イオナ・ヤキール

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イオナ・ヤキール

イオナ・エマヌイロヴィチ・ヤキールИона Эммануилович Якир1896年8月15日 - 1937年6月11日)は、ソ連の軍人、政治家。一等軍司令官。赤旗勲章3個を受賞。赤軍大粛清の犠牲者。

経歴[編集]

ロシア帝国ベッサラビアの中心都市キシニョフ(現在のモルドバ共和国首都キシナウ)でユダヤ人薬剤師の家庭に生まれる。バーゼル大学、後にハリコフ技術大学で学ぶ。1915年からオデッサの軍需工場で旋盤工として働く。

1917年二月革命後、キシニョフで反戦プロパガンダを行った。同年12月、ベッサラビア会議議員、県党委員会委員、革命委員会委員。1918年1月、赤衛隊を指揮し、ルーマニア軍と戦う。春から夏にかけて、中国義勇大隊を指揮して、ドイツオーストリア占領軍と戦う。同年9月から南部地帯政治局長、10月から第8軍革命軍事会議議員となり、リスキ地区の軍集団を指揮した。1919年7月から第45狙撃師団長、第12軍南方軍集団を指揮し、ビルズラ-ゴルタ地区からジトミール-キエフ方面に部隊を撤収させた。1919年11月~1920年2月、第45狙撃師団長。1920年3月~9月、南西戦線のファストフ、ズロチェフ、リヴォフ軍集団を指揮。

1921年1924年、クリミア・キエフ軍事地区司令官、キエフ軍管区司令官。1924年~1925年、労農赤軍軍事教育施設総局長。1925年11月~1937年5月、ウクライナ軍管区(後にキエフ軍管区)司令官。1927年1928年、ドイツ参謀本部高等軍事アカデミーで学ぶ。1930年1934年、ソ連革命軍事会議議員、1936年からソ連国防人民委員部軍事会議議員。

党においては第10回~第12回ロシア共産党(ボリシェヴィキ党)大会代表、第14回~第17回全連邦共産党(ボリシェヴィキ党)大会代表、1930年から中央委員会委員候補、1934年から委員。ソ連中央執行委員会委員などを歴任。

1937年の赤軍大粛清に遭い処刑。ヤキールは処刑される直前、スターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下カガノーヴィチも「豚には死あるのみ」などと書き、他の部下たちも彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。[1]

脚注[編集]