ゲオルギー・ピャタコフ

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ゲオルギー(ユーリー)・レオニードヴィチ・ピャタコフ(Georgy (Yury) Leonidovich Pyatakov、1890年8月6日1937年1月30日 )は、ソビエト連邦の政治家、革命家。

キエフ州出身。1910年ウラジーミル・レーニンの指導するロシア社会民主労働党に入党。1922年にはゴスプラン(ソ連国家計画委員会)の副議長となった。レーニンの遺書では、党の若手世代を代表する人物としてブハーリンと並べてあげられている。レーニンの死後、ヨシフ・スターリンレフ・トロツキーの争いが始まるとトロツキーを支持して「左翼反対派(合同反対派)」に参加したため、トロツキー失脚後に「トロツキスト・ジノヴィエフブロック」の一味としてピャタコフも共産党から追放された。しかし1928年には自己批判してトロツキーを批判するようになったので党復帰を許された。

復帰後の1931年からはソ連重工業人民委員部でセルゴ・オルジョニキーゼ長官に次ぐ次官をつとめた。しかし1936年に入り、スターリンがニコライ・エジョフを重用して党内の大粛清を本格化させるようになると、「元トロツキスト」のピャタコフは再びNKVDから執拗な捜査を受けるようになった。ピャタコフの妻の家にもNKVDが強制捜査に入った。身に危険を感じたピャタコフは自らの身を守るために「妻の反革命を見破れなかった」「ジノヴィエフカーメネフと自分の妻を私の手で処刑させてほしい」とエジョフに訴え出たが、エジョフは「ばからしい」といってまともに取り合わなかった。またスターリンとオルジョニキーゼにもジノヴィエフ・カーメネフ・トロツキーを口汚く罵る手紙を送って、スターリンへの忠誠を示そうとしたが、これも相手にはされなかった。ピャタコフは、グリゴリー・ソコリニコフ追放にも大賛成していたが、もはやスターリン達にとってピャタコフは生かしておく意味のない人間であった。1936年9月11日をもってピャタコフは共産党を追放され、翌12日に反革命罪で逮捕された。モスクワ裁判の見世物に使われたのち、1937年1月に銃殺される。