海底ケーブル

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海底ケーブル(かいていケーブル、英:submarine cable)は、海底に敷設または埋設された電力用または通信用の伝送路一般を指す。水圧への耐圧力と耐水性に優れているのが特徴。近年は国際通信ネットワークの伝送路としての認識がほぼ一般的である。以降、通信部門について記述する。

概要[編集]

ケーブルの構造 1.ポリエチレン 2. マイラーテープ 3.鋼鉄線 4.アルミニウム耐水膜 5.ポリカーボネート 6. 銅又はアルミニウムチューブ 7. ワセリン 8.光ファイバー

海底ケーブルは19世紀帝国主義資本主義の発展に伴い世界中に敷設されてきた歴史を持つ。初めての実用的な海底ケーブルは1850年、イギリスのドーバーとフランスのカレーの間に開設され、翌年に開局。以降、様々な研究が重ねられ、大西洋横断ケーブル1865年[1])、太平洋横断ケーブル(1903年[2])が完成したが、20世紀の初頭は無線ブームによりその価値が低下した面もあった。今日、世界の海に張り巡らされた海底ケーブルは国際間電話ファクシミリテレビ中継においてインテルサット静止衛星経由に比べエコーが気にならない高品質が認められる。これは衛星に比べ距離が短くて済むという利点により生じている。但し、ケーブルを敷設する際に膨大なコストが掛かる点が短所である。

通信技術[編集]

ケーブルの構造や材質は時代とともに移り変わってきた。現在では、同軸ケーブル光ファイバーケーブルが利用されている。両者を比較した場合、光は現在の国際通信の主役となっている。通信線を保護するために耐水性のPEが巻かれ、また水圧海流による擦れに対しては通信線の周囲をワイヤーを何重にも巻くことで対処している。勿論、絶縁処理も施されている。

架空または地中ケーブル同様に、どちらも伝送のために中継器と呼ばれる信号の増幅装置を設置する必要がある。中継器は電信ケーブルの時代から存在し[3]、現代でも、同軸ケーブルは数キロメートル単位、光ケーブルは数十キロメートル単位で設置されている(光ファイバーは損失が小さいので、同軸ケーブルと比較して中継器の間隔を広くできる)[4]。同軸ケーブル、光ケーブルともに、中継機用の電力送信の伝送路も持つ[5]。光ファイバーケーブルの中継器は、初期のころはケーブルからの光信号を電気信号に変えてから増幅させ、再び電気信号を光信号に戻して出力するという再生型中継器が一般的であったが、1980年代後半に、光信号を電気信号に変えることなく増幅させる光ファイバー増幅器が開発され、1990年代から実用化されている[6]

2地点間を結ぶだけでなく障害発生時にも継続的に利用できるように、ケーブルルートをリング状に構成する点など、ノード面においても他のケーブルと同一の工夫がされている。日本の周囲は、国内通信用に沿岸部や離島を接続している国内ケーブルと、外洋ケーブルが張り巡らされている。外洋ケーブルは沖縄具志頭、神奈川二宮などにある海底ケーブル陸揚(りくあげ)局で終端され、日本国内の通信伝送路に接続される。アメリカがフィリピンと結んだ初めての太平洋横断ケーブルの日米分界点は父島にあった(ちなみにイギリスの世界一周ルートは大まかに南米/オセアニア/南シナ海であり、そのまま欧州側のテリトリーとなっていく)。

ケーブルの敷設と補修[編集]

フランステレコムの海底ケーブル敷設船"René Descartes”

海底ケーブルの敷設と補修は、海底ケーブル敷設船という特殊船が利用される。19世紀のCSファラデー号(英)や20世紀のKDD丸(日)が世界的に知られている。敷設船が造られる前は、グレート・イースタン号(英)のように、他の目的で造られた船を改造して使用していた。敷設にあたっては、ソナーで海底の地形を調べ、GPSで船の位置を確認しながら行う[7]。そのまま敷設する型と埋設する型がある。海中は共同資源である点から埋設について厳しい制約がある[8]。沿岸部の浅海域では、埋設機により掘り起こしケーブルを敷設。地すべり底引網投錨による破損に備えている[9]

ケーブルが傷ついたり切断してしまった場合は、ケーブルの両端から海底ケーブル敷設船で引き上げ、船上で切れている部分をつなぎ合わせ、再び沈める作業が行われる。過去のケーブル障害の原因はキンクが一般的であったが、敷設技術の向上により減少している。がケーブルを噛むこと(「シャークバイト」)もあるという。

