ニコライ2世
| ニコライ2世 Николай II |
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| ロシア皇帝 | |
ニコライ2世(1909年)
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| 在位 | 1894年11月1日 - 1917年3月15日 |
| 戴冠 | 1896年5月26日、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂 |
| 全名 | Николай Александрович ニコライ・アレクサンドロヴィチ |
| 出生 | 1868年5月18日 |
| 死去 | 1918年7月17日(満50歳没) |
| 埋葬 | 1998年7月17日 |
| 配偶者 | アレクサンドラ・フョードロヴナ |
| 子女 | |
| 王家 | ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 |
| 王朝 | ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝 |
| 父親 | アレクサンドル3世 |
| 母親 | マリア・フョードロヴナ |
| 宗教 | キリスト教正教会 |
| サイン | |
ニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字転写: Nicholai II、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Николай Александрович Романов, ラテン文字転写: Nicholai Aleksandrovich Romanov、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。
皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。
日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、一家ともども殺された。正教会の聖人(新致命者)に列せられている。
目次 |
生涯[編集]
出生[編集]
1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男、後の皇帝アレクサンドル3世)とその妃マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の間の長男として[1][2]ロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれる[3]。
ニコライの誕生後、弟としてアレクサンドル(夭折)、ゲオルギー、ミハイル、また妹としてクセニアとオリガが生まれている[4][5]。
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青少年期[編集]
7歳(1875年)から10歳(1878年)まで家庭教師アレクサンドラ・オロングレンに師事した[6]。オロングレンの子ウラジーミルとよく一緒に遊んだ。ウラジーミルによると子供の頃のニコライは「顔や挙動が女の子っぽいときが時々あった」という[7]。父アレクサンドル3世も息子の女々しいところをしばしば心配していたという[8]。
10歳の頃から保守的なダニロビッチ将軍が家庭教師となり[注釈 1]、彼が選んだ教師によって語学、数学、歴史、地理、科学などを学んだ。とりわけ歴史と語学が得意でロシア語、フランス語、英語、ドイツ語を流暢に話せるようになった[10][9]。
1879年にウラジーミルや弟ゲオルギーととも中学校へ入学。学生時代のニコライは石蹴りとバードウォッチングが好きだったという[11]。
1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ、顔は判別不能なほどに破損していた。その痛ましい姿を見たアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという[12]。
17歳(1885年)の時から帝王学を受けるようになった。高名な法学者で宗務院長官であるコンスタンチン・ポベドノスツェフから民政法、元大蔵大臣ニコライ・ブンゲから政治経済学、メール将軍とドラゴミロフ将軍から軍事学を学んだ[13]。ポベドノスツェフの回顧録によるとニコライ皇太子は勉強熱心ではなく、授業中鼻糞をほじっていたという。しかしポベドノスツェフの専制君主体制護持の思想には強い影響を受けた[3]。
19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊した。フッサール近衛軽騎兵連隊や軽騎兵砲兵隊にも配属された。ロシアの近衛連隊は軍隊というよりも貴族の社交の場であり、ニコライ皇太子も将校クラブで楽しく過ごしたという[14]。
世界旅行[編集]
両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することになった。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった[15]。ニコライ皇太子本人はほとんど気乗りしていなかったが、仲のいい弟ゲオルギーが同行するという事には喜んでいたという[16]。ただゲオルギーは風邪をこじらせて途中で帰国した[17]。
まずウィーンからギリシャへ向かい、ギリシャ王ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子(従兄弟にあたる)がニコライに同行することになった。ニコライとゲオルギー(途中まで)とゲオルギオス王子は、エジプト、英領インド、コロンボ(英領セイロン)、英領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、英領香港、上海と広東(清)を歴訪した後、最後に日本を訪問した[18][17]。
訪日[編集]
