シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯は、神聖ローマ帝国の称号の一つである。シャウエンブルク家はドイツのヴェーザー川沿いにあるリンテルン (シャウムブルク郡)の近くにあるシャウエンブルク出身で、先祖伝来の地であるビュッケブルクおよびシュタットハーゲンとともに、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯領を統治した。ホルシュタイン伯は1296年まではザクセン公の、その後はザクセン=ラウエンブルク公の支配下にあった。

シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯[編集]

伯爵領
シャウエンブルク ホルシュタイン
肖像 治世 名前 肖像 治世 名前
1110年 - 1131年 アドルフ1世、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯
1131年 – 1164年 アドルフ2世、シャウエンブルク伯 1131年 – 1137年 アドルフ2世、ホルシュタイン伯
1137年 – 1143年 ハインリヒ・フォン・バードヴィーデン、ホルシュタイン伯、1139年にヴァグリエンを支配
1143年 – 1164年 アドルフ2世、ホルシュタイン伯
Hansa-schwert.jpg
1164年 – 1203年 アドルフ3世、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯、監禁から解放される代償としてホルシュタインを1203年にヴァルデマー2世に譲渡
1203年 – 1225年 アドルフ3世、シャウエンブルク伯
Coin minted for king Valdemar II of Denmark, Valdemar II Sejr.jpg
1203年 – 1227年 ヴァルデマー2世(デンマーク王)、事実上ホルシュタインを支配
Adolf von Schauenburg IV.jpg
1225年 – 1227年 アドルフ4世、シャウエンブルク伯
1227年 – 1238年 アドルフ4世、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯(ヴァルデマー2世に戦勝)
Seal Gerhard I. (Holstein-Itzehoe) 01.jpg
ゲルハルト1世の印璽↑ と ヨハン1世の印璽↓
Seal Johann I. (Holstein-Kiel) 02.jpg
1238年 – 1261年 ゲルハルト1世およびヨハン1世
父親の死まで共同統治

ホルシュタインの分割統治(1261年 - 1273年)[編集]

1261年に、ゲルハルト1世とヨハン1世の兄弟はホルシュタイン及びシャウエンブルク(シャウムブルク)伯領を分割相続した。ゲルハルト1世はホルシュタイン=イツェホーとシャウムブルクを受け取り、ヨハン1世はホルシュタイン=キールを受け取った。ヨハン1世の死後、息子のアドルフ5世とヨハン2世はホルシュタイン=キールを共同統治した。1273年に二人はホルシュタイン=キールを分割し、ヨハン2世は引き続きキールを統治し、アドルフ5世はザーゲベルク(別名シュトルマルン)を統治した。アドルフ5世の甥アドルフ7世が継承した。1315年にアドルフ7世は男子の後継者なく死去し、ホルシュタイン=ゼーゲベルクはホルシュタイン=キールに再び統合された。

ホルシュタイン=キール(1261年 – 1290年)[編集]

ゲルハルト1世とヨハン1世の兄弟による共同統治後、1261年にホルシュタインは分割され、ヨハン1世はキールを領した。
肖像 治世 名前
Seal Johann I. (Holstein-Kiel) 02.jpg
1261年–1263年 ヨハン1世
Seal Johann II. (Holstein-Kiel) 01.jpg

John's seal
1263年–1316年
および
1263年–1273年
1273年まで、ヨハン2世(隻眼伯)とアドルフ5世ポンメルンの兄弟が共同統治し、分割後アドルフ5世はゼーゲベルクを領した。

ホルシュタイン=ゼーゲベルク(1273年 – 1315年)[編集]


アドルフ5世とヨハン2世の兄弟による共同統治後、1273年にホルシュタイン=キールは分割され、アドルフ5世はホルシュタイン=ゼーゲベルク(シュトルマルン伯領)を領した。
印璽 治世 名前
Seal Adolf V. (Holstein-Segeberg) 02.jpg
1273年–1308年 アドルフ5世ポメラニアン
1308年–1315年 アドルフ7世
アドルフ7世が暗殺された後、ホルシュタイン=ゼーゲベルクはホルシュタイン=キールに戻され、父親であるヨハン2世が領した。

ホルシュタイン=イツェホー(1261年 – 1290年)[編集]