歴史[編集]

ケーブルの開発[編集]

地上での電信網が広がりを見せていた1840年代はじめ、海底ケーブルを用いた電信を実現させようとする動きがおこった。チャールズ・ホイートストンは1843年、テムズ川を横断する電信の実験を行った。また同じ年、サミュエル・モールスもニューヨーク湾で実験を行った。

しかし、これらの実験はどちらも失敗に終わった。電線を覆う絶縁物質の加硫ゴムが、水に長時間浸したことによって劣化したのが原因であった[10]

一方、ウィリアム・モンゴメリーは、シンガポール赴任中に、原住民が日用品の原料としてガタパーチャと呼ばれる樹脂を使用していることを知った。モンゴメリは1843年にガタパーチャを大量に購入し、ロンドンで行われていた会合でそのサンプルを提出したところ、ホイートストンやマイケル・ファラデーの興味を引いた。 ファラデーはその後ガタパーチャの研究を行い、1843年と1848年に研究結果を公表した。ガタパーチャは高い絶縁性を持ち、水に溶けず、低温では硬度が上がるといった特徴を有していた。そしてこれは海底ケーブルに適した性質であった[11]

こうして、英国ではファラデーらにより、ガタパーチャを使用した海底ケーブルの実験が行われた。同じころ、ウィリアム・ジーメンスも当時英国に滞在していた弟を通じてガタパーチャを入手し、アメリカ政府に実験計画を提案、政府もこれを了承した。英米両国は実際に地下にケーブルを敷設し通信を行った。これらのケーブルは始めのうちは通信障害が多かったが、改良を重ねることで実用性を高めていった[12]

ドーバー海峡横断ケーブル[編集]

ジョン・ブレットとヤコブ・ブレットの兄弟は、ドーバー海峡にケーブルを敷設する計画を立てた。この計画は、1847年にフランス政府の許可を得て、1848年には英国の許可も得ることができた(フランスの許可は1848年で期限切れとなってしまったため、1849年に再度取得した)[13]。そして1850年8月28日、ドーバーカレーを結ぶケーブルの敷設を行った。敷設は成功し、いくつかのメッセージをやり取りした。

しかし、翌日にはこのケーブルは通信できなくなっていた。ケーブルが切断されていたためであった。切断の原因は、フランスの漁師がケーブルを新種の海藻と勘違いして切り取って持ち帰ったためと言われている[14]

とはいえ、海底ケーブルの通信が可能だということは示せたため、ブレット兄弟はドーバー海峡への再度のケーブル敷設を計画した。前回の失敗が影響して資金集めには困難を強いられたが、技師のトーマス・クランプトンの支援を得ることができた。クランプトンはさらにケーブルの設計も行い、敷設工事にも参加するなど、このケーブルに深くかかわった[15]

敷設は1851年9月25日に開始され、11月13日に完了した。このケーブルは修理を繰り返しながらも1861年まで良好な状態で使用されたと記録されている[16]。こうして、ドーバー海峡横断ケーブルは、2国間を結ぶ初の海底ケーブルとして大きな成功を収めた。

海底ケーブル網の広がりと大西洋横断ケーブル[編集]

1858年頃の海底ケーブル網

 詳細は大西洋横断電信ケーブルを参照

ドーバー海峡横断ケーブルの成功によって、海底ケーブルの性能が広く知られるようになった。そのため、1850年代には英国-オランダ間、ラ・スペツィアイタリア)-コルシカフランス)-サルデーニャ(イタリア)、地中海黒海など、多くの海底ケーブルが敷かれていった。

こういった流れを受けて、大西洋を結ぶケーブルも計画された。敷設には多くの失敗と約10年の時間を必要としたが、1866年にヴァレンティア島ニューファンドランド島の間で敷設工事が成功し、ヨーロッパとアメリカ大陸が海底ケーブルで結ばれた。

英国による海底ケーブル網の完成[編集]

オール・レッド・ライン

大西洋横断ケーブル敷設後の1868年、英国はこれまでの国内すべての電信会社を国有化した。そして、それらの会社に多額の買収金が支払われた。この資金をもとに、英国は次々と新しいケーブルを敷設していった。ケーブル網は南アフリカのケープタウンや、ブラジルのペルナンブーコ、ウルグアイのモンテビデオまで達した[17]