1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港した。以降5月19日まで日本に滞在した。日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備していた。各休憩所で出される茶菓子の吟味にまで及んでいた[17]。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)が任命された。
ニコライは長崎寄港前にピエール・ロティの『お菊さん』を聞いていたため、滞在中一時的に日本人妻を娶りたがっていたという。稲佐駐在ロシア人将校たちが日本人妻を娶っている事を知るとますますその願望を強めたが、「復活祭直前のキリスト受難の週がはじまっているというのに、こんなことを考えているとは何と恥ずかしいことか」と反省して自重した[19]。
日本政府は復活祭を配慮して5月4日までニコライの予定を組まなかったが、その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索した。彼は長崎の町が非常に衛生的で市民が人懐っこいことに感心したという[19]。またニコライは長崎滞在中に右腕に竜の入れ墨を入れた[19]。5月4日に長崎県知事中野健明の歓迎式典を受けた後、有田焼や諏訪神社を見学して長崎を後にした[19]。
ついで5月6日に鹿児島へ入った。島津忠義公爵は保守的な外国人嫌いで知られていたが、この時にはニコライ皇太子を積極的に歓迎した。古風な甲冑を着けた老武士170人を集めて侍踊りを披露し、また忠義自らも犬追物を披露して見せた。皇太子に随伴していたウフトムスキー公爵はこれに不快感を覚えたが、ニコライ皇太子は喜んでいたという[20]。
5月9日、瀬戸内海を通過して神戸に寄港し、そこから汽車で京都へ向かった。5月10日に大宮御所、京都御所、二条離宮、東本願寺、西本願寺、賀茂別雷神社などを訪問した。飛鳥井家の蹴鞠や賀茂競馬も見学した[21]。京都では季節外れの五山送り火まで行われた。
ニコライは京都が気に入ったようだった。かつての日本の首都ということで京都をモスクワになぞらえていた[21]。
大津事件[編集]
5月11日、大津に入り、琵琶湖や唐崎神社を見学した。しかし同日、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた(大津事件)[22]。傷はそれほど深くはなかったものの頭蓋骨に裂傷が入った(脳には届かなかった)。以降ニコライ皇太子は傷の痛みと頭痛に苦しむようになった[23]。
ニコライはこの時のことを次のように日記に書いている。「人力車が人々が沿道にあふれている通りへ曲がった時、私は右耳の上に強い衝撃を感じた。振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。とっさに私は『何をする』と叫んで道路に飛び降りた。醜い顔は私を追いかけてきたが、誰も止めようとしないので、私はやむなくその場から逃げた。群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは混乱して四散してしまったので、それも不可能だった。走りながら振り返ると私を追ってくる巡査の後ろからゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。更に60歩走ってもう一度振り返ると、ありがたいことに全て終わっていた。ゲオルギオスが竹の杖の一撃で狂人を倒していたのである。私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが狂人を取り押さえていた。一人が狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉につきつけていた。群衆は誰一人として私を助けようとしなかった。なぜ通りの真ん中に私とゲオルギオスとあの狂人だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う。」[24][25]。
しかし津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったという。確かに最初に津田に立ち向かったのはゲオルギオス王子であり、彼はその日お土産に買った竹の杖を武器にしていた。だがゲオルギオスの竹の杖は津田をひるませただけであり、ひるんだところを人力車の車夫たちが津田に飛びかかり、この時津田がサーベルを落とし、それを拾った車夫が津田の首筋と背中を斬りつけたのだという。ニコライも後に一応これを認めたらしく、車夫二人に勲章を送っている。だがニコライは毎年5月11日に行っていた大津事件記念礼拝においては感謝の意を日本人車夫にではなく、ゲオルギオスに捧げていた[26]。
大津事件の影響[編集]
有栖川宮威仁親王から電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ行幸し、常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)でニコライ皇太子と面会した。皇太子への同情と事件への怒りを表明し、犯人はただちに処罰される旨を確約した。また回復した後、予定通り東京へ訪問することを希望した。これに対してニコライ皇太子は「自分は一狂人のために負傷したが、陛下をはじめとして日本国民が示してくれた厚意に感謝の意を持っている事は、事件以前と全く変わっていない」と返答しつつ、視察の継続については父母の指示を仰がねばならないとして確答しなかった[27]。
結局ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途につくことになった。残念がった天皇はニコライ皇太子を神戸御用邸での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。1882年に李氏朝鮮で大院君が清に船で拉致された事件を引き合いに出し、外国軍艦に搭乗する危険性を進言したが、天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができた[28]。
日本国民の世論もニコライ皇太子への同情と津田への憎しみで占められた。ニコライ皇太子の軍艦には日本中から手紙と贈り物が届いた。山形県最上郡金山村は村民に津田姓と三蔵名を禁止する条例を出している[29]。
