アレクセイ・ブルシーロフ
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アレクセイ・アレクセーヴィチ・ブルシーロフ(Алексей Алексеевич Брусилов;1853年8月19日 - 1926年3月17日)は、帝政ロシアの軍人。騎兵大将。第一次世界大戦時のブルシーロフ攻勢の指揮者。
[編集] 経歴
貴族幼年学校、ニコラエフスク騎兵学校を卒業。露土戦争と第一次世界大戦に従軍。
1914年、南西戦線の第8軍司令官。1916年2月から南西戦線総司令官。1916年5月、ブルシーロフ攻勢として知られる大規模な攻勢を指揮。攻勢は百日以上に及び、オーストリア・ハンガリー軍の将兵40万8千人を捕虜とし、火砲581門、機関銃1,795挺を鹵獲した。この戦果にロシアの新聞は、ブルシーロフを国家の英雄だと称えた。
1917年5月~6月、臨時政府の下でロシア軍最高司令官に就任。戦争の継続を支持し、脱走兵に対して死刑を適用する命令を下達した。しかし、軍内に秩序を回復させることはできず、臨時政府は、彼をL.コルニーロフと交代させた。
ブルシーロフは、妻と共にモスクワに帰ったが、もはや誰も関心を示さず、十月革命を自宅で迎えることになった。11月2日、赤衛隊が放った砲弾の1発がブルシーロフのアパートに当たり、彼は長い軍歴で初めて負傷した。
かつて名声のあったブルシーロフは、外国人に注目され始めた。イギリスの外交官(諜報員)ロッカートは、負傷したブルシーロフを何度も見舞った。チェーカーは、イギリス人がブルシーロフに白軍の指導者になるよう提案した手紙を入手し、彼をクレムリンの営倉に幽閉した。妻のナジェジュダは夫のために何度も陳情し、最終的にフェリックス・ジェルジンスキー自身が介入して釈放された。
ポーランド・ソビエト戦争が始まった時、ブルシーロフは赤軍にいた。これは、昔の戦友達の要請と、息子が赤軍騎兵隊で戦い、デニーキン軍の捕虜となって銃殺されたためだった。ブルシーロフは、共和国軍総司令官附属特別会議議長に就任することに同意した。しかし、後に恩赦を約束されていたヴランゲリ軍将兵が容赦なく銃殺されたことを知って深く後悔し、信仰の世界に深くのめり込むことになった。モスクワで死去。

