モスクワ裁判

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モスクワ裁判(モスクワさいばん)は、スターリン時代のソ連政府がモスクワで行った反革命分子に対する「公開裁判」。全部で三回行われた。外国ジャーナリストに「公開」することでスターリンによる大粛清を国際的に正当化する意味を持った。裁判長ヴァシリー・ウルリヒ、検察官はアンドレイ・ヴィシンスキーがつとめた。またこれらの裁判中、しばしばヴィシンスキーがソ連経済の混乱や国民生活の貧困を被告人たちの「陰謀」として追及するなどしており、スターリンの失政を覆い隠す意味もなした。まともな裁判ではなく茶番劇であるとして「見世物裁判」と記す書もある。

1956年スターリン批判以降、大粛清に関与したヤゴーダを除き、処刑された全員が1989年までに名誉回復されている。

概要[編集]

第一回モスクワ裁判[編集]

第一回裁判は1936年8月19日合同本部陰謀事件を裁く法廷としてモスクワの労働会館で行われた。被告人は、ジノヴィエフカーメネフスミルノフセルゲイ・ムラチコフスキーロシア内戦の英雄)、グリゴリー・エフドキモフヴァガルシャク・テル=ヴァガニャンアルメニア共産党書記長)、 イワン・バカエフイェフィム・ドライツァーら16名。傍聴人として150人の「市民」と30人余りの外国人ジャーナリストが招かれたため、「公開裁判」とされている。ただしその「市民」なる者たちはすべて大粛清の執行機関NKVDのメンバーが市民に偽装したものであり、彼らは裁判が「シナリオ」通りに進むように監視し、少しでも被告が不都合なことを喋ると大声で野次を飛ばすのが役割であった(野次は裁判長が裁判を休廷する口実となりえた)。

被告人は2つのグループに分けられた。ひとつはジノヴィエフやカーメネフら革命時代にはボルシェヴィキの最高幹部としてレーニンを補佐した大物たち、もう一方は「裁判で自白すれば命は助ける」といわれてジノヴィエフやカーメネフらとナチス・ドイツゲシュタポの関係を「証言」させるために集められた無名の小物たちだった。この裁判の様子について外国人ジャーナリストたちは、歴戦の革命家のはずの大物被告たちが恐怖に震え、くぐもった声や涙声で語っていたとし、一方逆に命の保証を受けていた小物被告たちは「まるで自分の誕生日のように」嬉々とした声でナチスの「陰謀」の証言をしていたとレポートしている。結局被告人は全員が罪を「自白」することとなった。

8月24日裁判長ウルリヒは「トロツキーと連携してセルゲイ・キーロフの暗殺を実行し、スターリンらをも暗殺しようとした」として被告16名全員に対して銃殺刑を宣告。命は助けると言われていたはずの小物被告たちは裏切られた形となった。一人を除く全員が提出した助命嘆願が却下されたのち(起訴状の中に入っていたヨシフ・ウンシュリフトによる「いかなる助命嘆願も拒否すること」という命令書が残されており、ウルリヒにより日付の記入がされている)、判決はその日の深夜2時には執行され、ウルリヒ、ヴィシンスキーらが銃殺に立会った。さらに9月1日には同じ事件で逮捕されていたレニングラード共産党支部の関係者5000人も全員銃殺刑に処した。スターリンの下で行われた最初の大規模な党員虐殺事件だった。また裁判中の23日、検事のヴィシンスキーは、「反ソビエト陰謀」の件でトムスキールイコフブハーリンらを「捜査」中であることを明かした(トムスキーは逮捕が避けられないと見て前日の8月22日に自殺していた)。これは次なる「公開裁判」と大粛清への予告であった。

第二回モスクワ裁判[編集]

ヴィシンスキーの予告通り、第二回裁判(いわゆる「17人裁判」)は早くも1937年1月23日に開かれた。「併行本部陰謀事件」を裁く法廷であるとされた。今度の被告はピャタコフムラロフソコリニコフら17名。また今回の法廷から「ソ連産業への妨害」も訴因に入り、スターリンの失政を覆い隠す意味も持つようになった。審理も第一回と同様に進められ、やはり全員が「自白」している。「ドイツや日本の手先となりスターリンの暗殺をもくろんだ」とされ、1月30日にほとんどは銃殺刑判決が下されて2月1日に執行されたが、今回の裁判に限り、ラデックとソコリニコフが懲役刑ですんでいる(ただし二人とも翌1938年に獄中で「同房の囚人」によって殺されている)。裁判後にはブハーリンらが逮捕された。