内閣総理大臣松方正義はロシアとの関係を考慮して津田を死刑にするべきと考えた。刑法116条(「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」)の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかをめぐって政府と大審院院長児島惟謙の間で論争になった。松方は「国があっての法律である。法律を厳格に守って国が滅ぶのでは意味がない」と主張して刑法116条で裁くよう要請したが、児島は「ロシアは津田が死刑にならなかったからと攻めてくるような野蛮国ではない。ロシアもドイツも外国皇族の襲撃に対しては自国の皇族に対する物ほど重い罪を定めていない。むしろヨーロッパからは日本の法律の不備が指摘されているのであり、今こそ日本の法治主義を示す時である」と主張した[30]。結局津田は刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪となり、その最高刑である無期懲役に処された[31]。
その判決はロシア宮廷にも伝わったが、政府が心配したようなロシア軍の軍事行動は起こらなかった。ロシア公使によると、アレクサンドル3世はむしろ津田が死刑判決を受けたら減刑嘆願を天皇に送るつもりであったという[32]。
日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、結局彼はこの事件以降、日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる[3][23]。ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争を招いたと分析している[26]。
帰国[編集]
日本からウラジオストクに入港し、そこからサンクトペテルブルクへ戻る途中、シベリアを横断した。これがきっかけでニコライ皇太子はシベリアには深い関心を寄せるようになった。シベリアはロシア領だが、シベリアを訪れたロシア皇太子はニコライが初めてであった[18]。
即位と結婚[編集]
1894年11月1日、アレクサンドル3世の崩御(急死)を受け、26歳で即位してロシア皇帝となった。同じ年にドイツ帝国ヘッセン大公ルートヴィヒ4世の娘でイギリス女王ヴィクトリアの孫娘でもあるアリックスと婚配機密を受け、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナとした。ニコライは即位すると直ちにゼムストヴォ(ロシアの地方議会)の自由主義議員に対し、専制体制を温存する意思を宣言し、彼らの国政参加の願いを「非常識な夢」として退けた。
1896年ユリウス暦5月14日、モスクワのクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で皇后とともに戴冠式を行なった。戴冠式に日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。
戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった(ホディンカの惨事)。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したが、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、事件への反応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなった。
日露戦争とロシア第一革命[編集]
「ロシア第一革命」を参照
初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。
ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を、1894年には露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催を自ら提唱して1899年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。
一方、極東方面に対しては、1895年4月の三国干渉ではドイツ、フランスを誘って「清国の秩序維持」を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島を賠償金3,000万両と引き替えに清に返還させ、同年に東清鉄道の建設を命じている。ロシアは1894年に露仏同盟を結んで1882年結成の独墺伊の三国同盟に対抗しようとしたが、黄禍論者でもあったヴィルヘルム2世はロシアの目を極東に向けさせることによって対露関係を調整しようとした。三国干渉は日本国民に反露感情を植え付ける結果となり、日本はやむなく勧告を受け入れたものの「臥薪嘗胆」を合言葉としてナショナリズムの傾向が強まった。
1898年には旅順・大連を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置、さらに1900年の義和団の乱にも派兵して、事変の混乱収拾を名目に満洲を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に推し進めた。そして朝鮮半島への圧力を強めると日本と対立するようになった(ヴィルヘルム2世の戦争を危惧する親書に対し「朕(ニコライ2世)は戦争を欲しない。よって戦争は起きない」旨の返書をしている)。国内では1900年から1901年にかけて起こった経済危機により、工業製品の発注が激減し、失業者が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。そのような状況下で戦争をはじめることにヴィッテは反対し、戦争回避を主張したが、政敵であった内相ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派ベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ、ヴィッテは失脚した。陸軍大臣アレクセイ・クロパトキンや関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフも主戦論を支持して、日本に対し強硬策をとり続けたため、1904年2月に日本側の攻撃を発端に日露戦争が勃発した。ロシア陸軍総司令官となったクロパトキンは、日本陸軍を内陸部まで引き付けて補給線が伸び切ったところで一気に反撃するという戦略を持っていたために退却を繰り返したが、短期的に見れば敗戦し続けており、ニコライ2世の威信の低下につながった。また海軍も旅順艦隊が壊滅させられるなどの打撃を受けた。