中でも重要視されたのが、英国の植民地だったインドとの通信であった。英国とインドはすでに陸上のケーブルで結ばれていたが、このケーブルは通信状態が悪かったので、新たなケーブルを必要としていた。そして、英国からイベリア半島、地中海を通り、さらにスエズからアデンを経由してムンバイへと至る海底のインド洋線が開通し、1870年から通信を始めた[18]。さらに1872年には、インドからオーストラリアへのケーブルも敷設された。

インドへの海底ケーブルは、開通当時は3つの会社のケーブルを経由してつながっていたが、1872年に、その3社と他の1社を加えた4社は合併し、イースタン・テレグラフ社が誕生した。一方、インド以東のケーブルを所持していた会社も合併し、イースタン・エクステンション社が設立された[19]。この2つの企業は多数の海底ケーブルを有し、通信産業において大きな力を持った。そしてそれは、英国の通信面における優位性を示すものであった。

その到達点が、太平洋横断電信ケーブルである。この事業は1878年に開始され、1902年、カナダのバンクーバーから、フィジーを経由し、そこからニュージーランドや、オーストラリアのブリスベンへとつながるケーブルが完成した。これにより、英国は当時の自国の植民地をつなぐ大きなケーブル網を作り上げることに成功した。このケーブル網はオール・レッド・ラインと呼ばれる(英国の植民地が地図上で赤く塗られていたことに由来する)。

各国による電信ケーブル網の広がり[編集]

大西洋横断電信ケーブル以後、英国以外の国においても海底ケーブルの敷設は行われた。特に北大西洋においては、フランス、ドイツ、アメリカによってケーブルが敷設され、その本数は英国のケーブルと合わせると1901年の時点で15本に達した[20]

とはいえ、19世紀においては、海底ケーブルの主導権は英国にあった。ケーブルは高価であり、敷設にもケーブル敷設船など多大な投資を必要とするため、企業が新規に参入するにはハードルが高かった。さらに、ケーブルの絶縁物質であるガタパーチャの生産は、英国のガタパーチャ社が押さえていた[21]。1901年の時点で海底ケーブルの総距離はおよそ36万kmに達していたが、以上のような理由により、英国はそのうちの63%を占めていた[22]

この力を背景に、英国は他国の重要な電報を盗聴したり、伝達を故意に遅らせたりするなど、外交面でケーブルを利用した。たとえば、1899年のボーア戦争の時に、英国はフランスと南アフリカの電報をすべて検閲し、暗号化された電報は通信しないという対応をとった[23]

20世紀に入るころになると、こうした英国の独占を崩すため、他国によるケーブル網が広まるようになった。フランスはボーア戦争での英国の対応が契機となって、国策によってケーブル敷設が盛んになった。そして、インドシナ半島へと接続するためのフエ-アモイ間(1901年)、西アフリカの植民地を結ぶブレスト-ダカール間(1905年)、インドと接続するためのマダガスカル-モーリシャス間(1906年)などが敷設された[24]

アメリカは1898年にフィリピンを植民地にしたため、太平洋へのケーブルを試みた。そして1903年に、サンフランシスコからホノルルグアムを経由してマニラへ至るケーブルを開通させた。このケーブルは1906年には上海まで延伸し、さらに同年グアムから東京へと通じるケーブルも敷設した。

こうした諸外国の動きと、次で述べる無線通信が普及してきたことにより、英国の情報通信面における独占時代は終わりを迎えた。そして通信の主役は電信から電話へと移り変わることになる。

無線通信の台頭と装荷ケーブル[編集]

20世紀に入り無線通信の開発が進み、長波の通信業務が大西洋などで始まった。そして1920年代には短波無線による電話通信が始まり、無線は海底ケーブルによる通信を脅かす存在になっていった[25]

一方、海底ケーブルは従来よりも通信速度を高めた装荷ケーブルが開発された。そして1921年、キーウェスト-ハバナ間に、初の海底電話ケーブルが敷設された[26]。さらに大西洋においても電話ケーブルを敷く計画があがったが、この案は見送られた。海底ケーブルは高価であったため、当時の無線通信で十分と判断されたのである[27]

しかし、無線通信にも、通信が不安定だという欠点があった。そのため、やがて安定して大容量の情報が送れる通信が求められるようになった。そしてこれを満たすのが同軸ケーブルであった。

海底同軸ケーブルによる電話回線[編集]

