シュレースヴィヒ公国

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シュレースヴィヒ公国
Hertugdømmet Slesvig
Herzogtum Schleswig
1058年 - 1864年/1866年
シュレースヴィヒの国章
(国章)
シュレースヴィヒの位置
1848年のシュレースヴィヒ
首都 シュレスヴィヒ
フレンスブルク
シュレースヴィヒ公
1058年 - 1095年 オーラフ1世
1863年 - 1864年 クリスチャン9世(最後)
変遷
不明 xxxx年xx月xx日

シュレースヴィヒ公国デンマーク語: Hertugdømmet Slesvig, ドイツ語: Herzogtum Schleswig)は、11世紀から19世紀後半までユトランド半島南部に存在した、デンマーク王冠に属する公国。

現在はドイツデンマークの国境によって分断されており、北部はデンマーク領の南デンマーク地域の一部(旧セナーユラン県)に、南部はドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部になっている。公国は北海バルト海の間の物資輸送経路として重要性を有していた。

歴史[編集]

前史[編集]

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン地方の古代の民族分布。赤がデーン人、青がサクソン人、黄がフリース人。茶はスラブ人、灰は無住か人口希薄な地域

古代ローマの史料は、ジュート人の原住地をアイダー川の北側に、アングル人の原住地がその南側にあったと記している。やがてかれらはサクソン人と隣り合うことになる。

中世初期のシュレースヴィヒ地方には、シュライ湾北側のシュヴァンゼン半島デーン人、 西海岸の現国境線のやや南や北フリジア諸島 (North Frisian Islandsには北フリジア人北フリジア語の話者たち)が暮らしており、ずっと南にサクソン人(低地ドイツ人)が暮らしていた。14世紀、シュレースヴィヒ地方の住民たちはドイツ語を話すようになったが、一方で民族の境界は1800年頃まで大きく変わりはしなかった(ただし、14世紀以来都市においてはドイツ人が増加していった)。

ヴァイキング時代 (Viking Ageの初期、シュライ湾の奥(現在のシュレースヴィヒ市近郊)にあったヘーゼビューHedeby)はスカンディナヴィア最大の交易拠点であり、また半島中央部を仕切るダーネヴィアケ (Danevirke防塁の所在地でもあった。この防塁は段階的に建設されたが、737年頃に大規模な増築がなされたことは、デンマークに統一的な国家が出現したことを示していると考えられている[1]8世紀から10世紀にかけて(この時期はヴァイキングの最盛期だった)、小規模な族長国家がデンマークによって統合されていく中で、シュレースヴィヒ地方もデンマークの歴史的地域 (Lands of Denmarkの一部を構成するようになった。

デンマーク領の南の境界はアイダー川あるいはダーネヴィアケとみなされたが、この地域はまたさまざまな紛争を引き起こした。811年、デンマークのヘミングフランク王国カール大帝の間に条約 (Treaty of Heiligenが結ばれ、アイダー川が境界であると確認された。しかしその後も紛争はしばしば続き、10世紀のあいだ東フランク王国(のちに神聖ローマ帝国)とデンマークは境界領域をめぐって何度か戦争を繰り返した。934年に東フランク王(ドイツ王)ハインリヒ1世はダーネヴィアケでデンマーク軍に勝利してヘーゼビューを占領した。974年、デンマーク王ハーラル1世は神聖ローマ皇帝オットー2世と戦ったが、オットーがダーネヴィアケで巻き返しに成功している。983年にデンマーク王スヴェン1世はドイツが築いた砦を破壊した。

1027年、皇帝コンラート2世とデンマークのクヌーズ大王はアイダー川に両国の国境を設定した[2]

公国の成立[編集]

デンマーク王国(エストリズセン朝)のクヌーズ4世 (Canute IV of Denmarkの弟、オーロフ1世 (Olaf I of Denmarkは、南ユトランド(シュレースヴィヒ)の伯爵(jarl af Sønderjylland)になった。オーロフ1世は兄の戦死を受けてデンマーク王(在位: 1086年 – 1095年)に即位した。オーロフ1世の弟であるニルス王 (Niels of Denmark(在位: 1104年 – 1134年)は1115年、甥(エーリク1世の子)のクヌーズ・ラヴァー (Canute Lavardを南ユトランドの伯爵に叙した。しかし「伯爵」の称号が使われた期間は短く、クヌーズはまもなく公爵を名乗るようになった[3]。その後、クヌーズの子ヴァルデマー1世がデンマーク王位(在位: 1157年 - 1182年)に就いた。

