ヘンリー8世 (イングランド王)

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ヘンリー8世
Henry VIII
イングランド王
Henry-VIII-kingofengland 1491-1547.jpg
ハンス・ホルバイン画 『ヘンリー8世』(1537年ごろ)
在位 1509年4月22日 - 1547年1月28日
戴冠 1509年6月24日
別号 アイルランド王
出生 1491年6月28日
イングランド王国の旗 イングランド王国 グリニッジプラセンティア宮殿
死去 1547年1月28日(満55歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国 ロンドンホワイトホール宮殿
埋葬  
ウィンザー城聖ジョージ礼拝堂
配偶者 キャサリン・オブ・アラゴン
  アン・ブーリン
  ジェーン・シーモア
  アン・オブ・クレーヴズ
  キャサリン・ハワード
  キャサリン・パー
子女 メアリー1世
エリザベス1世
エドワード6世
王家 テューダー家
王朝 テューダー朝
父親 ヘンリー7世
母親 エリザベス・オブ・ヨーク
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ヘンリー8世Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝イングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位:1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。

目次

生涯 [編集]

出生 [編集]

ロンドン郊外のグリニッジにあったプラセンティア宮殿で、ヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として誕生した。兄弟姉妹には兄アーサープリンス・オブ・ウェールズ)、姉マーガレットスコットランドジェームズ4世に嫁ぐ)、妹メアリーフランスルイ12世に嫁ぐ)がいる。1493年にまだ幼少期にあったヘンリーはドーヴァー城英語版の城主、五港長官英語版に任命された。翌1494年にはヨーク公を授爵し、さらにイングランド紋章院総裁およびアイルランド総督を拝命した。

1501年カスティーリャ女王イサベル1世アラゴンフェルナンド2世の末子キャサリン・オブ・アラゴンと結婚していた兄アーサーが急死し、ヘンリーはプリンス・オブ・ウェールズとなった。

即位 [編集]

父の死によって、1509年にヘンリー8世として即位した。その2ヶ月後に、まだ喪中であったがキャサリンとの結婚式を挙げた。当初は政治には関心を示しておらず、父の時代からの重臣であったウィンチェスター司教英語版リチャード・フォックス英語版を重用していた。

1510年に同様にヘンリー7世に仕えた重臣エドマンド・ダドリー英語版を処刑。1511年ごろからヘンリーの全幅の信任を受けたのが、ヨーク大司教英語版トマス・ウルジーであった。彼はヘンリーの幼少期の監督係も務めていたが、大法官となり、権勢をふるった。ウルジーのロンドンにおける邸宅および田舎のカントリー・ハウスは王宮に匹敵するほどの規模を誇っていた。1513年en:Battle of Flodden1517年en:Evil May Day

1521年5月、バッキンガム公を処刑。ヘンリー8世はルター宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、1521年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者英語版」(ラテン語: Fidei defensor)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であった。ちなみに「信仰の擁護者」の称号は、国教会の成立後もヘンリー8世とその後継者に代々用いられ、現在のイギリス女王エリザベス2世の称号の1つにもなっている。

離婚問題とカトリック教会からの離脱 [編集]

しかし、世継ぎとなる王子が生まれないことを理由としたキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚(正確には婚姻の無効)およびアン・ブーリンとの再婚を巡る問題から、教皇クレメンス7世と対立した。1529年、大法官トマス・ウルジーを罷免。側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受け、1533年には上告禁止法英語版を発布し、イングランドは「帝国」であると宣言した。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイングランド国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した(en:English Reformation)。1535年トマス・モアを処刑。トマス・モアの建物(ロンドンの邸宅、カントリー・ハウス)はヘンリー8世によって没収され、それぞれホワイトホール宮殿ハンプトン・コート宮殿となる。1538年パウルス3世により破門される。

1540年アン・オブ・クレーヴズの結婚が原因で、トマス・クロムウェルを処刑。

1542年en:Battle of Solway Mossen:Anglo-Scottish Wars)。1543年en:The Rough Wooing1544年en:Burning of Edinburgh (1544)1545年en:Battle of Ancrum Moor1546年fr:Traité d'Ardres1547年、死去。

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人物 [編集]

自分にとって不要となった妃や、トマス・モアをはじめ自分に意見をする側近達を次々と離縁・処刑し、カトリック修道院の財産を没収するなど、苛烈な暴君として有名であった。彼の娘の1人で後に王位を継承したエリザベス1世が生涯結婚せず独身を通したのも、幼い頃より父ヘンリーの度重なる非道な所業を目の当たりにしてきた影響により、極度の男性不信に陥っていたためとする説は強い[独自研究?](エリザベスの母アン・ブーリンも、父ヘンリーの陰謀によって無実の罪を着せられ、斬首刑に処されている)。

ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語スペイン語フランス語を理解し、舞踏馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲 "Pastime with Good Company" など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。

結婚 [編集]

  1. キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1487年 - 1536年):1509年結婚、1533年離婚
    はじめアーサー王太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリー1世の母。結婚から20年余りを経た後に離婚。
  2. アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507年? - 1536年):1533年結婚、1536年離婚
    エリザベス1世の母。元はキャサリン・オブ・アラゴンの侍女。離婚後に姦通罪とされ、ロンドン塔で刑死。
  3. ジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509年? - 1537年):1536年結婚、1537年死去
    エドワード6世の母。元はアン・ブーリンの侍女。ヘンリーの後継者となるエドワードを出産したが、産褥熱により死亡。
  4. アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves, 1515年 - 1557年):1540年結婚、同年離婚
    ユーリヒ=クレーフェ=ベルクヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚。
    肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
  5. キャサリン・ハワード(Katherine Howard, 1521年? - 1542年):1540年結婚、1542年離婚
    アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
  6. キャサリン・パー(Catherine Parr, 1512年? - 1548年):1543年結婚、1547年夫と死別
    学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。結婚3年半目にヘンリーと死別。

子女 [編集]

最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間には娘1人だけが成育した。

2番目の妻アン・ブーリンとの間には娘1人だけが成育した。

3番目の妻ジェーン・シーモアとの間には息子1人をもうけた。

この他、非嫡出子1人を認知している。

フィクション [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]