1927年、負帰還増幅器が開発され、同軸ケーブルによる多重搬送が可能になった。その後英米両国により同軸ケーブルによる海底電話ケーブルの研究が進められた。

アメリカは1930年代からベル研究所により研究が進み、1950年、キーウェスト-ハバナ間で同軸ケーブルの試験を行った[28]。そして1956年、初の大西洋横断電話ケーブル(TAT-1)がスコットランド-ニューファンドランド間に敷設された。その後、アラスカプエルトリコなどにもケーブル敷設を行った[29]

英国も1938年ごろから郵政庁を中心に研究が進み、1943年、アイリッシュ海にケーブルを敷設した[30]。その後改良したケーブルで、1961年にカナダと英国を結ぶケーブル(CANTAT)を敷設した。さらに、バンクーバー-ハワイ-ニュージーランド、オーストラリアを結ぶケーブルなどを敷設した[31]

以後も英米を中心に海底同軸ケーブルは世界中にはりめぐらされていった。また、通信システムも向上した。ケーブル自体の高性能化や、中継器にトランジスタを使用する(1968年)などの技術革新で、広帯域化が進んだ[32]。そして海底ケーブルは電信や電話だけでなく、ファクシミリやテレビ放送の通信も行うようになった[33]

一方、無線通信はこれまでの短波通信に代わるものとして、1950年代後半から衛星通信の開発が進んだ[34]。衛星通信は海底ケーブルに比べて回線容量が大きく、しかもケーブルが通っていない地域とも通信できるという利点があった。しかし、以前の短波通信と同じく通信が不安定という欠点も持っていた。そのため、両者は互いの欠点を補いながら発展していった[35]

光ケーブルの開発と普及[編集]

1970年代から、それまでの銅を導体にしたケーブルに対して、光ファイバーによるケーブルの実用化が進められた。研究はアメリカのAT&T、英国のBT、フランスのCNET(現フランステレコム)、日本のKDD(現KDDI)、電電公社(現・NTTグループの「NTTワールドエンジニアリングマリン」)などによって行われ[36]、1986年、英国-ベルギー間に初の国際光海底ケーブルが敷設された。そして、1988年には大西洋に、1989年には太平洋にケーブルが敷かれた。[37]

光ケーブルは、伝送損失が小さく大容量の情報が高速に伝送できるケーブルとして急速に普及し、現在広い範囲で使用されている。

日本の海底ケーブル[編集]

日本最初の海底ケーブルは、大北電信会社によって1871年に敷設された、長崎-上海間及び長崎-ウラジオストク間のものである。これにより、日本における国際電報事業が開始され、翌年開通した欧亜陸上電信線と接続された。その後1883年呼子-釜山間の海底電信線も敷設された。

一方、国内通信では、1873年お雇い外国人指導の下で関門海峡に敷設したのが始まりである。1896年には、日清戦争で獲得した台湾への電信線敷設のため、日本最初の本格的海底ケーブル敷設船となる「沖縄丸」を導入。国産船では「小笠原丸」が、1906年に後述の太平洋横断ケーブル工事を目的として建造されている。

1906年8月1日に、日米間太平洋横断国際海底ケーブルが開通した。これは、日本が東京から敷設したケーブルと、米国がサンフランシスコ-マニラ線のグアムから分岐して敷設したケーブルを父島で接続したもので、当初のルートは東京-小笠原(父島)-グアム-ミッドウェー-ホノルル-サンフランシスコであったが、1931年5月に東京側の陸揚地が鎌倉に変更された。

戦後の1964年TPC-1 (Trans Pacific Cable)(東京-ホノルル)が開通し、電話回線128回線が実現された。その後のTPC-2(1975年、電話回線:845回線)に続き、TPC-3(1989年、容量:560Mbps)では、初めて光ファイバが用いられ、TPC-4(1992年、容量:1Gbps)、TPC-5CN (Cable Network:環状)(1995年、容量:10Gbps)が建設され、日米間の通信とともに、アジア地域と欧米との中継を含めたバックボーンとして重要な役割を担った。

日本に接続されるその他の国際海底ケーブルには、APCN(10Gbps 陸揚国:韓国、香港、フィリピン、台湾、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア)や、インド洋を経由するSEA-ME-WE3(40Gbps 陸揚国:韓国、中国、台湾、香港、マカオ、フィリピン、タイ、ブルネイ、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インド、インドネシア、ミャンマー、オーストラリア、スリランカ、パキスタン、オマーン、アラブ首長国連邦、ジブチ、トルコ、サウジアラビア、エジプト、キプロス、ギリシャ、イタリア、モロッコ、ポルトガル、フランス、英国、ベルギー、ドイツ)などもある。

その後、インターネット時代を迎え、より大容量な海底ケーブルへと進化した技術には、WDM(Wavelength Division Multiplexing:光波長多重)や光ファイバがあげられる。これら技術によって、China-US CN(2000年、容量:80Gbps)、Japan-US CN(2001年、容量:400Gbps)、Unity(2010年、容量:20Tbps)へと飛躍的な大容量化が実現された。

TPC-1、TPC-2などの退役した同軸ケーブルは地震研究などに転用されている。

欧米のネットバブルにより、従来の通信事業者主体からプライベートケーブルと呼ばれる非通信事業者系ケーブルが登場した結果、インターネット時代といえども供給過剰ともいわれる一方、国際的な更なるブロードバンド化に伴う需要の受け皿にもなっている。

脚注[編集]

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  1. ^ 1858年にいったん開通したが、2か月半しか稼働しなかった。
  2. ^ 商業太平洋海底電信会社英語版によるサンフランシスコ-マニラ間の開通。
  3. ^ 英国官庁図書出版局(1971)p63によれば、英国のケーブルで最初に中継器が使われたのは1924年であった。
  4. ^ 村上「光海底ケーブル通信システムの現状と動向」、IEEE Journal vol.123 No.4 pp.208-211
  5. ^ 石崎「光海底ケーブルの最新の技術」IEEE Journal vol.123 No.4 pp.220-223
  6. ^ 青木「光海底ケーブルシステム用光伝送装置および関連技術」、IEEE Journal vol.123 No.4 pp.216-219
  7. ^ 白崎(2009.3)pp.50-53
  8. ^ 志村監修(1978)p315
  9. ^ 志村監修(1978)p314
  10. ^ 白崎(2008.4)
  11. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)pp.789-790
  12. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)p790
  13. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)p.791
  14. ^ 英国官庁図書出版局(1971)p17
  15. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)p795
  16. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)p796
  17. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)pp.815-822
  18. ^ 英国官庁図書出版局(1971)p44
  19. ^ 英国官庁図書出版局(1971)p45
  20. ^ 白崎(2008.8)p67
  21. ^ 高橋(2006)p105
  22. ^ ヘッドリク(2005)p101
  23. ^ ヘッドリク(2005)p110
  24. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)pp.829-831
  25. ^ 郵政省通信政策局編(1988)p6
  26. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)p839
  27. ^ 郵政省通信政策局編(1988)p6
  28. ^ 志村監修(1978)pp.4-5
  29. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)p841
  30. ^ 志村監修(1978)p7
  31. ^ 日本電信電話公社海底線敷設事務所編(1971)pp.841-843
  32. ^ 志村監修(1978)pp.10-11
  33. ^ 志村監修(1978)p11
  34. ^ 『コミュニケーションの国際地政学・海底ケーブル編』p21
  35. ^ 『コミュニケーションの国際地政学・海底ケーブル編』p22
  36. ^ 郵政省通信政策局編(1988)p11。
  37. ^ 『コミュニケーションの国際地政学・海底ケーブル編』p24

参考文献[編集]

  • 『英国における海底ケーブル百年史』 英国官庁図書出版局、国際電信電話株式会社訳、国際電信電話株式会社、1971(原著1950)年。
  • 『海底同軸ケーブル通信方式』 志村静一監修、電気通信学会、1978年
  • 高橋雄造 『百万人の電気技術史』 工業調査会、2006年ISBN 978-4769312581
  • 『海底線百年の歩み』 日本電信電話公社海底線敷設事務所編、電気通信協会、1971年
  • D.R.ヘッドリク 『進歩の触手 帝国主義時代の技術移転』 原田勝正、多田博一、老川慶喜、濱文章訳、日本経済評論社、2005年ISBN 978-4818809055
  • 『海底ケーブル通信新時代の構築へ向けて―日本の貢献―』 郵政省通信政策局編、大蔵省印刷局、1988年ISBN 978-4171505007
  • 『コミュニケーションの国際地政学・海底ケーブル編』 KDDI総研、2002年
  • 村上誠、枝川登、青木恭弘、石﨑宏 (2003). “特集 光ケーブルネットワーク”. IEEE Journal 123 (4). 
  • 白崎勇一 (2008.4-2009.3). “世界を変えた海底電信ケーブルの話”. ITUジャーナル 38-39. 


関連項目[編集]

外部リンク[編集]