ゲルハルト1世とヨハン1世の兄弟による共同統治後、1261年にホルシュタインは分割され、ゲルハルト1世はホルシュタイン=イツェホーおよびシャウムブルクを領した。
肖像 治世 名前
Seal Gerhard I. (Holstein-Itzehoe) 01.jpg
1261年–1290年 ゲルハルト1世
1290年、ゲルハルト1世の息子たちはホルシュタイン=イツェホーとシャウムブルクを3つに分割した。アドルフ6世はホルシュタイン=ピンネベルクとシャウムブルクを、ゲルハルト2世はホルシュタイン=プレンを、ハインリヒ1世はホルシュタイン=レンズブルクをそれぞれ獲得した。

1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合[編集]

1290年のゲルハルト1世の死後、彼の息子たちはホルシュタイン=イツェホーおよびシャウムブルクを3つに分割した。3男のアドルフ6世はホルシュタイン=ピンネベルクとエルベ川南側のシャウムブルクを、次男のゲルハルト2世はホルシュタイン=プレンを、4男のハインリヒ1世はホルシュタイン=レンズブルクをそれぞれ得た。長男のヨハンはハンブルク大聖堂の律修司祭となった。

ゲルハルト2世の死後、息子のゲルハルト4世とその異母弟ヨハン3世(寛大伯)はホルシュタイン=プレンを共同統治した。1316年、兄弟はホルシュタイン=キールのヨハン2世(1321年没)の領地を戦により奪い、ヨハン2世の息子たちは殺された。ヨハン3世はプレン伯領を1350年に再び統治する前、父ゲルハルト2世(盲目伯)のいとこであるヨハン2世(隻眼伯)からキールを奪い取った。ゲルハルト4世はホルシュタイン=プレン全体を統治し続けた。

ヨハン3世の甥で、ゲルハルト4世のあとを継いだゲルハルト5世が1350年に死去した後、プレン伯系は断絶し、ヨハン3世が再びそれらを領した。息子のアドルフ9世(7世)[1]は、1359年よりキールとプレンを領していたが、1390年に後継者なく死去し、ニコラウスと甥のアルブレヒト2世およびゲルハルト6世(1397年まで共同統治)が、ホルシュタイン=キールおよびホルシュタイン=プレンを継いだ。

ホルシュタイン=キール(1290年 – 1390年)[編集]

キール系は1316年に断絶したが、プレン系が継いだ。
肖像 治世 名前
Seal Johann II. (Holstein-Kiel) 01.jpg
1263年–
1316年
ヨハン2世(隻眼伯) - 1273年までアドルフ5世ポメラニアンと共同統治。ヨハン3世とゲルハルト4世により廃された。
Grevjohanssegl.jpg












1316年–
1359年








ヨハン3世は、父のいとこであるヨハン2世からキールを奪った。ヨハン3世はプレンの共同統治を放棄し、兄のゲルハルト4世がプレンを単独統治した。
プレンを1350年に甥のゲルハルト5世から相続した
Seal Adolf IX. (Holstein-Kiel) 04.jpg
1359年–
1390年
アドルフ9世(7世)(寛大伯)[1]
アドルフ9世(7世)の死後、ホルシュタイン=キール(プレンを含む)はホルシュタイン=レンズブルクに併合された。

ホルシュタイン=プレン(1290年 – 1350年)[編集]

プレン系は1350年に断絶したが、かつて共同統治していたヨハン3世が相続した。
印璽 治世 名前
Seal Gerhard II. (Holstein-Plön) 01.jpg
1290年–
1312年
ゲルハルト2世(盲目伯)
Seal Gerhard IV. (Holstein-Plön) 01.jpg
ゲルハルト↑とジョン↓の印璽
Seal Johann III. (Holstein-Kiel) 01.jpg
1312年–
1323年
および
1312年–
1316年

1316年まで、ゲルハルト4世とヨハン3世(寛大伯)の兄弟により共同統治。ヨハン3世は、のちに共同統治を放棄し、ヨハン2世より奪ったキールを領した。
Seal Gerhard V. (Holstein-Plön) 01.jpg
1323年–
1350年
ゲルハルト5世
プレンをヨハン3世に遺贈
Seal Johann III. (Holstein-Kiel) 02.jpg
1350年–
1359年
ヨハン3世
甥ゲルハルト5世より相続
ヨハン3世はホルシュタイン=プレンをホルシュタイン=キールに併合した。

ホルシュタイン=レンズブルク(1290年 – 1397年)[編集]