血の日曜日事件[編集]
1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000 - 3,000人の死者と1,000 - 2,000人の負傷者を出した(血の日曜日事件)。敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去った。この事件を受けプレーヴェ暗殺後に内相を務めていたスヴャトポルク=ミルスキーを解任して、後任にアレクサンドル・ブルイギンを任命した。さらに2月には叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺された。
戦局も好転することなく敗北が続き、本国から派遣したバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)も日本海海戦で壊滅させられた。海戦の結果を受け6月8日に、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかけ、10日には日本政府が、12日にはロシア政府がそれを受諾。ニコライ2世はヴィッテを再登用してポーツマスへ全権として派遣し、日本との交渉に当たらせた。
交渉の最中である6月27日には、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」で水兵による反乱が起こり、翌28日には港湾でゼネストが起こり、暴動が拡大した。ポチョムキンの反乱に加わったのは水雷艇1隻と戦艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」であった。「ポチョムキン」はルーマニアへ逃げ込んだが、説得に応じて投降した反乱水兵はすべて処刑か、シベリアへの流刑を言い渡されている。
8月、ニコライ2世は譲歩に応じブルイギン宣言を発した。これは「皇帝を輔弼する」議会の創設、信教の自由、ポーランド人のポーランド語使用、農民の弁済額の減額を認めたものだったが、この程度の譲歩では秩序回復は期待できないことから、皇帝の諮問に応じるドゥーマ(議会)の創設に応じた。しかし、ドゥーマの権限があまりに小さいこと、また、選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱はさらに激化した。9月5日には日露講和条約(ポーツマス条約)が成立。戦争賠償金を払わないなどの譲歩は得たものの、日露戦争はロシア側の敗北という形で終結した。一方で国内の騒乱は収まらず、10月にはゼネストにまで発展した。ユリウス暦10月14日、ヴィッテはアレクシス・オボレンスキイとの共同執筆による十月宣言をニコライ2世に提出した。宣言は9月の地方議会ゼムストヴォの要求(基本的な民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可、国会開設、普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容であった。
ニコライ2世は3日かけて議論したが、虐殺を避けたい皇帝の意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、ついに1905年10月30日(ユリウス暦10月17日)に宣言に署名した(十月詔書)。皇帝は署名したことを悔しがり「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と語ったと言われる。宣言が発布されると、ロシアの主要都市では宣言支持の自発的なデモが起こった。ドゥーマの議長となる首相にはヴィッテが指名された。
しかしヴィッテは議会の支持を得られなかったため、変わって1906年5月に改革の敵対者であるイワン・ゴレムイキンが首相となった。ニコライ2世は直前に皇帝専制権が残存する憲法(「基本法」)を発布し、国会を開催したものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに解散、その直後の7月にゴレムイキンを更迭し首相にピョートル・ストルイピンを登用した。ストルイピンは1906年9月9日と、1910年6月14日の法律で、農奴の身分を完全に廃止して個人農を推進するなど、「ストルイピン改革」と呼ばれる近代化を進めたが、後に、その強い主導力に不快感をもった皇帝と対立した。
ニコライ2世は、翌1907年の国会も前年の国会同様「不服従」の理由で会期中に解散させ、反ユダヤ主義の宣伝とテロ活動を盛んに行なっていた極右団体「ロシア人同盟」を支援した。3度目の国会では選挙法を改正して投票資格に大幅な制限を加えたため、貴族ばかりが当選する「貴族のドゥーマ」となった。
怪僧ラスプーチンの台頭[編集]
日露戦争中の1904年8月に生まれた皇太子アレクセイは、当時不治の病とされた血友病の患者であり、皇帝夫妻は幼い皇太子の将来の身を案じていた。
1905年11月、グリゴリー・ラスプーチンという農民出身の祈祷僧が宮廷に呼ばれた。ラスプーチンが祈祷を施すと不思議なことにアレクセイ皇太子の病状が好転した。このことから、アレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調した。その後もラスプーチンはたびたび宮殿に呼び寄せられた。皇帝一家がラスプーチンを「我らの友」と呼び、絶大な信頼を寄せたことから、ラスプーチンはいつしか政治にまで口を挟むようになっていた。
ラスプーチンは、馬泥棒の経歴が暴かれ、女信者とのみだらな素行を教会に告発され、新聞でも報じられたにも関わらず、皇后からの信頼は崩れず、教会の要職に自分の庇護者を任命させるなど、陰で絶大な権力をふるった。1912年のドゥーマでは皇后がラスプーチンを「皇帝一家の友」としたことが問題にされている。皇帝の周囲にはラスプーチンを排除する声もあったが、優柔不断といわれた皇帝は皇后の意向や皇太子の病気を考慮してこれを拒否した。