1230年代、シュレースヴィヒ公国(南ユトランド)はヴァルデマー2世王(ヴァルデマー1世の子)の次男であるアーベルに、分領(アパナージュ)として与えられた。このアーベルはまもなく王位を兄から奪い取り、公国を息子に残した。1252年にアーベルが戦死した後、デンマーク王位はアーベルの弟の系統に移ったため、アーベルの子孫はデンマークの王位を窺い、デンマーク王とシュレースヴィヒ公は続く世紀のあいだ紛争状態にあった。

アーベルの妃はホルシュタイン伯の娘マティルデ(メヒティルド)であった。アーベルの系統は15世紀にかけて、シュレースヴィヒの南隣にあるドイツ人のホルシュタイン伯領(のちのホルシュタイン公国)と封土や婚姻によって結びつくようになった。ホルシュタインは神聖ローマ皇帝の封土であり、一方でシュレースヴィヒはデンマーク王の封土だった。この二国の異なる主従関係は、19世紀になって民族ロマン主義国民国家の理念が人々の共感を得るようになると、ドイツとデンマークがこの地域をめぐって争うことになる主な原因となった。

シュレースヴィヒ公爵位は、14世紀ににホルシュタイン=レンツブルク伯であったシャウエンブルク家に移り、1460年にはオルデンブルク家(オレンボー家)のクリスチャン1世(デンマーク王・ノルウェー王・スウェーデン王)の手に渡った。以後シュレースヴィヒ公爵位は、カルマル同盟によりデンマークとノルウェーの王(1523年にスウェーデンは離脱)を受け継ぐこととなったオルデンブルク家が有したが、デンマークは選挙王制の形式をとっていたため、世襲王制をとるノルウェー王としてシュレースヴィヒ公国を相続した。王が主君と封臣の二重の称号を持つことは奇妙なことであったが、王と王子が共同領主であったことからこの状態は生き残った。1544年、クリスチャン3世は、シュレースヴィヒとホルシュタインの両公国をオルデンブルク家とその分家であるゴットルプ家の共同統治とした(1580年まではもう一家、ハザスレウ家も共同統治に当たっていたが断絶した)。以後、両家によるシュレースヴィヒ公国の共同統治は、1713年(ないし1720年)まで続いた。

宗教改革にともない、ラテン語で行われていた教会の礼拝のための言語は、「方言」に置き換えられた。シュレースヴィヒの教区は分割され、ハダスレウに自治教区(大執事の管区)が設立された。西海岸にあったリーベ教区は、現代の国境線の北5kmにあった。シュレースヴィヒ教区では教会の礼拝と教育にドイツ語が用いられ、リーベ教区ではデンマーク語が用いられた。公国に引かれた新たな文化の境界は、現代の国境と近いところに引かれた。

17世紀、デンマークスウェーデンの間で展開された一連の戦争(デンマークが敗北した)は、この地域に経済的な荒廃をもたらした。しかし、貴族たちは新たな農業システムの導入によって復興にあたった。1600年から1800年にかけて、東部ドイツにおけるライ麦生産地帯と同様に、荘園経営が大きく成長した。荘園は封建小作農民が仕事を担う大規模所有であり、かれらは高品質の乳製品の生産に特化した。封建領主制は技術的の近代化と結びつき、労役と賃労働の差異もあいまいであった。封建制度は1765年に王領で廃止されたのを皮切りとして貴族の荘園もこれに続き、18世紀後半には次第に廃止された。1805年にすべての農奴制は廃止され、土地制度改革によってかつての農民が自分の農場を所有するようになった[4]

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題[編集]

19世紀の南シュレースヴィヒにおける言語分布。赤系がデンマーク語、青系がドイツ語、黄色系が北フリジア語の分布。中央部の色が重なった地域では言語が混在している。

1800年頃から1840年にかけて、シュレースヴィヒとフレンスブルクの間に位置するアンゲルン半島のデンマーク語話者の人口は、低地ドイツ語話者に置き換わっていった。同じ時期、多くの北フリジア語話者も使用言語を低地ドイツ語を切り替えた。言語状況のこの変更は、ドイツ語話者とデンマーク語話者を分かつ事実上の境界線を、トゥナーの北、フレンスブルクの南に新たに引くこととなった。

1864年以前のシュレースヴィヒの行政区画

1830年頃より、多くの人々がドイツかデンマークかのどちらか一方のナショナリティにアイデンティティを持つようになり、政治的な動員も図られるようになった。デンマークでは国民自由党がシュレースヴィヒ問題をアジテーションに利用し、「アイダーまでのデンマーク」をスローガンとして、公国がデンマーク王国に含まれるべきことを主張した。このようなかたちで、ドイツとデンマークがシュレースヴィヒとホルシュタインをめぐって争うようになり、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が浮上した。デンマークで国民自由党が権力の座に着き、シュレースヴィヒ公国をデンマーク王国領に併合しようとすると、1848年にシュレースヴィヒをホルシュタインと連合関係の維持を望む民族ドイツ人たちの反乱を起こす結果になった。この反乱はさらに第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (First Schleswig Warを引き起こした。デンマークは侵入してきたプロイセン軍に勝利し、1852年のロンドン議定書でシュレースヴィヒおよびホルシュタインの保持に成功した。

