エドワード・スタンリー (第17代ダービー伯爵)

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Edward George Villiers Stanley, 17th Earl of Derby by Sir William Orpen.jpg

エドワード・ジョージ・ヴィリアーズ・スタンリー(Edward George Villiers Stanley, 17th Earl of Derby、KGGCBGCVOTDPCKGStJJP1865年4月4日 - 1948年2月4日)は、イギリス政治家貴族。第17代ダービー伯爵。政治家として郵政相、陸軍相を歴任。競走馬生産者、馬主としても著名である。

経歴 [編集]

父は第16代ダービー伯フレデリック・アーサー・スタンリー。ウェリントン・カレッジで学んだ後、近衛擲弾兵連隊中尉として赴任。1885年から1895年までの10年間兵役を務めた。退官後、貴族院議員(保守党)を14年務め、その任期中に郵政相を2年務めた。その後空軍委員会議長に任ぜられたが、時を同じくして ガリポリの戦いの作戦失敗等によりハーバート・ヘンリー・アスキス首相が失脚。代わって陸相のデビッド・ロイド・ジョージが首相に就任し、その穴を埋めるため委員会議長を辞任、陸相となり、混迷の度を深めていた第一次世界大戦末期のイギリス陸軍の指揮を執った。またこの時期はアイルランドで独立の気運が高まり、後のアイルランド独立戦争へと発展していった過渡期でもあり、エドワードはあらゆる事態の対応に追われ続けた。大戦終結後、陸相を辞任。フランス大使となり戦後調整に当たった後、再び陸相に就任し2年を務め、その辞任後は政界を引退した。実子のエドワードとオリバーは共にスタンリー・ボールドウィンネヴィル・チェンバレン内閣等で閣僚を務めている。

スポーツ愛好家 [編集]

パブリック・スクール時代に経験したラグビーの熱心な愛好家であり、ラグビー協会の名誉理事長を務めていた。ほか、フランスラグビー連盟に優勝杯を寄贈しており、このカップは現在でも「ダービー卿杯(The Lord Derby Cup)」と呼ばれている。なお父のフレデリックはアイスホッケーの愛好家で、北米のナショナル・ホッケー・リーグに優勝杯を寄贈(こちらは「スタンレー・カップ」と呼ばれている)している。

また競走馬の生産者および馬主として史上に大きな事績を残しており、ハイペリオンファラリスファロスフェアウェイスウィンフォードアリシドンなど、現代のサラブレッドに多大な影響を与えた名馬を数多く送り出した[1]。生産者および馬主としてダービーを2勝、オークスを1勝、セントレジャーを6勝、2000ギニーを2勝、1000ギニーを7勝を挙げたほか、1歳時にエヴレモン・ド・サンタラリからオグデン・ミルズと共同で購入したカンタール凱旋門賞にも優勝した。 彼の馬の購入や調教についてはジョージ・ラムトンが、初期の配合デザインにはウォルター・オルストンがかかわっており、生産に際しては「フィッツラックの18.75%理論」と呼ばれる血統論を用いたとも、占星術によったとも言われるが定かではない。 1930年にはダービー伯として史上初めてアメリカケンタッキーダービーを現地観戦し、『タイム』の表紙を飾った。

脚注 [編集]