1290年、ホルシュタイン=レンズブルクはホルシュタイン=イツェホーおよびシャウムブルクから分離された。
肖像 治世 名前
Seal Heinrich I. (Holstein-Rendsburg) 01.jpg
1290年–
1304年
ハインリヒ1世
Seal Gerhard III. (Holstein-Rendsburg) 02.jpg
1304年–
1340年
ゲルハルト3世(大伯)、1326年から1330年までシュレーズヴィヒ公(1世)
ハインリヒ↓
Seal Heinrich II. (Holstein-Rendsburg) 04.jpg
Seal Nikolaus (Holstein-Rendsburg) 04.jpg
ニコラウス↑
ゲルハルト↓
Seal Gerhard VI. (Holstein-Rendsburg) 01.jpg
Seal Albrecht II. (Holstein) 01.jpg
アルブレヒト↑ の印璽
1340年–
1381/84年
1340年–
1397年




1381/84年–
1397年
および1381/84年–
1404年





1381/84年までハインリヒ2世とニコラウスの兄弟による共同統治。2人とも1375年よりシュレーズヴィヒ公。ハインリヒの死後、ニコラウスは甥のアルブレヒト2世およびゲルハルト6世と共同統治。1386年、ニコラウスはシュレースヴィヒ公から退き、ゲルハルト6世がゲルハルト2世(1386年-1404年)として公位を継いだ。
1390年、ホルシュタイン=レンズブルクはキール(プレンを含む)を併合した。

ホルシュタイン=ピンネベルク(1290年 – 1397年)[編集]

ホルシュタイン=ピンネベルクは1290年に分離され、シャウムブルクと同君統治となった。
肖像 治世 名前
Seal Adolf VI. (Holstein-Schauenburg) 01.jpg
1290年–
1315年


アドルフ6世(1256年-1315年)


1315年–
1354年




アドルフ7世




Seal Adolf VIII. (Schaumburg) 01.jpg
1354年–
1370年
アドルフ8世
Seal Otto I. (Schaumburg), 01.jpg
1370年–
1404年





オットー1世




1397年のホルシュタインの分割と1459年のレンズブルク系の断絶[編集]

1390年、ホルシュタイン=レンズブルク系はキール、プレン、ゼーゲベルクを併合したが、ホルシュタイン=ピンネベルクは1640年まで独立して存続した。レンズブルク系は1390年以降はしばしば単に「ホルシュタイン伯」とも名乗った。ピンネベルク系はシャウムブルク伯領に住んだ。

1397年にニコラウスが死去した後、ホルシュタイン=レンズブルクを共治していた甥のアルブレヒト2世とゲルハルト6世は、ホルシュタイン=ゼーゲベルク(シュトルマルン伯領)をホルシュタイン=レンズブルクから分割し、アルブレヒトがレンズブルクの共治を辞退しゼーゲベルクを領した。1403年にアルブレヒトが死去した後、ゼーゲベルクはレンズブルクに戻された。1459年、アドルフ11世(8世)[1]の死後、レンズブルク系は男系が断絶し、ホルシュタイン=レンズブルクとシュレーズヴィヒの貴族はアドルフの姉妹の息子であるオルデンブルク家出身のデンマーク王クリスチャン1世を後継者に選んだ。

ホルシュタイン=レンズブルク(1397年 – 1459年)[編集]

肖像 治世 名前
Seal Nikolaus (Holstein-Rendsburg) 04.jpg
ニコラウス↑
Seal Albrecht II. (Holstein) 01.jpg
アルブレヒト↑
Seal Gerhard VI. (Holstein-Rendsburg) 01.jpg
ゲルハルト↑の印璽

1340年–1397年
1381/84年–1397年



1381/84年–1404年



1397年にニコラウスが死去し、アルブレヒト2世がゼーゲベルクを領した後、
ゲルハルト6世が単独統治し、ゲルハルト2世としてシュレーズヴィヒ公となった。
Seal Heinrich III. von Schauenburg-Holstein 01.jpg
1404年–1421年 ハインリヒ3世、ハインリヒ1世としてオズナブリュック司教(1402年-1410年)
1421年–1427年 ハインリヒ4世、ハインリヒ3世としてシュレースヴィヒ公(1404年-1427年)
Seal Adolf VIII. (Holstein) 01.jpg
Seals of Adolphus ↑ and Gerhard ↓
Seal Gerhard VII. (Holstein) 01.jpg
1427年–1459年
および
1427年–1433年