1863年、デンマークはシュレースヴィヒと共通の新憲法(11月憲法)を作ることによって再びシュレースヴィヒを併合しようとした。しかし、プロイセンとオーストリアが率いるドイツ連邦は、第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (Second Schleswig Warによってデンマークに勝利した。1865年8月14日のバート・ガスタイン協定 (Gastein Conventionにより、プロイセンがシュレースヴィヒを、オーストリアがホルシュタインの行政権をそれぞれ獲得した。しかし、プロイセンとオーストリアの覇権争いは1866年の普墺戦争を引き起こした。勝利したプロイセンは、プラハ条約によりシュレースヴィヒとホルシュタインを併合して、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 (Province of Schleswig-Holsteinを設置した。北シュレースヴィヒをデンマークに統合しようとする動きに備え、住民投票は保留とされた。1787年にオーストリアはこの点に遡って問題視したが、1907年にデンマークとドイツが結んだ条約により、オーストリアとプロイセンの間でデンマークとドイツの国境を最終的に決定するという合意がなされていたということが確認された[5]

後史[編集]

1920年の住民投票
シュレースヴィヒ/南ユトランド(淡色部分)の分割

第一次世界大戦ドイツ帝国が崩壊すると、ヴェルサイユ条約は、地域の帰属を決定するための住民投票の実施を取り決めた[6]1920年に2つの住民投票が実施され、この地域は分割された。北部シュレースヴィヒはデンマークに加わり、中央シュレーズヴィヒは投票者中80%の多数でドイツ残留を決めた。南部シュレスヴィヒでは結果が自明であるとして国民投票は開催されなかった。「南シュレースヴィヒ」という名称は現在、ドイツ側のシュレースヴィヒ全域を指して使用される。この決定は、新たな境界の両側にそれぞれマイノリティを残した。

第二次世界大戦後、南シュレスヴィヒのドイツ人の少なからぬ人々は国籍を変更し、「デンマーク人」であると宣言した。この変更には多くの要因が上げられるが、最も重要なのはドイツの敗北にともなって生じた東部ドイツからの大量の「ドイツ人」難民の流入であった。彼らは文化も外見も地元の「ドイツ人」(19世紀にドイツ国籍を選択したデンマーク系家族の末裔)とは異なっていたのである。この国籍変更により、一時的にデンマーク人がマジョリティとなった。南シュレスヴィヒのデンマーク人や、首相クヌード・クリステンセン (Knud Kristensenを含むデンマークの政治家からは、改めて住民投票を行うべきであるという要求もなされた。しかし、デンマークの議会の大勢は、彼ら「新デンマーク人」の国籍変更が心からのものではないことを危惧し、南シュレスヴィヒでの住民投票への助力を拒否した。これにより、デンマーク人の人口は再び収縮し始めた。とはいえ、1950年代初頭の時点で人口は戦前よりも4倍高い水準で安定していた。

1955年のコペンハーゲン=ボン宣言で、西ドイツとデンマークは互いの領域のマイノリティの尊重に合意した。今日、旧シュレースヴィヒ公国の領域は二つの領域国家に分断されているものの、国境の両側は同じ欧州連合の広域地域(ユーロリージョン)である。デンマークもドイツもシェンゲン協定に加わっており、国境で入国の手続きは行われない。

脚注[編集]

  1. ^ Michaelsen, Karsten Kjer, "Politikens bog om Danmarks oldtid", Politikens Forlag (1. bogklubudgave), 2002, ISBN 87-00-69328-6, pp. 122-123 (デンマーク語)
  2. ^ Meyers Konversationslexikon, 4th edition (1885-90), entry: "Eider" [1](ドイツ語)
  3. ^ Danmarkshistoriens hvornår skete det, Copenhagen: Politiken, 1966, p. 65 (デンマーク語)
  4. ^ Carsten Porskrog Rasmussen, "Innovative Feudalism. The development of dairy farming and Koppelwirtschaft on manors in Schleswig-Holstein in the seventeenth and eighteenth centuries," Agricultural History Review (2010) 58#2 pp 172-190.
  5. ^ Wikisource-logo.svg Chisholm, Hugh, ed (1922). “Schleswig”. Encyclopædia Britannica (12th ed.). London & New York. 
  6. ^  Schleswig (duchy)”. Collier's New Encyclopedia. (1921). 

関連項目[編集]