ヴァシリー・ウルリヒ
ヴァシリー・ヴァシリエヴィチ・ウルリヒ(Васи́лий Васи́льевич У́льрих、1889年7月13日 - 1951年5月7日)は、ソビエト連邦の裁判官。ヨシフ・スターリンやNKVDがでっち上げた事件で起訴された無数の冤罪被告人に対して有罪判決を下し、スターリン独裁体制を支えた人物。姓はロシア語表記に従ってウリリヒ、ウリリフと表記される場合もある。
ロシア帝国支配下のラトビア・リガで、ドイツ系の父親とロシア貴族出身の母親との間に生まれた。父が革命家であったため、ロシア当局により一家ごとシベリア・イルクーツクへ5年の流刑に処された。1910年にリガへ戻り、リガ工芸協会で工芸を学んだ。1914年にここを卒業したのち、第一次世界大戦で最前線に送られた。
ロシア革命後にはレフ・トロツキーによりチェーカーに入れられた。さらにその後、軍事委員会の一員となる。ここでスターリンの目にとまり、1926年にはソ連最高裁の長官に任命された。スターリンの言われるままに無法判決を下し、特に大粛清期には猛威をふるった。世界に向けて公開された三回のモスクワ裁判も彼が裁判長であった。1937年6月のミハイル・トハチェフスキーら赤軍高官への死刑判決も彼が下した。死刑執行にあたっては自ら立ち会うことがあり、さらにウルリヒ自身の手で死刑囚を殺して満足を得ることもあったという。
対独戦争(大祖国戦争)勃発後も無法判決を行い、サボタージュ・敗北主義者などとレッテルを張られた人々を大量に死刑にした。ポーランドの国内軍に対する迫害として悪名高き「16人裁判」でも彼が裁判官を務めている。戦後もスターリンへの追従と無法判決ぶりは変わらず、アンドレイ・ジダーノフによる文化人抑圧政策を支持してスターリンやジダーノフに睨まれた人々に有罪判決を下した。しかし1948年、ウクライナの農民たちに死刑判決のかわりにシベリア追放刑を下した手違いの件で、スターリンに辞職を求められた。その後は赤軍軍事法律学校の教官に転じたが、1951年には心筋梗塞により死去。
[編集] 関連項目
- 大粛清
- アンドレイ・ヴィシンスキー(モスクワ裁判検察官)
- ローラント・フライスラー(ナチス・ドイツの裁判官。ウルリヒと同じく無法裁判官の典型として悪名高い)