三枚舌外交

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三枚舌外交(さんまいじたがいこう)とはイギリス第一次世界大戦後の中東問題をめぐる外交政策のこと。

三つの協定[編集]

イギリスは第一次世界大戦中に戦後の中東問題に対して、以下の三つの協定を結んでいた。それぞれ、アラブフランスユダヤに配慮した内容であった。

これにより第二次世界大戦後のパレスチナ問題[1]や、1921年3月21日カイロ会議英語版ではガートルード・ベルの意見が採用されて現在も不自然な国境で分断されているクルド人問題など多くの問題を生じた。

フサイン=マクマホン協定[編集]

マッカ(メッカ)の太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡。オスマン帝国支配下におけるアラブ人居住地の独立支持を約束した。

イギリスはアラブ独立を約束させることによってアラブ反乱をさせてアラブをイギリス陣営に引き込み、トルコと戦わせることを目的とした。ただし、ここで規定されたアラブ人国家の範囲は、ホムス、ハマ、アレッポ、ダマスカスを結ぶ線の内陸側とされているため、シリアの大部分、レバノン、そしてエルサレム市も含むパレスチナも含まれていない。

サイクス・ピコ協定[編集]

イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれた秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作成された。

オスマン帝国の領土を以下のように規定していた。

  • シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲
  • シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲
  • パレスチナを国際管理下

イギリスは事実上の同盟国で大国であるフランスの利益を重んじることを目的としていた。結果としてフランスは、ケマル・アタチュルクトルコ共和国とイギリスの勢力圏との間に押し込まれた格好となり、大きな負担を強いられた。

1917年ロシア革命が起こると、同年11月に革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされた。

バルフォア宣言[編集]

1917年11月、イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明されたシオニズム政策。内容はパレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設である。

イギリスはパレスチナにおけるユダヤに配慮することによって、ユダヤから戦争資金を引き出すことが目的であった。

三協定の解釈[編集]

文言の解釈[編集]

この協定が相互矛盾を引き起こしていたとしてイギリスの謀略外交と批判されている。しかし、三つの協定自体は原文の文言の解釈次第では、殆ど矛盾はしていないとする見方も不可能ではない。

フサイン=マクマホン協定とサイクス・ピコ協定
フサイン=マクマホン協定とサイクス・ピコ協定ではイギリス庇護の下でアラブ独立をすることとして、またサイクス・ピコ協定でフランス勢力下とされたレバノンとシリアの大部分はフサイン=マクマホン協定でのアラブ人国家の範囲には含まれていなかった。ただ、ダマスカス近辺においてフランス勢力下なのかアラブ勢力下なのか矛盾する部分が存在した。
サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言
サイクス・ピコ協定はパレスチナを国際管理とすることを規定しているが、バルフォア宣言はユダヤ国家の建設は明記されておらず、ユダヤ人居住地の建設だけ(National Home と書いてあるが、国家と言う言葉はどこにも使われていない)を明記している。パレスチナにおける国際管理とユダヤ人居住地の確立は矛盾しない。
バルフォア宣言とフサイン=マクマホン協定
もともとパレスチナはフサイン=マクマホン協定で定められたアラブ人国家の範囲外である。またフサイン・イブン・アリーの息子ファイサル王子は、バルフォア宣言が問題になって、シオニズム運動の指導者ハイム・ワイツマン博士と会談したおりでも、エルサレムの行政権を除くパレスチナ地域には関心を示していない(中東戦争全史 山崎 雅弘著 学研M文庫)。この1919年のファイサル=ワイツマン合意では、とりあえずは一時的措置としながらも、パレスチナにおけるユダヤ教徒とアラブ人の長い共存の歴史を鑑みて、アラブ人とユダヤ人が共存しながらパレスチナ地域へのユダヤ人入植を促進するとの合意がなされている。またバルフォア宣言では「先住民の権利を侵害しないことが前提」という旨が明記されている。

ただ、その後の民族対立が激化した結果、パレスチナに居住するアラブ人のことが無視され、現在に続く大問題を引き起こした。

相手方から見たイギリスの不誠実[編集]

上記の通り三協定は文言では殆ど矛盾がない。しかし、1917年11月にロシア革命によって誕生したロシア革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、この秘密外交を知らなかった相手側にとっては複雑で不可解なものとしてイギリスは非難を浴びた。

アラブ側
アラブ側の中にはフサイン=マクマホン協定でのアラブの独立はイラクを含めたアラブ統一独立国家を模索しており、イギリス庇護の下で独立するとは考えていない者もいた。またイギリスがシリア南部と南メソポタミアを事実上支配するサイクス・ピコ協定を知らされていなかった。そのため、アラブ側は自身が想定していたより小さい範囲でしか統治できず、イギリス側へ不快感を生じさせた。
ユダヤ側
ユダヤ側から見れば、バルフォア宣言でエルサレム市を含めたパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設がイギリスによって支援されると考えていた。確かに文言では「ユダヤ民族居住地建設」となっているが、それではユダヤの悲願であるパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設は達成されない。また、サイクス・ピコ協定ではパレスチナを国際管理すること、フサイン=マクマホン協定を結んだフサイン・イブン・アリーもエルサレム市の行政権を主張していることは、パレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設の障害になるものであった。ただし、一番決定的なのは1939年の「マクドナルド白書」によるユダヤ人国家の否定(ユダヤ人移民の制限と、10年以内のアラブ人主導によるパレスチナ独立国の創設がうたわれていた)であり、イグルンやレヒなどの過激派が反英テロに走ることになり、ベングリオンら穏健派も、イギリスに頼ることをあきらめて自力で国家建設を目指すことになった。

なお、三枚舌外交は第二次世界大戦後にイスラエルが建国されたことによるパレスチナ問題が大きく注目されるが、アラブにとってシリア南部と南メソポタミアなどにも影響が及んでおり、パレスチナ地域だけの問題ではない。

脚注[編集]

  1. ^ アラブとユダヤの対立の要因とする視点から、サイクス・ピコ協定に触れずに「二枚舌外交」と呼ぶ場合も有る。

関連項目[編集]

参考[編集]