ピョートル・ヴラーンゲリ

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1920年頃のピョートル・ニコラーエヴィチ・ヴラーンゲリの肖像

ピョートル・ニコラーエヴィチ・ヴラーンゲリロシア語:Пётр Николаевич Врангельピョートル・ニカラーイェヴィチュ・ヴラーンギェリ1878年8月15日(8月27日) - 1928年4月25日)は、ロシア帝国男爵で、ロシア内戦における白軍の司令官の一人。白軍勢力最後の総司令官として知られる。ロシア南部、ウクライナクリミア半島(クルィーム)方面で反革命運動を行った。

概要[編集]

生まれ[編集]

ロシア帝国領リトアニアコーヴェンスク県ノヴォアレクサーンドロフスク(現在のザラサイの近郊)で生まれた。バルト・ドイツ人の家系を持つヴラーンゲリ家の出身で、生まれながらにしてロシア帝国の貴族であった。

帝政時代[編集]

1891年、近衛隊(レーイブ=グヴァールヂヤ)の騎兵連隊に兵卒として勤務。1896年ロストフ実科中学校を、1901年サンクトペテルブルク鉱山大学を卒業した。その年から、近衛隊騎兵連隊に勤務し、翌1902年には、近衛騎兵少尉に任官した。また、日露戦争に志願し、ザバイカル・コサック軍の第2ヴェルフニェウジンスク連隊で戦い、四等聖アンナ勲章を授与された。1906年には、第55フィンランド竜騎兵連隊に配属され、アレクサンドル・オルロフ将軍のバルト地方への遠征に参加した。1910年には参謀本部アカデミーを卒業した。

世界大戦と革命[編集]

第一次世界大戦へは騎兵隊の指揮官として参加することとなった。1915年10月、ザバイカル・コサック軍の第1ネルチンスク連隊長に任命。1916年12月には、ウスリー騎兵師団第2旅団長として、ウスリー川に拠点を置くウスリー・コサックの軍勢を率い戦闘に参加した。1917年1月、少将に昇進し、ウスリー騎兵師団長代行を務めた。

1917年7月9日、第7騎兵師団長となったが、翌日には混成騎兵軍団長に任命された。同年9月、第3騎兵軍団長に任命されたが、就任しなかった。

義勇軍[編集]

白軍の宣伝ポスター、1919年6月17日カフカース軍司令官ピョートル・ニコラーエヴィチ・ヴラーンゲリ中将男爵」(Командующий Кавказской Армiей Генералъ-Лейтенантъ баронъ Петръ Николаевичъ Врангель)

1917年11月に発生した十月革命の際、ヴラーンゲリはクリミアのヤルタにあった。彼は退役していたが、国家の危機を救うため再び軍務へ復帰することを決意した。

1918年8月にはクバーニに移り、アントーン・デニーキン将軍の率いる反革命の義勇軍に参加し、赤軍との戦闘に身を投じた。

当初は騎兵隊の指揮官として参加したが、1919年1月からはカフカース軍の司令官となった。この間、テーレク、ロストフなどロシア南部を転戦し、ツァリーツィンにおける大規模戦闘にも参加した。

南ロシア軍[編集]

1919年1月8日には、白軍の劣勢を挽回するために白衛義勇軍と白色ドン・コサック軍との統一抗戦組織となる南ロシア軍が創設され、義勇軍もその構成単位となった。黒海艦隊をはじめ、多くの白軍組織がこの統一戦線に加わった。

しかし、不利は挽回されず次第に南ロシア軍の劣勢は決定的となった。ウクライナでのペトリューラ軍ネストル・マフノウクライナ革命蜂起軍との戦闘で疲弊し、その上セミョーン・ブジョーンヌイらに指揮された赤軍はますますその勢いを増していた。11月12日には主兵力であったドン軍が赤軍に下り、南ロシア軍の劣勢はいよいよ決定的となった。

1919年12月から1920年1月までの間は義勇軍の総司令官であった。1月に最高司令官アレクサーンドル・コルチャークが非業の死を遂げると、全ロシアの実権はデニーキン将軍のもとへ移った。しかし、デニーキンは白軍不利の状況を前にこの実権移譲を公式には引き受けなかった。

新たな国家の建設[編集]

1920年頃、ピョートル・ヴラーンゲリ、新たに整備された航空隊の操縦士とともに

ヴラーンゲリは、軍の指導方針を巡ってデニーキンと対立を起こした。ヴラーンゲリは司令官の地位を辞し、軍の一部を率いてデニーキンの義勇軍を離れた。

1920年3月26日から27日にかけて、デニーキンはノヴォロシーイスクからクリミアへ残存兵力を退却させた。4月2日には、デニーキン将軍は亡命を決意し全権をヴラーンゲリに委譲した。4月4日にはセヴァストーポリにて南ロシア軍総司令官に選出された。一方、デニーキンは南ロシア軍の勢力の大半を率いて国外へ亡命した。

