塹壕
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塹壕(ざんごう, 英trench)は、戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を守る為に使う穴または溝である。野戦においては南北戦争から使用され始め、現代でも使用されている。日本陸軍では散兵壕と呼んだ。個人用の小さなものはタコツボとも呼ばれる。戦闘陣地の一つ。
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[編集] 歴史
塹壕は、攻城戦においては火器の普及以降、攻城側が防御側からの射撃を避けるために利用されてきた。大砲の発達と築城術の向上で巨大な要塞が生まれ、それに対抗する攻城術も生まれた。17世紀後半の代表的な攻城術は次のようなものである。まず要塞に対して複数の包囲網を敷き、その内側で要塞の城壁に平行な壕(平行壕)を掘る。ここを起点として塹壕(交通壕、斜壕とも)を掘りつつ要塞に接近する。塹壕は要塞からの縦射を避けるためにジグザグに掘る事が多かった。ある程度要塞に近づいたら第2、第3の平行壕を掘り、再び斜壕を掘って要塞へとにじり寄る。
野戦における塹壕の利用は南北戦争を嚆矢とする。南北戦争以前の野戦では、一斉射撃の後に歩兵縦隊が銃剣突撃する戦術が主流であった。しかし、後装式ライフル銃の普及によって弾幕射撃の射程と密度が増すと、縦隊による突撃は射撃の的となる一方となり、さらに機関銃の出現によってこの傾向は顕著となった。そこで敵からの射撃を避け、味方の射撃をしやすくするために塹壕が利用されるようになった。こうして戦争は塹壕戦へと様変りする。堅固に守られた塹壕を突破することは容易ではなく、これ以後戦争は長期化するようになった。
普仏戦争は塹壕戦が生起する以前に決着が着いたが、日露戦争の旅順攻囲戦ではロシア軍の機関銃が日本軍に大損害を与え、逆に黒溝台会戦ではロシア軍の攻撃を塹壕に篭った日本軍が撃退した。これらの事が各国の観戦武官に歩兵の横隊突撃に対する機関銃の威力を痛感させる事になり、欧州各国とも機関銃の配備を重視するようになる。続く第一次世界大戦の西部戦線では、壮大な機動戦を企図した初期のシュリーフェン・プランが失敗した事により、終戦までの約4年間、延々と塹壕戦が続いた。
塹壕戦が始まると、塹壕を掘る作業も歩兵の重要な仕事となった。第二次世界大戦の頃には「歩兵の仕事は8割が塹壕掘り」と言われるまでになった。
[編集] 構造
塹壕に篭る歩兵にとっての脅威は、塹壕内で砲弾や手榴弾が爆発した場合に飛散する破片や石である。これらの被害を最小限に食い止めるために、塹壕をジグザグに掘ったり、投げ込まれた手榴弾を処理する為の穴や溝が塹壕内に設けられた。なお、手榴弾の威力は爆散する破片による負傷が主であり、数十センチから1メートル程度の穴に落とし込めば、周囲の人間が負傷することは無いとされている。
第一次世界大戦では、両軍とも敵に背後に回りこまれないよう両翼に向けて塹壕を掘り進めて行くうちに、スイス国境からイギリス海峡まで塹壕が到達した。塹壕の壁面は、砲撃による振動で崩れないよう木材などで補強された。また、地下水に対応するため、底部には排水用の溝が掘られ、通路面に木製の橋のような通路が設けられた。
それでも、降雨などの増水時には、兵士たちは汚物まみれのぬかるんだ泥に足を突っ込んだまま、いつ攻めて来るか判らない相手を待ち続けなければならなかった。このような特殊な環境によって、伝染病は元より、塹壕口内炎や塹壕足(重篤な水虫や凍傷によって循環器系障害を起こし、酷い場合は足を切断した)などの病気も発生した。特に寒冷地においてはその被害は甚大なものとなり、戦後復興に大きな影を落とした。
[編集] 塹壕突破戦術
第一次世界大戦では、防御側の塹壕をいかに突破するかという戦術に両軍とも頭を悩ませた。
- 砲撃
- 第一次世界大戦の戦死者で最も多かったのは塹壕内で砲撃を受けたことによるものであった。しかし砲撃によって防御側を殺傷できるのは不意打ちのときのみである。砲撃が始まれば、歩兵部隊は塹壕の横に設置された地下壕へ避難する。地下10メートルの深さに設けられた地下壕は、当時のいかなる野戦砲弾でも破壊することはできない。
- 歩兵による突撃
- 犠牲を覚悟で歩兵による突撃を反復して行えば、いつかは防御側の第一線塹壕を占領できるだろう。だが防御側の塹壕は二重、三重のラインで築かれているのが通常であるので、犠牲覚悟の攻撃を繰り返さねばならない。さらに、第一線塹壕は元の敵陣であるから防御側の砲兵の照準は完璧であり、攻撃側がその場に留まっていては砲撃の餌食となってしまう。
