パウルス3世を輩出して以来、美術の建築のメセナ[12]として世に知られていた。グレコは移住の際当時のスペイン人聖職者や人文主義者などがしばしば訪れていたアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿知的サークルと交流を持ち、パラッツォ・ファルネーゼ(ファルネーゼ宮)に自由に出入りができた。また、それゆえに同家のカプラローラにあるパラッツォ・ファルネーゼの装飾にも参加したと考えられている。1570年までヴェネツィアに留まった。 1572年7月6日、突然グレコはファルネーゼ枢機卿に突然の解雇についての釈明の要求と撤回の嘆願を請う手紙を出しており、この頃には既にグレコが解雇され、その上嘆願も届かなかったことが分かっている[13]。同年、サン・ルーカ画家組合[14]に「ピットーレ・ア・カルテpittore a carte(紙に描く画家という意味)」として登録され、加入している。当時イタリア労働組合の構成員は親方に限られていたことから、この時までにグレコは親方として自分の工房を持っていたことが分かる。これ以降グレコの絵画はイタリアの影響が色濃く反映されており、主に個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描いた。当時のイタリアの絵画の主流はヴェネツィアからローマに移っていったため、30歳を迎えようとしていたグレコも、ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてローマへ移動し、1576年から1577年の間定住した。ローマでのグレコの主なパトロンはフルヴィオ・オルシーニ英語版であった[15]。後に勉強のためイタリア各地(パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、パルマ、フィレンツェ)を放浪し、その後にスペインへ渡ったと言われる。

ヤコボ・バッサーノの影響[編集]

おそらく1561年から1565年はギリシアの技術でイタリアでのやり方で働く方向であった。ヤコボ・バッサーノイタリア語版の門下の関係にあったことが指摘されている[16]

スペインでの活動[編集]

グレコがスペインを目指した理由は明確ではないが、1577年の春にはマドリードにいたことが記録されている[2]。彼が到着した時代のスペインは、レコンキスタでの勝利とコロンブスによるアメリカ海域での新世界の侵略、そしてカール5世の国王就任により急激に力を強めていた。仕事以外ではトレドに定住するようになったが、この時期彼は作品の査定額や技術的問題、図像上の問題でグレコ自身やその顧客による訴訟が起こされたことが記録に残っている。 トレドにグレコが向かった理由は、当時神のごとき存在であったミケランジェロをローマで酷評したことが原因と言われる。グレコはローマにいられなくなったという伝説が残るほど辛辣は評価をミケランジェロの絵画に下した。一方でミケランジェロのデッサンに対してはグレコは絶賛している。 当時スペインの芸術家たちは視覚芸術を「自由学芸」、もしくはアカデミックな知的活動であるという認識は広がってはいなかった。そのためフェリペ2世の支援があったにもかかわらず、芸術家たちの社会状況はイタリアと比べてひどく劣ったものであった[17]。 スペインでの初仕事として大聖堂から『聖衣剥奪』(Expolio, 製作期間1577-79年)の絵画、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院スペイン語版からは3つの祭壇衝立を依頼された。『聖衣剥奪』は、新約聖書に残るキリストが十字架に架けられる直前に衣服を剥がれる姿が主題である。新約聖書の原本はギリシャ語で書かれており、同国の出身であるグレコは大聖堂の面々よりも原文をより理解していた。『聖衣剥奪』は絵画の中心に座するキリストの外套を、それまでそれまであまり見られなかった鮮やかな色彩で描いた。『聖衣剥奪』の完成後、作品を受け入れた大聖堂は「キリストに対する冒涜」(マリアが3人登場していること、キリストの頭より群衆の位置が高く描かれていること)を理由に報酬を踏み倒そうとした。グレコは裁判で争うが、大聖堂は彼を異端審問にかけると仄めかし、結局調停案(当初グレコが提示していた額の約三分の一の支払い)を受け入れた[18]。3人のマリアは左から小ヤコブの母、原義の聖母マリア、マグダラのマリアと解釈されているが、異論も多い。1582年には異端審問所で隠れイスラム教徒の嫌疑をかけられた、ギリシア人少年の通訳を務めている[19]

グレコによるオルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像

フェリペ2世に依頼された『聖マウリティウスの殉教』がエル・エスコリアル修道院の聖堂を飾る祭壇画の一つとして描かれたが、1584年にヒエロニムス会士に受け入れを拒否された。これ以降グレコは次第に工房を広げ、主な仕事として修道院、教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の一括制作をしつつ、トレドの町とその大司教区にあたる修道院や教区聖堂のための制作も引き受けるようになった。この時期様々な礼拝堂の依頼を個人で、または息子と連名で契約を結んだが、それらの中には実現しなかったものもあった。1603年、グレコはイリェスカスカリダード施療院と祭壇衝立の制作契約を結んだ。しかし1605年8月にその評価額を巡って施療院と対立した。施療院側は祭壇衝立全体で2436ドゥカートとし、《慈愛の聖母》の画中に描かれているひだ襟を付けた肖像画を、施療院にふさわしい人物像に描き変えることを要求した。最終的に1608年に1666ドゥカートがグレコ側に払われることで決着した[20]。1612年から1614年にかけて、グレコは自身の墓碑のためにサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂に《羊飼いの礼拝》を制作した[21]。本作はプラド美術館に所蔵されている[21]。1614年3月31日に遺言状を作成し、その中でホルヘ・マヌエルを相続人、ルイス・デ・カスティーリャと修道士ドミンゴ・バネーガスをその執行人としたグレコは、同年の4月7日にカトリックの臨終の秘蹟を受けこの世を去った。その際友人で修道士、詩人でもあるパラビシーノ英語版は、以下の墓碑銘を捧げている[22][23]

クレタは生と、絵筆を彼に授け、トレードは彼の最上の祖国となり、死と共に永遠に生き始める。
"Creta le dio la vida, y los pinceles
Toledo mejor patria,
donde empieza a lograr con la muerte eternidades"


遺体はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会の地下に保存されており、棺を上から教会部外者でも見ることができる[24]

知的活動[編集]

グレコの功績は画家としてのものだけではない。グレコは多数の文献を所持し、所持した図書の中に多くの書き込みをした。具体例として、ジョルジュ・ヴァザーリによる第二版『美術家列伝[25]やダニエレ・バルバロの編集したウィトルウィウスの『建築十書』[26]を所持していた[27]。 知識の活用という点では、『博物誌』に基づいて《燃え木を吹く少年》に見られるエクフラシス[28]が描かれていることからも分かる[28]

家族・関係者[編集]

生地カンディアでの家族で判明しているのは、官吏である父のヨルギと10歳年上であるマヌーソスという兄がいたことである[29]。グレコの家庭は正規のカトリックではなく、家族はヴェネツィアの協力者として働いていたと考えられている[2]

グレコの愛人ヘロニマ・デ・ラス・クエバスと言われる肖像画(1570年代後半)。

愛人、非嫡出子[編集]

1578年、グレコはトレドの職人家庭の出身であるヘロニマ・デ・ラス・クエバス(Jerónima de las Cuevas)という女性との間に息子を一人儲けている。この息子は前述のグレコの父と兄の名からホルヘ・マヌエル・テオトコプリと名付けられ、父と同様に画家を目指したようであるが、彼の作品は父の形式を真似たものに留まったようである[30]。また、ヘロニマとの関係そのものもうまくはいかなかったと考えられている[2]。 グレコはヘロニマとは37年間トレドで同棲した。しかしホルヘ・マヌエルを愛し非嫡出子の汚名をそごうとしたグレコであったが、ヘロニマとの結婚はなかったことから、1614年まで正妻が生きていた可能性がある。しかし、これに対して明確な答えは未だ示されていない[31]

助手、弟子[編集]

スペインへの移動の頃からイタリア人の画家であるフランシスコ・プレボステ(Francisco Preboste)が助手としてついていた。この助手は死ぬまでグレコの助手として働き続けた[2][32]。また、ルイス・トリスタン英語版は弟子であり、彼の場合宗教画にボテゴンの要素を入れていた[33]

評価と研究史[編集]

スペインでグレコを支えたのは、グレコの肖像画に描かれた、少数の知的エリートたちであった。フランシスコ・パチェーコは1611年にグレコのアトリエを訪れた際、「辛辣な言葉を吐く優れた哲人」と学者的知性を褒める一方、「さまざまな色彩をバラバラのままに残して」「果敢さ・卓越ぶり(valentía)を装った」「荒っぽい下描き風(crueles borrones)の貧しくなるような制作態度」と酷評した [34]。 貴族の趣味を反映したマニエリスムは盛期ルネサンスの直後一世を風靡した。しかし背景の知識がいる分難解で一部のエリート層に向けられたものが、カトリックの分脈に合わないとされた。その結果マニエリスムは16世紀以降敬遠され、グレコはマニエリスム共々忘れ去られていった。そして、17世紀は現実感のある自然主義的な描写が好まれるようになった。ベラスケスと同時代の宮廷画家であるジュゼッペ・マルティネススペイン語版は未完の著作『高貴なる絵画芸術実践講義』にて「極めて奇抜な手法(una manera tan extravagante)を持ち込んだ」と述べ、後にグレコの絵画に対する常套句「奇抜な(extravagante)」を生み出した。また「彼は有名な建築家でもあり、その講義はとても雄弁な物があった」と記し、グレコの建築家、雄弁家としての側面を示した。それはアントニオ・パロミーノによる重要な著作『絵画芸術と視覚規範』の略伝「ドミニコ・グレコ 画家、彫刻家、建築家」に影響を及ぼしたと考えられる。つまり17世紀においてグレコは建築、彫刻にも優れた芸術家であったことが認識されていた。マリーアスはベラスケスが前述のパチェーコの訪問についていった可能性を指摘しているが、彼と弟子のルイス・トリスタン、息子のホルヘ・マヌエル以外の同時代、もしくは17世紀の画家にグレコの影響を見出すことはできない。その後18世紀も奇抜な画家としてのグレコ像は変わらなかった[34]1819年にプラド美術館が開館するが、当時グレコの作品は一点も所持されていなかった。今日プラドが所蔵する作品の大部分は、ラ・トリニダード美術館から移管されたもので、当時グレコはヴェネツィア派に分類される画家だった[35]。グレコが再評価されるようになったのはパブロ・ピカソの若き活躍の時代であり、モデルニスモの時代に該当する。グレコの作品はアカデミズムに対する反体制的勢力から、極めて前衛的な物として祭り上げられた。原因は1898年米西戦争が勃発しスペインが敗北したことである[36]。この結果今までアカデミズムとして組み立てられたスペインの栄光が去ったものとされ、スペインの栄光を再発見する必要に駆られた。そこでグレコはギリシア人であるがキリスト教への信心がある[37]と考えられ、ある種のステレオタイプが作られた。その結果彼の画風は狂気の沙汰という理由や乱視説[38]が謳われるようになった[39]。これらの誤った学説は1960年代以降の新発見で撤回された。 1960年代から1981年にかけてエル・グレコが自筆の注釈を施した書物が多く見つかっている。1983年にギリシアのシロス島から《聖母の眠り》がフルネームで署名されたイコンとして発見され、結果グレコの画業のルーツが証明された[40]。 2000年にはグレコがファルネーゼ家に突然の解雇に対する誓願が記された手紙が発表された[27]

代表作[編集]

エル・グレコの家[編集]

トレドにあるエル・グレコの家

グレコがトレドで暮らしていたとされる家を、20世紀に改装してできた美術館。グレコの住んでいた当時に合わせて台所、寝室、書斎、アトリエなどが復元されている。なお名称はグレコの家ということになってはいるが、実際に彼がどこに住んでいたかということはいまだ明確ではない[41]

参考文献[編集]

  • Camón Aznar, José, Dominico Greco, Espasa-Calpe, Madrid, 1950.
  • Marie Constantoudaki, "Domenicos Theotocopoulos (El Greco) de Candie a Venise: Dicuments inédits (1566-1568)", Thesaurismata 12, 1975, pp.292-308.
  • L. Berg. «El Greco in Toledo» (en inglés). Consultado el 21 de septiembre de 2009.
  • Panagiotakes, Nikolaos M. El Greco – The Cretan Years, London: The Center for Hellenic Studies, Kings College London, Publication 13, 2009

関連項目[編集]

人物[編集]

小説[編集]

  • ヴェロニカ・デ・ブリューン=デ・オーサ『エル・グレコの生涯 1528-1614 神秘の印』鈴木久仁子・相沢和子訳、エディションq、1995年。 ISBN 978-4874174951

音楽[編集]

随筆[編集]

  • ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』與謝野文子訳、現代思潮新社、2010年。

映像[編集]

作品に関する情報
  • 『美の美シリーズ12―エル・グレコ/ベラスケス スペインの光と幻想』 1989年[42]
  • 『美の巨人たち DVD 「モネ/エル・グレコ」』日本経済新聞社、テレビ東京 2000年[43]
フィクション

脚注・出典[編集]

  1. ^ 神吉敬三、125-126頁。
  2. ^ a b c d e f g h i フェルナンド・マリーアス、7-9頁。
  3. ^ マリーアス著、川瀬訳、2012年、135頁。
  4. ^ Panagiotakes, 2009, pp.1-12
  5. ^ 大高保二郎、松原典子、6-7頁。
  6. ^ Marie Constantoudaki, pp.292-308.
  7. ^ a b ハジニコラウ、ニコス「クレタからイタリア、スペインへ―ある異邦人画家の軌跡」『エル・グレコ展』、2012年、170頁。
  8. ^ 大高保二郎、松原典子、16頁。
  9. ^ a b 大高保二郎&雪山行二責任編集、35頁。
  10. ^ 1570年11月のアレッサンドロ枢機卿宛ての書簡でエル・グレコを「若いカンディア出身の画家でティツィアーノの弟子」と紹介、「落ち着くまで宮殿内の一室が提供されるよう」記されている。
  11. ^ 『バロック・ロココの絵画 : リール市美術館所蔵 : ヴェネツィア派からゴヤまで』(展覧会カタログ)東武美術館/横浜美術館、1993年、34頁。
  12. ^ mecenatというフランス語で、文化擁護やその支援を意味する。
  13. ^ 大高保二郎、松原典子、17頁。
  14. ^ サン・ルッカ美術アカデミーとも記されている。
  15. ^ Davies, David.Elliott, John H. El Greco National Gallery, 2003, p82.
  16. ^ 大高保二郎、松原典子、14頁。
  17. ^ ハジニコラウ、ニコス「クレタからイタリア、スペインへ―ある異邦人画家の軌跡」『エル・グレコ展』、2012年、177頁。
  18. ^ サルヴァスタイル美術館
  19. ^ 大高保二郎&雪山行二責任編集、34頁。
  20. ^ フェルナンド・マリーアス、雪山行二、川瀬佑介、2012年、150-151頁。
  21. ^ a b ハジニコラウ、ニコス「クレタからイタリア、スペインへ―ある異邦人画家の軌跡」『エル・グレコ展』、2012年、177頁。
  22. ^ L. Berg. «El Greco in Toledo» (en inglés). Consultado el 21 de septiembre de 2009.
  23. ^ 大高保二郎、松原典子、6頁。
  24. ^ 画家の墓
  25. ^ 1580年代末期にグレコが書き込んだとされる。岡田裕成「エル・グレコ、歴史意識、マニエラ」2013年、51頁。
  26. ^ グレコがウィトルウィウス建築書に書き込みを行ったのは、1590年代初頭と考えられている。岡田裕成「エル・グレコ、歴史意識、マニエラ」2013年、51頁。
  27. ^ a b マリーアス、2012年、8頁。
  28. ^ a b 古代の文献で文中の記述のみから芸術家が再現することをいう。越川倫明「《燃え木を吹く少年》をめぐって―エル・グレコと同時代ヴェネツィア絵画―」『エル・グレコ没後400年記念 公開シンポジウム エル・グレコ再考 1541-2014年:研究の現状と諸問題』2013年、29頁。
  29. ^ 図録『エル・グレコ展 1986-1987』国立西洋美術館編集、東京新聞、1986年、14頁。
  30. ^ エンリーケ・バルディビエーソ、神吉敬三監修、142頁。
  31. ^ Panagiotakes, p.56
  32. ^ the Frick Collection
  33. ^ 諸星妙「フェリペ三世時代のスペインのコレクション:静物を主題とする絵画の成立と発展」『美術コレクションを読む』慶應義塾大学出版会、2012年、307-330頁。
  34. ^ a b 大高保二郎「趣旨説明に代えて:[エル・グレコ像の変転と復権]」『エル・グレコ没後400年記念 公開シンポジウム エル・グレコ再考 1541-2014年:研究の現状と諸問題』2013年、1-頁。
  35. ^ 趣旨説明に代えて:[エル・グレコ像の変転と復権]」『エル・グレコ没後400年記念 公開シンポジウム エル・グレコ再考 1541-2014年:研究の現状と諸問題』2013年、4頁。
  36. ^ 孝岡睦子、75頁。
  37. ^ グレコは若いころギリシア正教会に所属しており、後にキリスト教に改宗したと考えられている。
  38. ^ グレゴリオ・マラショーという医師もこの説を支持した。
  39. ^ 瀬戸慶久、47-49頁。
  40. ^ 大高保二郎、松原典子、6頁。
  41. ^ 岡村多佳夫『スペイン美術鑑賞紀行[1] Viaje del Arte en España マドリード・トレド編』(美術の旅ガイド)、美術出版社、1995年、77頁。
  42. ^ CDJournal
  43. ^ KIRIN ART GALLERY 美の巨人たち
  44. ^ allcinema
  45. ^ GreekJapan.com
  46. ^ ぴあ映画生活

外部リンク[編集]