ジュール・フェリー

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ジュール・フェリー

ジュール・フェリーJules Ferry, ジュール・フランソワ・カミーユ・フェリー、1832年4月5日 - 1893年3月17日)は、フランスの政治家。第三共和政の下で首相を2度務めた。初等教育の無償化、世俗化、義務化を実現した。

略歴[編集]

弁護士から政治家へ[編集]

サン=ディエ=デ=ヴォージュ(ヴォージュ県サン・ディエ)にて父が弁護士で富裕な家に生まれ、パリで法学を修めたのち、自身も著名な弁護士となる。政治に強い関心を抱いていたフェリーは共和主義者の弁護を専門に請け負うようになり、また、いくつかの新聞に定期的に寄稿し、第二帝政に批判的な立場をとっていた。1868年「ル・タン」紙に第2帝政の財政を批判した記事を掲載した。同年『オスマンの驚くべき会計報告』を出版して、セーヌ県知事と大規模開発事業を抗議した[1]。 この批判が功を奏し1869年には、パリの第6選挙区で共和派議員として当選を果たし、普仏戦争下の1870年9月4日第3共和政が誕生し、国防政府のメンバーとなる。セーヌ県知事、1870年11月16日から1871年3月18日までパリ市長を務め、十分な食料備蓄がないため「飢餓市長」と揶揄された。プロイセン軍に包囲された首都の食糧供給を確保する役目を負った。包囲されたときに最後の一人になるまで市庁に残ったことが、のちに賞賛された[2]

1871年2月8日の選挙において、ヴォージュ県の国民議会議員に選出され、共和党党員として改革のために闘い続けた。その後も1889年まで議席を守ることとなる。1872年から1873年までティエールによって在アテネ大使に任命されるが、帰国後は1879年ジュール・グレヴィー英語版が大統領の座に就くまで野党共和派の代表の1人として活動。

教育相としてのフェリー[編集]

1879年2月4日から1880年9月23日までワディントン内閣の教育相を担当し、いわゆるジュール・フェリー法と呼ばれる一連の教育に関する法律の策定に取りかかる。教育相時代には私学による学位授与の禁止1880年3月12日)や許可を受けていない宗教団体の解散1880年3月29日)といった措置を講じた。その後、1880年9月23日から1881年11月10日まで首相を務め、初等教育の無償化[3]1881年6月16日)や女子中等教育の拡充1881年12月21日を行う。フレイシネ内閣の下で1882年1月31日から同年7月29日まで再び教育相を務めることとなり、ライシテ[4]と義務教育に関する法律[5]1882年3月28日)や女子高等師範学校の設置および女性に対するアグレガシオン(1等教員資格)の授与1882年7月13日)を実行に移した。[6]

領土拡張論者としてのフェリー[編集]

教育政策に熱心だったフェリーは同時にフランスの植民地拡大をも積極的、熱狂的に支持し、1881年5月12日にはバルドー条約によりチュニジアを保護国化した。また、マダガスカルコンゴヴェトナムにも勢力を拡大するものの、1883年2月21日に始まる2度目の首相在任期に、ヴェトナム侵攻に際して、中国との衝突(清仏戦争)まで引き起こしてしまったために、議会の強い反対を被り、1885年3月30日に失脚。フランス国民の間で不興を買うこととなる。

1887年12月3日の大統領選出にも敗れ、その1週間後にはブーランジェ運動の活動員の凶弾で負傷。さらに1889年9月22日の総選挙では落選するものの、1891年にはヴォージュ県代表の元老院議員、1893年2月24日には元老院議長となる。その後まもなく1893年3月17日に死亡、政府の決定によって国葬にされた。

脚注[編集]

  1. ^ 『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ 377ページ
  2. ^ 『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ 378ページ
  3. ^ 保守派の反発が強く、翌年の3月まで実施が見送られた。
  4. ^ 1880年2月27日に成立した法律で、公教育高等評議会から宗教大臣が排除される。
  5. ^ 共和制民主主義の理念を獲得することを目的にした
  6. ^ この節の脚注は、『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ 379-380ページ参照した。

参考文献[編集]

  • フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 ISBN 4-562-03730-X

関連項目[編集]

外部リンク[編集]