- 毒ガス
- 毒ガスは、イープルの戦いでドイツ軍が初めて使用した。使われた毒ガスは比重が空気より重いため、塹壕内や地下壕内の歩兵部隊に被害を与えることができる。だが、初期の毒ガスは呼吸器系統に作用する塩素系ガスであったことから、防御側の歩兵がガスマスクを適切に着用すれば、さほどの戦果をあげることはできなかった。
- 坑道戦
- 坑道戦は、防御側の塹壕の地下にトンネルを掘り進み、地下で爆弾を爆発させて塹壕を破壊するものである。イギリス軍はメシヌの戦いで坑道戦を実施し、地下に仕掛けた600トンの爆弾で1万人以上のドイツ兵を殺傷した。だがこのときのトンネルの掘削には1年以上の作業期間を要した。坑道戦はあまりにも時間がかかりすぎ、特殊なケースを除けば実用的ではない。
- 戦車
- 戦車は、ソンムの戦いでイギリス軍が初めて使用した。戦車は、装甲が施され、無限軌道(キャタピラ)を装着して、有刺鉄線のバリケードや機関銃の弾をものともせず前進することができた。しかし、防御側が幅の広い対戦車壕を設けると、戦車でも突破しきれず、塹壕突破の決定的手段とはならなかった。
- 浸透戦術
- 浸透戦術は、ドイツ軍がカポレットの戦いや1918年の春季攻勢で実施した戦術である。長い塹壕線には部分的に手薄な地点や防御上の死角がどこかにある。分隊単位で編成された軽装備の突撃部隊(Stoßtrupp)が、現場の判断でそうした地点を探して突破し、防御側との交戦を避け、第二線、第三線の塹壕も突破する。多地点で同時にこの攻撃を実施することで防御側を混乱させ、その間に司令部や砲兵陣地を衝く。指揮系統との連絡や砲兵の支援を失った防御側の前線部隊は無力化されることになる。ドイツ軍は浸透戦術を採用してカポレットの戦いに圧勝し、西部戦線でも前進に成功した。だが突撃歩兵は限られた装備・補給しか持たないので、防御側が十分な予備兵力を持ち、迅速に戦線の穴を塞ぐと、それ以上の突破を続けることは困難であった。
- 電撃戦
- 第一次世界大戦で敗れたドイツ軍は、第二次世界大戦では戦車の集中使用による電撃戦を創始した。まず歩兵部隊が浸透戦術をもって防御側の戦線に穴を開け、防御側の予備兵力がこれを塞ぐ前に戦車部隊が穴から突出し、一挙に敵の背後に回りこむ。1939年のポーランド戦や1940年のフランス戦では、ドイツ軍は電撃戦により連合軍をわずか数週間で崩壊させた。しかしその後も、1943年以降のイタリア戦線や朝鮮戦争など、戦車の集中使用が困難な山岳地帯が戦場となった場合は、引き続き塹壕戦が展開された。
[編集] 現代の歩兵と塹壕
現代戦でも、歩兵は拠点の制圧や防衛に欠かせない兵科として運用されている。拠点を精密に攻撃する兵器の登場により、格好の標的とされやすい要塞やトーチカは、歩兵の防御戦闘では既に意味の無いものとなっている。逆にそうした兵器は、広範囲に分散して塹壕に潜む歩兵部隊に大きな損害を与え難いとされる。
核兵器ですら防護服に身を包んで広範囲の塹壕に散らばる歩兵を一掃するには至らない。分散した歩兵大隊を倒すのに、戦術核兵器を幾つも使用することは、対費用の上で非常に無駄が多い。また核兵器を実戦で運用すれば、国際社会から非難を浴び、戦争行為そのものの意味が失われる。
その一方で、戦術核兵器並みの威力で核汚染の無い・また戦術核と比較しても安価な燃料気化爆弾の登場は、次第にこれら塹壕の存在意義を脅かしつつある。この爆弾は、広範囲に大幅な気圧の変化を伴う衝撃波を発生させ、塹壕内の兵士を圧死させてしまう。また近距離では莫大な熱量を瞬間的に発生させ、これによる被害も大きいとされる。
なお1990年代の湾岸戦争において、他に援護されたブルドーザーブレードを装着した戦車により、イラク軍の塹壕を埋め立てる作戦が行われた。この作戦は塹壕戦における新しい脅威と言える訳だが、逃げ遅れたイラク軍兵士の一部が生き埋めとなったという報告があることから、人道上において忌み嫌われる「戦争行為を逸脱した残虐な殺害」に当たるのではないか、と米国内で議論となっている。
[編集] 塹壕戦を描いた作品
- エルンスト・ユンガー 『鋼鉄の嵐の中で』、『内的体験としての戦闘』
- アンリ・バルビュス 『砲火』
- チャーリー・チャップリン『担え銃』(1918年)
- エーリッヒ・マリア・レマルク 『西部戦線異状なし』(1929年)
- スタンリー・キューブリック『突撃』アメリカ映画、(1957年)
- 『ザ・トレンチ』 イギリス映画、1999年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク

