ドイツ農民戦争

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ドイツ農民戦争
the 宗教改革
Karte bauernkrieg3.jpg
ドイツ農民戦争を時系列で表した地図 薄灰色の部分は、ドイツ農民戦争以前の反乱地域を表す。1524年の反乱は赤で示した地域、すなわちミュールハウゼン、フォルフハイム、ならびに現在のドイツ南西部を含む小規模な範囲で起こった。1525年3月20日までに反乱は特に南部で東に向かって広がり(薄赤)、1525年3月と4月の反乱は北に向かって一気に広がった(茶色)。スイスも反乱の中にあった。1525年4月30日以降の反乱は南東へすなわち現在のオーストリアへ向かっている。白い×印は主な戦闘が起こったところ。実線は神聖ローマ帝国の国境、点線は2003年時点のドイツの国境
1524–1525
場所 現在のドイツ, スイス, オーストリア, アルザス, チェコ
結果 反乱の鎮圧と参加者の処刑
衝突した勢力
農民軍(Peasant Army) シュヴァーベン同盟ドイツ語版英語版
指揮官
トマス・ミュンツァー 
ハンス・ミュラードイツ語版英語版 
ヴェンデル・ヒプラー英語版 
en:Georg, Truchsess von Waldburg
戦力
300,000
被害者数
>100,000
プロテスタント宗教改革
95Thesen.jpg
迫害の歴史
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

ドイツ農民戦争(ドイツのうみんせんそう、: Deutscher Bauernkrieg, : German Peasants' War)は1524年、主にドイツ南部・中部の農民が起こした大規模な反乱

農民蜂起から全ドイツへ拡大[編集]

マルティン・ルターの「95ヶ条の論題」から始まった宗教改革は、ドイツのあらゆる階層に深刻な影響を与えた。ローマ教皇と結ぶ神聖ローマ皇帝の集権化に反発する諸侯はルター派に転じ始め、没落しつつあった騎士たちは教会領を没収して勢力を回復しようとする反乱を起こし(騎士戦争)、教会や諸侯の抑圧に苦しんでいた農民も各地で反乱に立ち上がった。

ドイツ農民戦争は、1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民反乱から始まった。彼らは賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求ドイツ語版英語版」を掲げて各地の農民に呼びかけたため、蜂起はシュヴァーベンから東南のチロルへ、東北のテューリンゲンザクセンへと広がっていった。この農民反乱に直面したシュヴァーベン同盟ドイツ語版英語版1488年結成)の諸侯たちは、農民軍の鎮圧にあたった。諸侯軍は4月、ライプハイムドイツ語版英語版で農民軍を襲い、1000人の農民を虐殺してドナウ川に投げ捨て、その後も各地で農民軍を各個撃破していった。

トーマス・ミュンツァーの反乱[編集]

農民反乱が最も激しく戦われたのは、フランケン地方の北のテューリンゲン地方であった。その中心都市がミュールハウゼンドイツ語版英語版で、この都市を拠点に農民反乱を指導したのが聖職者のトーマス・ミュンツァーであった。ミュンツァーはルターの宗教改革運動に関わったが、次第にルターの考え方-現存する権力と秩序を認める-に批判的になり、「地上における神の国」の実現を求めるようになった。ミュンツァーは、農民だけでなく鉱山労働者にも呼びかけ、彼らの参加を得て農民軍を強力な軍隊に組織し、諸侯・領主を完全に排除し、蜂起者による共同社会(「地上の神の国」)を実現することを説いた。6000人に膨れ上がった蜂起軍は、諸侯の城塞、教会、修道院を次々に襲撃していった。

ルターははじめ、反乱に立ち上がった農民に同情的であったが、このミュンツァーに指導される反乱が始まると、これを厳しく非難し、諸侯たちに徹底的に鎮圧するよう勧告した。ルターに激励された諸侯軍は、1525年5月、ミュンツァー軍と決戦を行った。その大半が槍や鎌しか持たない農民軍は勇敢に戦ったが、大砲で武装した諸侯軍の敵ではなく、徹底的に粉砕された。ミュンツァーは捕らえられて拷問された上処刑された。

影響[編集]

こうして、ドイツ農民戦争は、10万人の農民が殺されて敗北に終わり、農民は一層農奴的抑圧下に置かれることになった。南ドイツの農民は、このとき諸侯軍側についたルター派から離れ、現地ではカトリックが主流となった。

一方、勝利した諸侯勢力は、勢力を強めて各地で割拠し、ドイツはその領邦的分裂をさらに強めることになったのである。

関連項目[編集]