チャールズ・バベッジ

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チャールズ・バベッジ

チャールズ・バベッジCharles Babbage1791年12月26日 - 1871年10月18日)はイギリス数学者。分析哲学者、コンピュータ科学者でもあり、世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した。完成しなかった機械はサイエンス・ミュージアムに展示されている。1991年、バベッジの本来の設計に基づいて階差機関が組み立てられ、完全に機能した。これは19世紀当時の技術の精度に合わせて作られており、バベッジのマシンが当時完成していれば動作していたことを証明した。

ケンブリッジ大学在学中に解析数学学会を設立し、ライプニッツ流の微積分学をイギリスに定着させた。

目次

[編集] 生涯

ロンドンに生を受ける。父ベンジャミン・バベッジ(Benjamin Babbage)は裕福な銀行家であったが元は金細工師であった。母はベッツィー・バベッジ(Betsy Plumleigh Babbage)。1808年、一家はテインマスという町に移り、父は近くの St. Michael’s Church の教会委員となった。

父が裕福であったため、小学校時代に複数の家庭教師をつけるなど、熱心な教育を受けさせた。8歳ごろ生命を危うくするほどの発熱を経験し、療養をかねて田舎の学校に通うようになる。両親は学校に「あまり脳に負担をかけないようにしてください」と依頼し、本人は「こんなに暇では馬鹿になるかもしれない」と思ったと後に述べている。デヴォン州トトニスの King Edward VI Grammar School に入れられ、ここですぐに体力を回復すると、再び家庭教師を付けてもらえるようになった。その後30人の生徒を持つアカデミーに参加する。このアカデミーには膨大な蔵書があり、それによって数学に興味を持つようになった。アカデミーを抜けてからさらに二人の家庭教師について学ぶ。一人は聖職者で、バベッジは後に「何も得る物が無かった」と述べている。もう一人はオックスフォードの家庭教師で、ケンブリッジに入学できるだけの古典について学ぶことができた。

1810年10月にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。ここでゴットフリート・ライプニッツジョゼフ=ルイ・ラグランジュトーマス・シンプソンらの著作を読みふけり、ケンブリッジの数学教育のレベルの低さに失望した。その結果としてジョン・ハーシェルジョージ・ピーコックらと共に「解析学会(Analytical Society)」を設立し、英国数学界の改革に乗り出した。

1812年、ケンブリッジ大学のピーターハウス・カレッジに移る。ここで数学者のトップとなったが、卒業することはできなかった。代わりに名誉学位を試験無しで1814年に与えられている。

1814年6月25日、デヴォン州テインマスの St. Michael's Church のジョージアナ・ホイットモア(Georgiana Whitmore)と結婚。バベッジの父はこの結婚を許さなかったものの、妻とロンドンに移り住み幸せに暮らした。8人の子供をもうけたが、成人したのは3人だけだった。両親と一人の子供は1827年に亡くなっている。

[編集] 計算機の設計

数表(三角関数や対数などの関数 f(x) の x を等間隔で変化させて、f(x) の値を表にしたもの。関数電卓のない時代には技術者の必需品であった)の間違いが非常に多いことに気づく。当時、数表は大勢の人間が流れ作業的に単純な計算をすることで作られていた。いわば人間計算機であり、機械にやらせれば間違いがなくなると考えた。この際影響を与えたものとして3つの要因が考えられる。

  1. だらしなさを嫌う性格
  2. 対数表を自ら作成した経験
  3. ウィルヘルム・シッカードブレーズ・パスカルゴットフリート・ライプニッツの先駆的な機械式計算機の存在

計算機関の構想について、1822年ハンフリー・デービーに出した手紙の中で記述している。

[編集] 階差機関

階差機関の一部。バベッジの死後、息子が残っていた部品で組み立てたもの

1822年階差機関(difference engine)と呼ぶ、数表を機械的につくる計算機の構想についての手紙を王立学会に送った。学会はこの構想を評価し、英国政府は1823年に1500ポンドを階差機関製作の資金として提供した。この機械の部品はほとんどがバベッジの設計したもので、全て熟練した技師が手作業で作った。バベッジは製造工程についてよく知るために工業の現状をつぶさに研究した。イタリア滞在時には、ルーカス教授職に任ぜられたことを知り、固辞しようとしたが、友人たちが受けさせたといわれている。なお、階差機関は試作機はできたものの、当初の設計レベルのものは完成しなかった。政府の資金提供も打ち切られ、バベッジは借金を抱えた。

[編集] 解析機関

1830年代、さらに汎用的な解析機関を構想し始めた。これはいかなる数学の関数も計算できる機能を持つものである。これが実現していれば、パンチカードでプログラムを供給する巨大な機械式計算機となっていただろう。その後の人生の大半を解析機関の設計に費やしたが、資金難と性格的な問題(技術的な障害はなかった)により、小さな試作機が完成するに留まった。

[編集] その他の業績

1824年王立天文学会から「数表と天文暦の計算機関の発明に対して」金メダルを授与されている。

ルーカス教授職は1828年から1839年まで務めた。この間にいくつかの科学系学会誌の刊行をしたり、いくつかの学会に援助をしたりしている。

1835年、階差機関の際の工業に関する調査結果をまとめた報告書 On the Economy of Machinery and Manufacturesを刊行し、3000部を売り上げた。これによってバベッジを近代経済学の父と評価するものもいる。マルクスはこれに影響を受け、『資本論』の中で引用している。

暗号解読に関しても業績を残し、ヴィジュネル暗号を解読した。この暗号は当時「解読不可能な暗号」と言われていた。その発見はイギリス陸軍の作戦行動に活用され、数年間その発見は秘密にされた。そのため、暗号解読者の栄誉は数年後に解読に成功したフリードリッヒ・カシスキーに与えられている。

他に1838年に排障器と呼ばれるものを発明している。これは機関車などの前面に取り付ける金属フレームで、進路上の障害物を排除するものである。鉄道に関してもいくつか研究し、たとえば鉄道の軌道幅の標準軌への設定に関与している。そのほか、郵便の国内均一料金の設定に関与している。

また、統計学にも興味を持ち、死亡表も作った。これについて、アルフレッド・テニスンに、彼の「罪の幻」の一部「Every moment dies a man, Every moment one is born. (ひとりの人間が死ぬとき、ひとりの子供が生まれている)」の部分を、「世界の人口は一定になってしまう」として「Every moment dies a man, Every moment 1 1/16 is born.(ひとりの人間が死ぬとき、1と16分の1人の子供が生まれている)」に改訂することを進言しているほどである。

[編集] 関連項目

  • エイダ・ラブレス - 解析機関について著述(正確にはバベッジの講演を本にしたものに膨大な訳注を入れた)とコーディングを行った。

[編集] 参考文献

  • 『誰がどうやってコンピュータを創ったのか』星野力(著)、共立出版(1995年)、ISBN 4320027426
  • 『コンピュータ200年史 -情報マシーン開発物語-』M.キャンベル・ケリー他(著)、山本菊男(訳)、海文堂(1999年)、ISBN 4303714305
  • 『バベッジのコンピュータ』新戸雅章(著)、筑摩書房(1996年)、ISBN 4480041982

[編集] 外部リンク

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