ストルイピンは、ラスプーチンを皇帝一家から遠ざけるよう尽力した数少ない人物であったが、1911年、皇帝の目の前でアナーキストのドミトリー・ポグロフによって銃撃されて死去し、「ストルイピン改革」も頓挫した。
大戦と革命[編集]
「ロシア革命」を参照
1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けた。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端を開いた。開戦によりドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクもペトログラードと改められた。
しかし1915年春に、近代兵器を擁するドイツに大敗を喫して戦況が悪化し「大退却」を余儀なくされると、同年9月5日、皇帝はラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにも関わらず、従叔父にあたる最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。しかし、これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので必ずしも好評ではなかった。ただし、1916年6月の浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢では辛くも勝利をつかんでいる。
皇帝不在の都ペトログラードでは、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、気に入らない人物を次々に罷免するなど失政が目立った。人気のなかった2人に対して、貴族から民衆までが「ドイツ女」、「怪物」と蔑んで憎悪の対象とした。皇后とラスプーチンの[[1]]さえ噂され、皇帝の権威はさらに失墜した。
ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺されたが、皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。
1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。軍隊の一部も反乱に合流し、ロシアは混乱に陥った。ロシアが近代的な総力戦を継続することは既に限界に達していたのである。
帝国の崩壊[編集]
こうした状況下、二月革命が起こり、3月8日にはペトログラードで暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都にむけて軍をさしむけた。しかし、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に退位を要求した。1917年3月15日(ユリウス暦3月2日)、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられた。この時ニコライ2世は、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は市民になった。ユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁された。元皇帝一家をイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。
最期[編集]
詳細は「:en:Shooting of the Romanov family」を参照
ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館(資産家イパチェフの家)に監禁された。イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコライ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。しかし、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レーニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人ヤコフ・ユロフスキー率いる、ユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が、元皇帝一家7人、ニコライ2世の専属医、アレクサンドラ皇后の女中、一家の料理人、従僕をイパチェフ館の地下で銃殺した。これにより、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の血筋は途絶えた。
スターリン時代は皇帝処刑は革命に貢献する行為とされていたため、ソ連政府は一時期、革命教育の一環として処刑に参加した兵士を全国の学校や職場で講演させ、自分の体験を英雄的行為と考える彼らが当日の情況を多くの人に詳細に語った。そのため、皇帝一家が地下室に集められて処刑隊の指揮官が死刑執行を告げたとき、皇帝が当惑したように「何と言ったのだ?」と訊き返したことや、壁際に固まった10代の子供たちを含む一家に拳銃の乱射が浴びせられたこと、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだことなど、この処刑の状況はきわめて具体的に判明している。
ユロフスキーが残した資料によると、殺害した遺体はその後、一度廃坑に埋められた後掘り起こされ、別の廃坑付近で2体の遺体を焼却した後に残り9体が硫酸をかけた上で森に埋められた。その後、ソヴィエトは「ニコライ2世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表した。これは、ドイツ出身のアレクサンドラ元皇后らの殺害の事実を伏せることにより諸外国とのトラブルを回避する為であった。殺害の決定においては、レフ・トロツキーが「ニコライを裁判にかけて罪状を裁くべき」と主張したが、レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と強硬に殺害を主張してこれを認めさせた。殺害後、レーニンはユロフスキーらに面会してその労をねぎらった。赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、レーニンらによるニコライ一家の処刑を、ボリシェヴィキが「法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。事実、一家が処刑された年にはミハイルら元皇族や元貴族が多数殺害されている。
