ホルシュタイン公国

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1789年のホルシュタイン公国の版図
ホルシュタインの国章
1650年頃のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン

ホルシュタイン公国(ホルシュタインこうこく、ドイツ語:Herzogtum Holstein)は、神聖ローマ帝国の北部に1474年から1866年まで存在した領邦国家。ホルシュタイン地方の一部に存在し、デンマーク王家とその傍系貴族の統治を受けていた。

歴史[編集]

最後のシャウエンブルク伯およびホルシュタイン伯で、シュレースヴィヒ公爵を兼ねていたアドルフ8世が継嗣のないまま1459年に死んだ。シュレースヴィヒはデンマーク王冠の属領であったため、宗主のデンマーク王クリスチャン1世に返還されたが、アドルフ8世の甥でもあったクリスチャン1世はホルシュタインをも自分の支配下におこうとした。クリスチャンはシュレースヴィヒおよびホルシュタインの同君連合の継続を望む地元貴族たちの支持を受け、1460年にリーベ条約が締結されたのに伴い、クリスチャンはホルシュタイン伯爵位を継ぐことを宣言した。アイダー川(デンマークとドイツの国境をなしている)以南にあったホルシュタイン伯領は神聖ローマ帝国の封土のままであったが、クリスチャンは1474年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世から帝国直属身分を獲得し、ホルシュタイン公に昇格した。

1544年、クリスチャン1世の孫息子クリスチャン3世はシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国を二人の異母弟たちと分割し、2つの公国はデンマーク王領とそれ以外の2地域に分かれた。異母弟たちは領土分割に際し、デンマーク王位継承権を放棄した。

1648年以後、デンマーク王フレゼリク3世はシュレースヴィヒおよびホルシュタインにあるデンマーク王の支配領の首府をグリュックシュタットに置き、デンマーク王の支配する公国はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=グリュックシュタット公国と呼ばれた。1773年以前は、グリュックシュタット公国内のホルシュタイン地域の行政区分はレンツブルクディトマルシェンシュタインブルクゼーゲベルクおよびプレーンの5つに分けられていた。またホルシュタインの大部分をなすバルト海沿岸のホルシュタイン=グリュックシュタット公国とホルシュタイン=ゴットルプ公国は共通の行政組織によって管理されていた。

1815年のウィーン会議以後、デンマーク王領であるホルシュタイン公国はドイツ連邦に参加したが、この特殊な立場のために、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と呼ばれる外交上、軍事上の係争を引き起こすことになった。デンマークは第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年 - 1851年)では南のプロイセン王国の侵略からホルシュタインを防衛することに成功したが、第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではプロイセンとオーストリアの連合軍がアイダー川を越えてシュレースヴィヒを征服し、デンマーク王クリスチャン9世は1864年のウィーン条約でシュレースヴィヒおよびホルシュタインの放棄を認めるのを余儀なくされた。ホルシュタインはその直後に普墺戦争が起きて1866年にプロイセンに併合されるまでは、オーストリア政府の管理下にあった。

関連項目[編集]