ニコライ・ゴーゴリ
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| ニコライ・ゴーゴリ Николай Гоголь・Микола Гоголь |
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ニコライ・ゴーゴリの肖像(F.A.モレル筆・1841年)
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| 誕生 | 1809年3月31日 ソロチンツィ、ウクライナ |
| 死没 | 1852年3月4日(満42歳没) モスクワ、ロシア |
| 職業 | 小説家、劇作家 |
| 国籍 | |
| 代表作 | ミルゴロド・死せる魂 |
ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь[1] / ロシア語: Николай Васильевич Гоголь; 1809年3月31日 - 1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。
目次 |
[編集] 生涯
ウクライナのソロチンツィの小地主の家に生まれる。ソ連時代のゴーゴリ研究によると、先祖はヤノーウシクィイ(ロシア語:ヤノフスキー)姓で、ウクライナの聖職者であったが、祖父の代(18世紀後半)に至り、婚姻によって領地を得、地主となった。1783年、エカチェリーナ2世がウクライナに農奴制を導入するに伴い、貴族の称号を持たない者には地主としての土地と農奴の所有が許されなくなったため、フメリヌィーツィクィイの乱に参加したウクライナ・コサックの連隊長であるオスタープ・ホーホリ(ロシア語:オスタープ・ゴーゴリ)なる人物を、自家の系図の筆頭に据え、姓もホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)と改めた[2]。父親のヴァスィーリ・ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ワシーリー・ゴーゴリ=ヤノフスキー)は、アマチュア劇作家で、ウクライナ語による劇作品を2篇遺している。
1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。1821年、ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。卒業後、1828年にサンクトペテルブルクに移り、長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』をV・アロフなる筆名で自費出版するが、酷評され、失望のあまり国外へ逃亡。同年、ペテルブルクに舞い戻り、俳優を志すが失敗し、かろうじて下級官吏の職を得る。この時期の、薄給に喘ぐ貧寒な生活の経験は、都市の下層民や小役人や俗物たちを描くのちの「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に活かされることになる。1830年、『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を匿名で発表、不遇のうちにも詩人ジュコーフスキーや、ペテルブルク大学総長で詩人・批評家のピョートル・プレトニョフの知遇を得る。1831年には愛国女学院に職を得て生活も安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介でアレクサンドル・プーシキンと会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。同年9月、当時流行のウクライナのフォークロアに取材した『ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部1832年)を出版し、一躍人気作家となる。1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教える。その後、ウクライナ物を集めた『ミルゴロド』や、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、повесть)で文名はいよいよ高まる。1836年の戯曲『検察官』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉的な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。
ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツとイタリアで過ごした。その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったことが分かっている[3]。しかし、恋人の突然の死を経験。その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことである。『死せる魂』第一部は1842年に刊行された。ゴーゴリにとって、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第二部・第三部において主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる筈であった。しかし、執筆は遅々として進まず、1845年、苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じる。1847年、『友人との往復書簡選』を出版。その頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とにより、ベリンスキーをはじめそれまでゴーゴリを高く評価してきた多くの支持者を失う。1848年、次第に信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレムへ巡礼に旅立つ。エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部をふたたび焼いてしまう。彼がモスクワで歿したのはその10日後、1852年3月4日のことだった。『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されている。
[編集] 解釈・評価
ゴーゴリの初期作品のモデルとなったのは主にエルンスト・ホフマンをはじめとするドイツ・ロマン派で[4]、それにしばしば独自の空想が加味された。ゴーゴリが生きたのは政治的な検閲が厳しかった時代であり、空想的要素は検閲に対する目くらましとも言われた。また、ゴーゴリの一連の作品ははなはだ滑稽であり、そのユーモアや現実主義、空想、独特の文体が人々に愛された。