ソビエト連邦崩壊後の1994年、発見された遺体が本人たちのものであることが確認され、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖された。またロシア連邦捜査委員会は2011年1月、レーニンが処刑を下命した証拠は存在しないとの調査結果をまとめた。
人物[編集]
- 若い頃はピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で、皇太子時代に訪れた長崎では、鼈甲細工の屋形船、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水蒔絵長角箱、七宝焼の花瓶、竹杖、吸物椀、香炉台、竹製茶籠、美人画団扇、柳行李、鉄瓶、有田焼、長崎の全景写真など手当たり次第に日本の工芸品その他の文物を買いあさり、長崎停泊中の軍艦に市内の彫り師を招いて右腕に入れ墨をするなど、たいへん日本好きであったという。
- 小説『坂の上の雲』におけるニコライ2世の人物描写の影響か、大津事件後は日本との関係が悪化したという説や、王朝の公文書に日本人を「マカーキー(猿)」と記載したと指摘する書籍がある。しかしそういうことは無かったとの研究もある。また日記の文面からもニコライ2世がこの事件で日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと言うことが窺える(保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』講談社学術文庫を参照)。ニコライ2世は大津事件の後に見舞いに来た日本人らに対し紳士的に振舞い、日本側接客伴員を安心させようとつとめた。但し日本人医師の診察は拒絶している。大津事件を原因とした戦争が起こらなかったのは、ニコライ2世の対応が大きかったという説もある。
- 首都ペトログラード(サンクトペテルブルク)を好まず、生地のツァールスコエ・セロー(現在のサンクトペテルブルク市プーシキン区)を愛し、そこに居住することが多かった。
- ひ弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に対する嫉妬からこれを遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプであったため、統治者には向かなかったとする批評もある。実際は写真撮影が趣味の家庭人で誠実な人物であったという。外交においても、同盟国に対しては忠実であった。
- 革命が起きた直後、従兄のジョージ5世治下のイギリスへ亡命しようとした。しかし社会主義に対し好意的な労働者や知識階級の暴動が起きることを恐れたイギリス政府はこの要請を黙殺。一方、同じく従兄であるヴィルヘルム2世は逆にドイツへの亡命をニコライ2世に勧めたものの、交戦国への亡命を躊躇したために、結果的に死に至ることとなってしまった。
- 内気で優柔不断だったという。
- 従兄ジョージ5世とは、入れ替わっても親族さえ気付かないほど容貌がよく似ていた。ロシア革命後イギリスに亡命した皇帝の家臣がジョージ5世に拝謁した時、ニコライ2世が生きていたと思って跪いたという。また、自身の皇后アレクサンドラもジョージ5世の従妹にあたる。
死後[編集]
元皇帝一家の最後の状況については、5番目の皇女がいる、皇帝一家は死んでいない、など長年さまざまな噂が流れていた。末娘アナスタシア皇女を名乗る女性(アンナ・アンダーソンなど)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、モスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年7月に解体された(エリツィンはロシア連邦大統領になった後にこの件について釈明し、謝罪している)。その後、1979年になって民間人の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェヴィキの両親を持つゲリー・リャボフ調査員が元皇帝一家の遺骨を発見したが、モスクワで専門家に「この事に首を突っ込むな、全部忘れてしまえ」と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後いったん埋め戻された。ソ連時代はニコライ2世を殺害した事実はタブーであった。エリツィンによって取り壊されたイパチェフ館の跡地には2003年になって教会が立てられ、「血の上の教会」と命名された。
1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨のDNA鑑定を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた「大津事件血染めのハンカチ」も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。元ロシア皇族の末裔らも、鑑定用に検査に応じた。グリュックスブルク家とヘッセン家の血を引くエディンバラ公もその一人である。
結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、過去の清算とイパチェフ館の罪滅ぼしをしたいエリツィンの意向が働いていた。ニコライ2世を単なる致命者ではなくイイスス・ハリストスと同格の救世主であるとするいわゆるツァレボージニキ(ロシア語: царебожники)の運動が1930年代以降断続的にロシア正教会の内部で起こっているが、2008年にはその主導者であるチュコト主教ディオミドらがロシア正教会から追放され彼らの運動はモスクワ総主教庁と断絶した[33]。2007年7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌2008年7月16日にアメリカの機関による大津事件の際の血痕付着のシャツのDNA鑑定の結果、長男アレクセイと3女マリアのものであるということが確認され、元皇帝一家全員分の遺骨が確認された。
