アントーン・デニーキン

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アントーン・デニーキン

アントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンロシア語:Антон Иванович Деникин アントーン・イヴァーナヴィチュ・ヂニーキン1872年12月16日 - 1947年8月8日)は、ロシア帝国軍人である。アレクサンドル・コルチャークグリゴリー・セミョーノフらと共に、国内戦期における白軍の指揮官の一人である。

概要[編集]

1872年、デニーキンはワルシャワ郊外で生まれた。1899年、ロシア帝国の参謀本部アカデミーを卒業、ロシア帝国軍に勤務し日露戦争にも従軍した。

第一次世界大戦時は、南部軍の師団を指揮、1916年には中将となった。1917年夏、ロシア革命後に旧ロシア帝国領を統治していた臨時政府に対するコルニーロフの反乱に参加したが、反乱が失敗したことにより逮捕された。

しかし、デニーキンはこの年12月には脱走し、ドン地方で義勇軍を組織、これ以降赤軍に対する強力な戦線を張った。一時は連合国の支援も取り付け、ボリシェヴィキー勢力の首府モスクワをも窺う勢いであった。1919年8月31日から10月までの期間、シモン・ペトリューラディレクトーリヤにかわってウクライナの首府キエフを支配し、10月に赤軍に奪回されたあともすぐに取り戻し、同年12月16日に再び赤軍に奪われるまで支配を続けた。

しかしながら、典型的な帝政ロシア軍人であったデニーキンはウクライナやポーランドの独立を完全に否定し、それらの勢力との連合を拒んだため、結局は赤軍により各勢力は個別撃破された。1919年にはドン軍との合同により南ロシア軍を組織するもののときすでに遅く、白軍の劣勢は免れないものとなっていた。デニーキンは1920年春にイギリス海軍戦艦マールバラ」に乗り国外へ脱出、各地を経てパリに亡命した。

その後、デニーキン軍はピョートル・ヴラーンゲリ将軍のロシア軍に引き継がれたが、それも1920年内には敗戦した。

第二次世界大戦中、反ソ勢力の指導者の候補としてドイツ側から接触を受けたが拒否した。終戦後、アメリカに移住。1947年、ミシガン州アナーバーで死去。遺体は軍隊の礼を持ってニュージャージー州ジャクソンの聖ウラジーミル墓地に埋葬された。

2005年、ロシアの市民権を取得した娘のマリーナ・デニーキナの要望により、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンはデニーキンの遺体のロシアへの埋葬を許可。遺体は同年10月3日モスクワドンスコイ修道院に妻キセニア(1892年-1973年)と共に再埋葬された。マリーナは同年11月17日ヴェルサイユの自宅で死去した。

著書に『ロシア騒動概説』(Очерки русской смуты)がある。

外部リンク[編集]