ゴーゴリの作品への評価には、ロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克が映し出されている。帝政への不満を持つ同時代の改革者たちは、社会を皮肉な目で見つめるゴーゴリの作品(『鼻』・『外套』などのいわゆる「ペテルブルク物」や戯曲『検察官』)を正当なものと受け容れた。その時代の自由主義者としてではないにしろ、ゴーゴリの作品は「社会批判」「社会改革」を志向する諷刺文学である、というのがベリンスキーの流れを汲む一般的なゴーゴリ観であった。
畢生の大作となるべき『死せる魂』をゴーゴリに書かせた根底に、ロシアを再生させたいという理想主義があったことは確かである。もっとも、それが道徳的な意味であるのか、政治的な意味であるのかは、一見はっきりしない。『死せる魂』の第一部は主人公の過ちを、第二部はその矯正を描く。
しかし、第二部の執筆は遅滞し、それと裏腹にロシア民衆の教化とロシア再生への祈願は年を追うごとに大きくなって、晩年には『友人との往復書簡選』により、宗教への狂信と体制への賛美を表明するに至った。彼を支持してきた自由主義者たちばかりか、保守反動と見なされていたスラヴ派の人々からも痛烈な批判を浴びたこの最後の著作は、ゴーゴリの晩年に至るまでの思想的推移を、小説の解釈にどのように結びつけるかという点で、作品解釈上の分裂を生じさせる原因ともなった。
つまり、『死せる魂』第一部までの前半生の作品群に笑いと諷刺による体制批判を読み取り、後半生の神秘思想を迷妄の産物として切り捨てる西欧派の解釈と、晩年の復古的ユートピア思想の価値を積極的に認め、そこから全作品に通底するゴーゴリの汎スラヴ思想を読み取ろうとするスラヴ派的読解とが生じた。前者は、ベリンスキーの批評と相まって、ゴーゴリを自然派の代表者、ロシア・リアリズム文学の祖と見なすソ連公式理論へと繋がる。後者の代表としては、ウラジーミル・ソロヴィヨフ、ニコライ・ベルジャーエフなどが挙げられる。ゴーゴリとレフ・トルストイの、それぞれの晩年に於ける思想の相似性についてもしばしば指摘される[5]。
ドストエフスキーをはじめその後のロシア文学にゴーゴリが与えた影響はきわめて大きい。ゴーゴリは長らくロシア・リアリズム文学の祖とされたが、その作品の幻想性、細部の誇張、グロテスクの手法などが20世紀文学に与えた影響も無視できない。ドミトリー・メレジコフスキー、エヴゲーニイ・ザミャーチン、ミハイル・ブルガーコフ、アブラム・テルツなどはその伝統を強く意識していた。1920年代に、ホフマンの作品の登場人物の名を借りてつくられた文学サークル『セラピオン兄弟』は有名である。
また、日本文学にも強い影響を与えた。芥川龍之介の作品『芋粥』は導入部分が、ゴーゴリの『外套』に酷似している。ほかに、宇野浩二の饒舌体、後藤明生の『笑い地獄』『挟み撃ち』など、ゴーゴリの小説作法に学んだ作品が数多く存在する。
[編集] 「所有権」争い
ゴーゴリ生誕200年を迎えた2009年にロシアとウクライナとの間でゴーゴリの「所有権」を巡る争いが起きた。ゴーゴリが文学活動をしたロシアでは首都モスクワに初めての「ゴーゴリ博物館」がオープンし、ウクライナ・コサックについてゴーゴリの小説『タラス・ブーリバ』が映画化され公開された。この映画はロシア民族主義を前面に押し出しているとの批判がなされている[6]。一方、ゴーゴリの出身地で、作品の題材に取り上げられているウクライナでは同国のヴィクトル・ユシチェンコ大統領が2009年4月1日の「ゴーゴリ生誕200周年記念式典」で「ゴーゴリは疑いなくウクライナのものだ。彼はロシア語で書いたがウクライナ語で思索していた」と主張。ウクライナではゴーゴリのすべての作品のウクライナ語訳も進められている。一方、ロシアの文学者たちは「ウクライナ語訳はオリジナルをそこねる」と反発した[7]。晩年のゴーゴリ自身はウクライナ語文学に批判的であり、ウクライナ語で詩作していた同郷の詩人タラス・シェフチェンコに対し、「われわれはロシア語で書くべきなのだ。われわれ全スラブ人にとって主権を有するロシア語を擁護し、強固なものにしてゆかねばならない。プーシキンの言葉こそが唯一主要な聖物なのだ。」と苦言を呈したと伝えられる[8]。
[編集] 作品(一部)
- 『ディカーニカ近郷夜話』(1831年-1832年、物語集)
- 『ミルゴロド』(1835年、中編小説集。収録作品は以下4編)
- 『昔気質の地主たち』
- 『タラス・ブーリバ』(1842年大幅に改作さる。邦題名『隊長ブーリバ』とも)
- 『ヴィイ』
- 『イワン・イワーノヴィチとイワン・ニキーフォロヴィチが喧嘩をした話』
- 『アラベスキ』(1835年。下記の中編小説3編のほか、エッセイ、美術批評、小説断片を含む文集)
- 『幌馬車』(1836年)
- 『鼻』(1836年)
- 『検察官』(戯曲、1836年)
- 『ローマ』(1842年)
- 『結婚』(戯曲、1842年)
- 『死せる魂』(第1部、1842年)
- 『外套』(1842年)
- 『死せる魂』(第2部、未完。1855年、甥により刊行さる)
[編集] 注釈
- ^ ウクライナ語名ではムィコーラ・ヴァスィーリョヴィチ・ホーホリ。
- ^ 青山太郎著『ニコライ・ゴーゴリ』(河出書房新社、1986年9月)21-22ページ。
- ^ シモン・カーリンスキーの研究による。
Simon Karlinsky "The Sexual Labyrinth of Nikolai Gogol" Cambridge, 1976. - ^ E・T・A・ホフマン、ルートヴィヒ・ティーク、ウォルター・スコット、ジョージ・ゴードン・バイロンらロマン主義文学からの影響については古くから指摘されている。ゴーゴリとロマンチシズムとの関係については、諌早勇一「ゴーゴリの「ロマン主義」解釈」(Rusistika/東京大学文学部露文研究室年報2、1982年、40-48ページ)が詳しい。
- ^ Boris de Schlœzer "Gogol", Paris, 1946. など。
- ^ もっとも、岩波文庫『新版 ロシア文学案内』(2000年4月)に「愛国心を称えられたこともある作品ですが、
排外主義 やユダヤ人蔑視が強く、あまり後味はよくありません。」(166ページ)とあるように、ゴーゴリの原作自体にこのような批判を受ける原因があると言わなければならない。この小説の「過度の愛国主義」「民族的・宗教的不寛容」および残虐性と結びついた「十字軍的蒙昧さ」等については、青山太郎 前掲書(166-180ページ)に要を得た批評がある。
【映画批評】
Фільм «Тарас Бульба»: мистецтво на службі…
Гоголь и придворный кинематограф
Цензурированный Бульба и режиссер Бортко в роли Андрея
【参考映像】
2009年の映画『タラス・ブーリバ』 - ^ ゴーゴリは誰のもの(産経新聞 4月9日)
- ^ 青山太郎 前掲書、577ページ。
Сочинения Г. П. Данилевского. — 8-е изд. — СПб., 1901. — Т. 14. — С. 92-100.
[編集] 外部リンク
- ゴーゴリ ニコライ:作家別作品リスト(青空文庫)
- 鳥のゴーゴリ。ドキュメンタリー (ロシア語)
- ゴーゴリの家系 (ウクライナ語)