2008年10月1日、ロシア最高裁判所にて「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は「90年前の犯罪が指弾されることは重要」として、この裁定を歓迎した。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ ウォーンズ(2001) p.215/246/231
- ^ ダンコース(2001) p.62
- ^ a b c ウォーンズ(2001) p.256
- ^ ウォーンズ(2001) p.215
- ^ マッシー(1996) p.13
- ^ リーベン(1993) p.64
- ^ リーベン(1993) p.61
- ^ リーベン(1993) p.61-62
- ^ a b リーベン(1993) p.67
- ^ ダンコース(2001) p.65
- ^ リーベン(1993) p.65
- ^ ダンコース(2001) p.63
- ^ リーベン(1993) p.68-69
- ^ リーベン(1993) p.70-71
- ^ ダンコース(2001) p.73
- ^ ダンコース(2001) p.73-74
- ^ a b c キーン(2001)下巻 p.125
- ^ a b リーベン(1993) p.71
- ^ a b c d キーン(2001)下巻 p.126
- ^ キーン(2001)下巻 p.127
- ^ a b キーン(2001)下巻 p.128
- ^ キーン(2001)下巻 p.128-129
- ^ a b ダンコース(2001) p.75
- ^ キーン(2001)下巻 p.129
- ^ ラジンスキー(1993) 上巻 p.53-54
- ^ a b キーン(2001)下巻 p.130
- ^ キーン(2001)下巻 p.132
- ^ キーン(2001)下巻 p.134
- ^ キーン(2001)下巻 p.135
- ^ キーン(2001)下巻 p.137-138
- ^ キーン(2001)下巻 p.137/139
- ^ キーン(2001)下巻 p.139
- ^ Андрей Григорьев. Ультраправославные апологеты уподобили Николая II Христу
参考文献[編集]
- フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編『図説 ラルース 世界史人物百科III〔1789-1914〕』原書房、2005年、ISBN 4-562-03730-X
- ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(上・下 白須英子訳、日本放送出版協会、1995年 特に上巻を参照)ISBN 4140802383/ISBN 4140802391
- デヴィッド・ウォーンズ 『ロシア皇帝歴代誌』 月森左知訳、創元社、2001年(平成13年)。ISBN 978-4422215167。
- ドナルド・キーン 『明治天皇 下巻』 角地幸男訳、新潮社、2001年(平成13年)。ISBN 978-4103317050。
- 『ロシア史〈2〉18~19世紀』 田中陽児、倉持俊一、和田春樹編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1994年(平成6年)。ISBN 978-4634460706。
- エレーヌ・カレール=ダンコース 『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』 谷口侑訳、藤原書店、2001年(平成13年)。ISBN 978-4894342330。
- ロバート・K・マッシー 『ニコライ二世とアレクサンドラ皇后 ロシア最後の皇帝一家の悲劇』 佐藤俊二訳、時事通信社、1996年(平成8年)。ISBN 978-4788796430。
- エドワード・ラジンスキー 『皇帝ニコライ処刑 ロシア革命の真相〈上〉』 工藤精一郎訳、日本放送出版協会、1993年(平成5年)。ISBN 978-4140801062。
- ドミニク・リーベン 『ニコライ2世 帝政ロシア崩壊の真実』 小泉摩耶訳、日経、1993年(平成5年)。ISBN 978-4532161118。
関連文献[編集]
- エレーヌ・カレール=ダンコース 『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』 (谷口侑訳、藤原書店、2001年)
- ロバート・マッシー 『ニコライ二世とアレクサンドラ皇后 ロシア最後の皇帝一家の悲劇』(佐藤俊二訳、時事通信社、1997年)
- ドミニク・リーベン 『ニコライ2世 帝政ロシア崩壊の真実』 (小泉摩耶訳、日本経済新聞出版社 1993年)
- 植田樹 『最後のロシア皇帝』 (ちくま新書、1998年)
- 保田孝一 『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』(増補版:朝日選書、1990年、講談社学術文庫 2009年10月)
- 保田孝一 『ニコライ二世と改革の挫折 革命前夜ロシアの社会史』 (木鐸社、1985年)
- アンソニー・ サマーズ/トム・マンゴールド 『ロマノフ家の最期』(高橋正訳、中公文庫、1987年) ※著者はBBCのジャーナリスト
- パーヴェル・パガヌッツィ 『ロシア皇帝一家暗殺の真相』(進藤義彦訳、展転社、1988年)
- マーリヤ大公女 『最後のロシア大公女 革命下のロマノフ王家』 (平岡緑訳、中公文庫、2002年改版)
関連作品[編集]
映画[編集]
- 『ニコライとアレクサンドラ』(1971年)監督:フランクリン・J・シャフナー
- 『ロマノフ王朝の最期』(1981年)監督:エレム・クリモフ(en)
小説[編集]
関連項目[編集]
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