コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)
コンラート2世(Konrad II, 990年? - 1039年6月4日)は、ドイツ王(在位:1024年 - 1039年)、神聖ローマ皇帝(在位:1027年 - 1039年)、ブルグント王(在位:1033年 - 1039年)。ザーリアー朝初代の王。
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概要 [編集]
ザーリアー朝はフランケン地方にいたカロリング朝の分家で、東フランク王国の王アルヌルフ(ケルンテン公も兼位)の庶長子で、ヴォルムス(ヴォルムスガウ)伯も兼ねたロタリンギア王ツヴェンティボルト(ヴェルナー4世)の末裔である。
ツヴェンティボルトの子で、917年に退位し、935年に逝去したフランケン大公も兼ねたヴォルムス伯のヴェルナー5世(コンラート若王の女婿)、コンラート赤毛公(オットー大帝の娘のロイガルトの婿、955年のレヒフェルトの戦いで戦死)、1004年に逝去したケルンテン公オットー2世(コンラート2世の祖父)まで続き、父はシュパイアー伯ハインリヒ2世で、母のアーデルハイト(ロートリンゲンのメッツ伯のコンラート3世(古ヴェルフ家)の娘)との間の長男として生まれた。
また、レーゲンスブルク大司教のゲープハルトは弟で、ローマ教皇グレゴリウス5世、ケルンテン公のコンラート1世、シュトラスブルク大司教のヴィルヘルムは叔父で、ケルンテン公のコンラート2世とヴュルツブルク大司教ブルーノ2世兄弟(コンラート1世の子)は従弟である。
青年期 [編集]
コンラートはドイツ国王として選挙されるまで、ほとんど影響力を持たなかった。むしろ家族の相続地からごくわずかな家領を得ただけで、公爵位を得たことはなく、それどころか伯爵位すら得ていたかどうかも疑わしい。父ハインリヒ2世が祖父オットー2世に先立って、990年代ごろ(990年と1000年逝去の説がある)に死去したため、コンラートはフランケン地方にオットーから領地を相続する権利を得た。
1000年にヴォルムス司教ブルクハルトと出会い、その教育を受けた。しかしこのような教育の機会にもかかわらず、コンラートは生涯文盲に留まった。年代記作家はコンラートがアルファベットを読めず、またラテン語の読み書きもできなかったと伝えている。
1016年の終わりまたは1017年の初めに、シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘、フランケン朝につらなるシュヴァーベンのギゼラと結婚した。ギゼラはシュヴァーベン公領とブルグント王領の相続権を保持していた。なお、この結婚は2人が近縁であることにより、教会法によれば不法なものであった。
選挙による国王選出 [編集]
ハインリヒ2世が子を残さずして死去し、ザクセン朝は男系の血統が完全に断絶した。そのため1024年に、国王選挙のための諸侯集会がオッペンハイムで開催された。この場において、満場一致でコンラート2世がドイツ王に選出され、ザーリアー朝初代の王となった。しかしながら、満場一致とはいえケルン大司教、ロートリンゲン大公などは、この諸侯集会に臨席していなかった。そのためハインリヒ2世と同様に、コンラートも各地を巡行して、こうした各勢力から王位の承認を得る必要に迫られた。
帝国の版図拡大 [編集]
ザクセン朝が推進したイタリア政策は、ザーリアー朝にも引き継がれた。1026年、イタリア遠征を敢行してミラノでイタリア王の戴冠を受け、その翌年の復活祭の日(3月26日)には、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇ヨハネス19世から帝冠を受けて皇帝となった。この戴冠式には、ドイツ・イタリアの諸侯だけでなく、当時広大な北海帝国を形成していたデンマーク王クヌーズ1世なども臨席していた。
その後、コンラートは1033年に相続によってブルグントの王位も手中に収める。このことによって、ドイツ(東フランク)・イタリア・ブルグントという3国の王冠が一手に掌握された。この3国の領域が、いわゆる「神聖ローマ帝国」の支配領域を規定する雛型になったといえよう。
1039年、ユトレヒトで死去。息子のハインリヒ3世がその後継者となった。子供は他にベアトリクス(1036年没)とマティルデの娘2人があり、後者はフランス王アンリ1世と婚約したが、早世して子孫を残さなかった。
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