アルフレート・フォン・ティルピッツ

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アルフレート・フォン・ティルピッツ
Alfred Peter Friedrich von Tirpitz
1849年3月19日1930年3月6日
Alfred von Tirpitz.jpg
生誕 プロイセン王国ブランデンブルク州キュストリン
死没 ミュンヘン
最終階級 海軍元帥
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アルフレート・ペーター・フリードリヒ・フォン・ティルピッツAlfred Peter Friedrich von Tirpitz1849年3月19日1930年3月6日 )は、ドイツ海軍軍人ドイツ帝国海軍元帥1897年から1916年まで海軍大臣として、ドイツ海軍の拡張を推進した。

経歴[編集]

第二次世界大戦後ポーランドに割譲され、現在ポーランド領であるオーデル川左岸の都市キュストリンプロイセン王国の上級官吏の息子として生まれ、フランクフルト・アン・デア・オーデルで少年時代を過ごした。1865年プロイセン海軍に入隊する。1869年キール海軍兵学校を卒業する。1871年ドイツ海軍創設と同時に水雷戦隊に所属する。1877年水雷戦隊司令に就任し、戦隊を再編成した。大佐となったティルピッツは1892年海軍軍令部に入り、軍令部長に就任、1892年には少将に昇進した。1896年ドイツ東アジア巡洋戦隊(日本では「ドイツ東洋艦隊」として知られる)司令官に任命され、ドイツがから租借した膠州湾の湾口にある青島膠州湾租借地)を軍港として使用した。1897年海軍大臣に任命される。海軍大臣としてドイツ海軍の拡充を精力的に実行し、皇帝ヴィルヘルム2世の信任を得た。1900年功績により、貴族の称号である「フォン」を名乗ることを勅許された。ティルピッツはドイツ海軍の青写真を設計し、ドイツ海軍を世界的大艦隊に成長せしめることを希望した。このティルピッツの大海軍建設案は国内的にも「ティルピッツ計画」の名称で広く喧伝されることとなった。政治的にティルピッツ計画は、1898年1900年1908年および1912年艦隊法として実現された。こうして第一次世界大戦の始まる1914年までにドイツ海軍はイギリス海軍の6割の戦力を有する世界第二位の海軍にまで成長した。すなわち、7隻の弩級戦艦、5隻の巡洋戦艦、21隻の巡洋艦に20隻の旧式戦艦、そして40隻以上もの潜水艦である。ティルピッツの海軍拡張計画は、非現実的な目標をも含んでいたが、しかし、ドイツ海軍の増強はイギリスを警戒させるのに十分であった。英独の海軍軍拡競争は、イギリスとドイツに普仏戦争に敗れ、対独復仇戦を誓うフランスとのより緊密な関係を形成する一助となる。

ティルピッツは現在のゲーム理論の一種とも言える「リスク理論」を展開し英独海軍軍拡競争によって英国はドイツ海軍を牽制し対決を回避すると提唱していた。しかし、このティルピッツの読みは結局外れ、英独関係は悪化の一途をたどることになる。1911年海軍元帥となる。3年後の1914年第一次世界大戦が勃発する。

ティルピッツは海軍大臣として軍政担当者の立場から、ドイツ海軍の作戦内容に意見を反映させることは余りなかった。ドイツ海軍、太洋艦隊は、英国本国艦隊の戦力を警戒し、艦隊決戦にはユトランド沖海戦を除き、積極的には出なかった。むしろ潜水艦による通商破壊活動を展開し、Uボートによる無制限潜水艦作戦を実施していった。1916年潜水艦作戦をめぐり、海軍大臣を解任され、後任にはエドゥアルツ・フォン・カペレ (Eduard von Capelle) が就任した。

海相辞任後の1917年短期間ではあったが、ドイツ祖国党の党首となる。ティルピッツは第一次世界大戦を勝利するため、ドイツ国民の力を結集せんと企てたがドイツは敗北する。戦後、ティルピッツは保守派のドイツ国家人民党を支持し、1924年から1928年までヴァイマル共和国国会議員を務めた。

1939年ビスマルク級戦艦の2番艦は、ティルピッツと命名された。