ロバート・スコット
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ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868年6月6日 - 1912年3月29日)は イギリス海軍士官であり南極探検家である。南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。
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[編集] 経歴
1901年から1904年にかけて、第1回南極探検(ディスカバリー号探検)を行った。この際、アーネスト・シャクルトンらと共に南極点到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。また、ペンギン生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を得る。
1910年、テラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。これと同時期にロアール・アムンセン率いるノルウェー隊もフラム号にて南極に上陸し、南極点到達を目指していた。
1911年10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は南極点に向け出発する。ウーズレー社製の雪上車による先発隊が10月24日、そしてロバート・スコットが率いる馬ソリの本隊が11月1日に出発した。しかし、これに先立つ10月19日には、より南極点に近いクジラ湾からアムンセンの犬ぞリ隊も南極点を目指し出発していた。出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、そり犬を譲ろうと申し出ているのだが、イギリス側はその申し出を断っている。
スコット隊は投入した2台の雪上車が1週間足らずで両方とも故障し使いものにならなくなるなど、南下は困難を極める。さらに主力の馬も寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが鈍ってゆく。12月になると本隊の馬も人間の食料とする為に射殺せざるを得ない状況に追い込まれ、ついに人力でソリを曳かざるを得なくなった。
探検隊はいくつかのグループに分けられ、最終的に南極点を目指すグループはスコット、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウアーズ、ローレンス・オーツ大尉、エドガー・エヴァンスの5人に絞られ、1912年1月4日に南緯87°32′の地点で最終サポートグループと分かれた。1月17日(もしくは18日)、スコット達は遂に南極点に到達した。しかしその時は、アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。映画などでは劇的効果を高めるために南極点到達時にアムンセン隊に先を越されたことが初めて判明したように描写されることが多い。しかしスコット達はそれ以前にアムンセン隊のソリの滑走痕を視認しており、彼等に先を越されたことはほぼ確実であると認識していた。
[編集] パーティーの遭難
失望に覆われたパーティーは帰途、零下40度の中を130km先にある基地へと向かったが遭難し、3月29日までに全員が凍死した。最初に亡くなったのはエヴァンズである。続いてオーツが凍傷にかかり一行についていくことができなくなった。3月17日の朝にオーツは「I am just going outside and may be some time」と言葉を残してブリザードの中テントから出て行方不明となった。食料を置いた基地まであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。吹雪は10日間も吹き荒れテントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。
スコットは日記に1912年3月29日付で「もはや力尽きてしまった」と書き残し、残りの2人と共にテント内で息を引き取った。救難にかけつけた隊により3人が発見されたのは6ヵ月後のことだった。スコットの手には、ブラウニングの詩集が握られていた。
アムンセンが南極点に作ったテントにはスコットにあてた手紙が残されており、スコット隊はこの手紙を持ち帰っている。このことによりアムンセン隊の南極点到達は証明され、スコット隊の名声を高めた。遺書も公正・崇高さを持った名文であり、イギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるというものであった。
[編集] 南極到達レースの敗因・遭難の原因の分析
スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行っている。
中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、スコット達の捜索隊にも参加した、アスプレイ・チェリー=ガラードは、スコットがアムンセンに遅れをとった事や遭難死に至ったその敗因について、以下の様な分析を残している。
- アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる移動を行い、極点に到達したが、スコット隊は当初使用した雪上車、主力とした馬による曳行が悉く失敗し、人力でソリを引かざるを得ず、いたずらに体力の消耗を招いた。寒冷な気候に強いとされる品種の馬を用意していたものの、馬そのものの体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した事などに加え、馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。
- アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑えた。この肉は人だけでなく犬ぞりの犬も食している。一方スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではなかったうえに、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。
- 結果論だが、輸送手段を失いつつあった時点で速やかに撤退していたら、もしかすると遭難は避けられたかもしれない。しかし、ノルウェーのナンセンは、グリーンランド横断の時、二ヶ月間人力で橇を引き、5人の隊員の一人として欠くことなく探検を成功させている。
- アムンセンの探検隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査等の学術調査も重視しており、勢力を分散させる結果となった。
- アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。
また、アムンセン隊はアザラシの毛皮などで作られた防寒服を用いたが、スコット隊の服は牛革を重ねた形状の防寒服であり、汗などの体から出る水蒸気を吸い込みそれが次第に逆に体温を奪う結果となり、最後は保温の役目を殆ど果たしていなかったとも考えられている。なお、この防寒服を製作したのはバーバリー社である。
さらに、学術的に大きな価値を持つもの(南極がかつてゴンドワナ大陸の一部だったことの証拠であるグロッソプテリスの化石など)が含まれていたとはいえ、35ポンド(約16kg)におよぶ標本を最期まで手放さずに持ち帰ろうとしていた。
結果からいえば、南極の最深部の気候はスコットの想定を遥かに超えており、1トンの荷物を曳ける大型馬に至ってはデポ(前進基地)を設置する為の南進の段階で次々に喪失しているなど、彼の用意した装備は南極の気候に耐えられるものではなかった(犬ゾリはスコット隊も用いていたが、極めて限定的な補助用途であった)。更に、南極点挑戦チームは4人の予定で資材などを計画していたが、スコット自身の判断でオーツを加え5人にした事が影響を与えたのは否めない(帰路でオーツは全体の遭難に責任を感じ、自らを見捨てるよう嘆願した)。また、結果論ではあるが、主目的はあくまで学術調査であり、輸送手段を失いつつある時点で速やかに撤退を選択していれば遭難の悲劇はなかったが、資金を集める際に南極点一番乗りを大々的なセールスポイントとしていた(そうしなければ資金を集められなかった)スコットには、出資者への体面を考えれば、撤退する事が心理的にできなかったのではないかという見方も多い(同時期に南極点到達を目指した白瀬矗中尉は、南極点到達を断念しているが、その後借金の弁済に追われ、貧窮の中で逝去している)。
スコット隊のルートは約1,500kmと若干長距離であるものの、大部分がシャクルトンなどこれまで数次のイギリス探検隊により踏破済みのルートで、地形やコースコンディションなどはほぼ把握されており、未知の部分は全体の約1割の155kmに過ぎず、リスクは比較的低いと見られていた。一方アムンセン隊が選択したルートは直線距離こそ若干短いものの、約1,150kmの全行程が未踏破であるどころかベースキャンプを設置する上陸地点からしても誰も上陸したことが無かったという文字通り手探り状態からのスタートであった。結果としてアムンセン隊のコースは比較的平坦なコースとなったが、スタート時点ではその事実は判明しておらず、コースの状況如何によっては大回りもしくは探検中止を余儀なくされていた、あるいはスコット隊と同じく何らかのアクシデントにより遭難していた可能性すらあった。このため単純に距離の長短をもってスコット隊が不利だったということはできないという意見もある。
[編集] 関連項目
- アムンゼン・スコット基地
- レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ - スコットの悲劇を題材にした「南極交響曲」の作曲者
- 白瀬矗
[編集] 参考文献
- A・チェリー・ガラード著 『世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊』 朝日新聞社 ISBN 4-02-260744-0 C0126 P1300E
- 本多勝一著 『アムンセンとスコット』教育社 のち 本多勝一集(朝日新聞社)にも収録
[編集] 外部リンク