第三回モスクワ裁判[編集]

1938年3月2日、「右翼トロツキスト陰謀事件」を訴因としてブハーリンを裁くための法廷、いわゆる「21人裁判」が開かれた。裁判場は500人以上が収容できる連邦会館ホールに設けられたが、やはり傍聴席はNKVDで埋め尽くされた。ブハーリン、前NKVD長官のヤゴーダルイコフなど21名が被告となったが、この裁判における世界の注目はブハーリンにあった。しかしブハーリンはじめ被告たちはやはり何らの異議も唱えず、罪を「自白」してしまう。このブハーリンの様子を外国人ジャーナリストたちはさまざまに書いているが、そのうちコンクェストによると「裁判でうそを告発しようとしたブハーリンの考えはあまりにデリケートすぎた。もし彼にそういう考えがあればの話だが。利害関係が無く、まともな傍聴人でも告発は信じなかっただろう。が、この裁判劇はもっと広範な政治的聴衆のために上演されたのであって彼らの印象は単純である。ブハーリンが自白した、と。」と総括する。

一方、ただ一人ニコライ・クレスチンスキーだけが「私が有罪など、認めるわけにはいかない。私はトロツキー派ではない。私は決して"右翼トロツキー・ブロック"のメンバーではないし、そんなものの存在すら知らない。また、私個人に転嫁された犯罪は ただの一つたりとも行ってはいない。 ―― そして特に、ドイツの情報機関との関係を維持していたことについて、私は無罪である」と反論を試みた。もっともクレスチンスキーも翌日には「昨日は、被告席の雰囲気と、起訴状朗読による辛い印象とにより呼び起こされたいわれなき恥辱であるという感覚を、一時的に抱いていた影響のために、そして私の体調不良がそれをいっそう重く感じさせ、私は本当のことを述べることができず、有罪であることを認めることができませんでした。そして「私は有罪です」と述べる代わりに、ほぼ機械的に「私は無罪です」と答えてしまいました」と述べて「罪」を「自白」してしまった。肉体的か精神的かは不明だが、NKVDがクレスチンスキーに何らかの圧力をかけたと考えられる。

判決は3月13日に下され、ブハーリン以下21人の被告全員が2日後に銃殺刑に処せられた。

ブハーリンはこの裁判の前、逮捕を予期して「来るべき世代の次期指導者に」と題する一文をしたため、妻アンナにこれを暗記させてから燃やさせたという。そこには

「無慈悲にして明確な目的をもつにちがいないプロレタリアの斧の前にうなだれ、私はこの世から消え去ろうとしている。おそらく中世のやり方をまねて巨大な力を持ち、組織的な非難を捏造(ねつぞう)し、大胆に確信をもって行動する地獄のマシーンを前に無力を感じている。今日所謂NKVDの機関は勲章や名誉欲によって過去のチェカの権威を利用しつつ、スタ(これ以上は恐ろしくてとても言えない)の病的な猜疑心のいいなりになってそれが自業自得であることも知らずに下劣極まりない仕事に精を出している。無思想で腐った何一つ不自由のない役人どもの墜落した組織なのである」

とあったという。アンナはその後逮捕されて強制収容所から生還し、夫の名誉回復後の1989年に書いた回想録『夫ブハーリンの想い出』においてこの手紙を公表した。

デューイ調査委員会[編集]

この「見世物裁判」に対しては、当初から疑問の声が挙がっていた。トロツキーも、自身の無罪を証明するためにモスクワへの召還を求めたが無視された。それに対し、1937年3月にジョン・デューイらトロツキーの支持者を中心とした委員会(デューイ調査委員会)が結成され、裁判の起訴状などの調査が行われた。同年9月、「モスクワ裁判はでっち上げである」という結論の報告書が発表された。この報告書は、2009年現代書館から『トロツキーは無罪だ! モスクワ裁判〈検証の記録〉』(ISBN 978-4-7684-6995-8)として出版されている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]