5月11日、ヴラーンゲリは軍をロシア軍という名称に改めた。ヴラーンゲリはこの地で新たな独立共和国の建設を試みた。

それまで、白軍は勢力圏となった南部ロシアやウクライナの人口の大半を占めていた農民の支持を得ることに失敗していた。帝政時代に農奴として虐げられてきた農民らは、白軍の勝利によって再び以前の態勢が戻ることを恐れていたのである。実際、白軍司令官のほとんどは帝政派であり、ロシア帝国の復活を目論んでいた。これに対し、ヴラーンゲリは、モデルとした国家のように土地を農民へ分配する土地改革など従来の帝政派と異なる方針を打ち出した。これにより、農民らの支持を得て勢力の回復がされることを期待した。農民の望む土地の個人所有はソビエトが全面否定しており、またソビエトは農民を敵視していたこともあり、ヴラーンゲリのロシアにとって農民への懐柔は有益であると考えられた。

また、フランスからはデ・ファクトの承認を取り付け、軍の建て直しと政府機構の拡充を図り国家地域の経済的な発展にも取り組み、ボリシェヴィキを打倒しようと試みた。軍備には、イギリス製やフランス製の第一級のものが導入された。加えて、南ロシア軍時代よりセヴァストポリ港にあった艦艇の多くを白軍に接収していた。これらの艦艇は、十月革命後ウクライナ国艦隊のちに赤軍艦隊となっていた旧ロシア帝国海軍黒海艦隊の所属艦で、戦艦以下若干の新鋭艦と多くの旧式艦を含んでいた。

敗北と亡命[編集]

1920年頃、妻アーンナとともに

しかし、ポーランド・ソビエト戦争ウクライナ・ソビエト戦争の終結により赤軍の全勢力がクリミアへ向けられると、ロシア軍は瞬く間に存亡の危機に立たされることとなった。

ヴラーンゲリは、ポーランド・ソビエト戦争でのソヴィエト勢力の敗戦を頼みに起死回生をかけ、北方へ向けて突撃を行った。

しかしながら、赤軍の勢いは衰えておらず、ロシア軍は北ターヴリヤ(クリミア半島北部)での赤軍との戦闘、ペレコープ=チョーンガル作戦で兵力の半数を失うこととなった。ヴラーンゲリは、残存勢力をロシア国外に逃して態勢を立て直す決意をした。ヴラーンゲリは、全指揮官、兵士、そして彼らに従ってきた市民に対し選択の自由を与えた。すなわち、彼らは行き先の見えないヴラーンゲリの亡命に付き従うか、ソヴィエト勢力による占領を受け入れ現在の土地に残るかの選択を迫られたのである。

11月14日、ヴラーンゲリは残存兵力を艦隊に乗せて出航した。残る艦艇や航空機車輌などは破壊された。だが、船団の一部は出航直前に赤軍によって拿捕された。クリミアで捕らえられた人々の多くは、その後しばらくの間に赤軍によって処刑された。

ヴラーンゲリら離脱に成功した一団は、トルコイスタンブルチュニジアビゼルトなどを経由して、ユーゴスラビアへ亡命した。途中、12月29日に艦隊はビゼルトでフランス政府により接収された。全艦とも、その後ロシアへ返還されることなく解体された。

亡命生活と死[編集]

その後も反ソ連活動を続け、1924年にはロシア全軍連合を設立、亡命中の白軍関係者の大半を組織した。この組織のもと、彼らはソ連に対するパルチザン活動を継続した。

1928年、ベルギーブリュッセルにおいて不意の病により急死した。彼の死の少し前に姿を消した彼の執事の兄弟に嫌疑がかけられている。家族を含め、彼が毒殺されたと信じる者は少なくない。執事の兄弟はソ連のスパイであったと信じられている。葬儀はセルビアで執り行われ、正教徒であったピョートル・ヴラーンゲリの遺体はベオグラード正教教会墓地に埋られた。

死去の年、ヴラーンゲリの回想録となる「手記」(«Записки»ザピースキ)がベルリンの『白軍』(«Белое дело»ビェーライェ・ヂェーラ)誌上で発表された。

評価[編集]

後年、彼の業績を称える記念碑在外ロシア正教会によってセルビアのスレムスキ・カルロヴツィen)に建立された。

白軍勢力にとって、ヴラーンゲリは最後のカリスマ的指導者であった。しかし、彼のカリスマ性はミハイール・アレクセーエフラーヴル・コルニーロフアントーン・デニーキンら彼の前任者たちには及ばなかった感がある。ヴラーンゲリは白軍最後の司令官であり、敗軍の将となったため近年復権の動きも強いデニーキンらと比べ低い評価がなされていると言わざるを得ない。しかし、それは決して彼の業績が劣っていたわけではなく、彼の実権を握った時期が遅かったというだけのことである。ヴラーンゲリの支持者からすれば、彼に反目したデニーキンらの動きがなければ白軍の活動はより効果的に継続できたはずであり、クルィーム地方の発展に寄与したヴラーンゲリの業績は過小評価すべきではない。また、亡命後の組織活動においてもヴラーンゲリは縦横にその能力を発揮し、そのためソ連政府からも危険人物として見られていたのである。

従ってソ連時代には他の白軍司令官らとともにヴラーンゲリに対しては極めて否定的な、低い評価しか与えられてこなかった。ソ連崩壊後、歴史の見直しの行われる中で彼の復権も行われているが、未だ評価は低いままである。

関連項目[編集]