1433年までアドルフ1世としてアドルフ11世(8世)[1]
ゲルハルト3世としてゲルハルト7世がシュレースヴィヒ公位を要求し、アドルフが1440年にデンマーク王家から承認を得た。
アドルフの死により、レンズブルク系は断絶し、甥にあたるオルデンブルク家のデンマーク王クリスチャン1世がホルシュタイン=レンズブルク伯領を相続し、1474年にホルシュタイン公に陞爵した。

ホルシュタイン=ゼーゲベルク(1397年-1403年)[編集]

ニコラウスの死後、アルブレヒト2世とゲルハルト6世の兄弟がホルシュタイン=ゼーゲベルク(シュトルマルン伯領)をホルシュタイン=レンズブルクから分割した。
印璽 治世 名前
Seal Albrecht II. (Holstein) 01.jpg
1397年–1403年 アルブレヒト2世
アルブレヒトの死後、ホルシュタイン=ゼーゲベルクはホルシュタイン=レンズブルクに戻された。

ホルシュタイン=ピンネベルク(1397年–1459)[編集]

肖像 治世 名前
Seal Otto I. (Schaumburg), 01.jpg
1370年–
1404年







オットー1世






1404年–1426年


アドルフ10世(9世)[1]


Seal Otto II. (Schaumburg) 01.jpg
1426年–1464年







オットー2世








1640年までのシャウムブルクおよびホルシュタイン=ピンネベルク[編集]

オルデンブルク家出身のデンマーク王クリスチャン1世がホルシュタイン=レンズブルク伯の後継者に選ばれ、クリスチャンは1460年に伯領を継いだ。1474年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、クリスチャン1世をホルシュタイン=レンズブルク伯からホルシュタイン公とした。ホルシュタイン=ピンネベルクおよびシャウムブルクのシャウエンブルク家は1640年の男系断絶まで続いた。この系統は「ホルシュタイン=シャウエンブルク」ともいわれる。シャウムブルク伯は1619/20年にシャウムブルク侯となったが、ホルシュタイン公はホルシュタイン=ピンネベルク伯の陞爵に反対した。

ホルシュタイン=ピンネベルク(1459年 – 1640年)[編集]

ホルシュタイン=ピンネベルク伯およびシャウムブルク伯
肖像 治世 名前
Seal Otto II. (Schaumburg) 01.jpg
1426年–1464年 オットー2世
1464年–1474年 アドルフ12世(10世)[1](1419年–1474年)
1474年–1492年 エーリク(1420年–1492年)
Seal Otto III. (Schaumburg) 01.jpg
1492年–1510年 オットー3世(1426年–1510年)
1510年–1526年 アントン(1439年–1526年)
1526年–1527年 ヨハン4世(1449年–1527年)
1527年–1531年 ヨープスト1世(1483年–1531年)
Stadthagen StMartini Grabmal.JPG
Otto's grave monument
1531年–1560年
および
1544年–1576年
ヨハン5世、1544年から弟オットー4世と共同統治(オットー3世として1531年-1537年にヒルデスハイム司教)
Seal Adolf XI. (XIV.) (Schaumburg) 01.jpg
1576年–1601年 アドルフ14世(11世)[1](1547年–1601年)
Ernst von Schaumburg.jpg
1601年–1622年 エルンスト、1619年よりシャウムブルク侯
1622年–1635年 ヨープスト・ヘルマン(1593年–1635年)
1635年–1640年 オットー5世(1616年–1640年)

1640年のシャウムブルクの分割[編集]

オットー5世が1640年に後継者なく死去し、シャウエンブルク家によるホルシュタインの統治は終わった。ホルシュタイン=ピンネベルク伯領はデンマーク王クリスチャン4世によりホルシュタイン公国に併合された。クリスチャン4世以降についてはシュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧を参照。

本来のシャウムブルク領は、シャウエンブルク家の後継者の間で3つに分割相続された。それらのうち1つはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領に組み込まれ、1つはシャウムブルク=リッペ伯領に、もう1つはシャウムブルク伯領として存続し、ヘッセン=カッセル方伯により同君連合の形で統治された。それら3つはすべて現在はニーダーザクセン州の一部である。ゲメン領は1531年にヨープスト1世の結婚を通して獲得し、次男のヨープスト2世(1520年頃 - 1581年、1531年より統治)が統治し、リンブルフ・シュティルム家に引き継がれた。ゲメンは今日のノルトライン=ヴェストファーレン州にある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g シャウエンブルク家全体で名前のナンバリングがされる場合と、各分家ごとにナンバリングされる場合(括弧内)がある