ヘルムート・ヴァイトリング

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ヘルムート・ヴァイトリング
Helmuth Otto Ludwig Weidling
1891年11月2日1955年11月17日
Bundesarchiv Bild 146-1983-028-05, Helmuth Weidling.jpg
生誕 ドイツ帝国領邦プロイセン王国ザクセン州ドイツ語版ハルバーシュタットドイツ語版
死没 ウラジーミルソ連
軍歴 1911年1945年
最終階級 陸軍砲兵大将
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ヘルムート・オットー・ルートヴィヒ・ヴァイトリング(Helmuth Otto Ludwig Weidling, 1891年11月2日 - 1955年11月17日)はドイツ軍人砲兵大将ベルリンの戦いにおける最後のベルリン防衛軍司令官を務めた。

経歴[編集]

ドイツ帝国領邦プロイセン王国ザクセン州ドイツ語版ハルバーシュタットドイツ語版(現:ザクセン=アンハルト州)出身。1911年陸軍に入営、第一次世界大戦を経て、1938年に第56砲兵連隊で大佐に昇進、1939年にポーランド侵攻作戦に参加した。

1940年には第40装甲軍団砲兵部隊の指揮官となり、フランス侵攻戦(黄色作戦)及びバルバロッサ作戦に従軍。

1942年1月1日、第86歩兵師団長に任命、2月1日少将を拝命する。翌年1943年1月1日には中将となった。1943年10月20日第41装甲軍団の司令官。1944年1月1日砲兵大将に昇進した。

1945年4月10日に陸軍総司令部の指揮官予備部に異動、翌々日に第56装甲軍団の指揮を執る。この頃は既にドイツ東部の状況は悲観的で、圧倒的なソ連軍から退却を余儀なくされた。1945年4月22日、指揮所が刻々と後退することをもって陣地死守の命令に反するとして抗命罪の汚名を着せられ、銃殺刑を宣告されるが、ヒトラーに直接現状を説くことでその危機を脱し、しかも翌日にはベルリン防衛軍司令官に任ぜられ、隷下の5個師団の残余をそれぞれ、第9降下猟兵師団をフリードリヒ通り駅付近、第11SS義勇装甲擲弾兵師団アンハルト駅ドイツ語版付近、第18装甲擲弾兵師団をグルーネヴァルトドイツ語版付近、装甲師団ミュンヘベルクをヴィルマースドルフドイツ語版付近に、第20装甲擲弾兵師団をヴァンゼードイツ語版ポツダム方面というようにベルリン市街の各所に配備した。

しかし、数で圧倒的に勝るソ連軍に対しドイツ軍は書類上の師団ばかりか、十代そこそこの少年から第一次大戦を経験したというだけで狩り出された老人で編成された国民突撃隊ナチス親衛隊外国人部隊といったその場しのぎの戦力しか存在せず、戦局は絶望的だった。しかし堅実な防御陣を敷いた国防軍を中心に戦闘はソ連軍の予想よりも長く続くこととなった。 なお、この際アドルフ=ヒトラー=シューレなど少年部の教育指導者達から少年の積極的参加を求める声が寄せられたが、強く拒んでいる。

5月2日午前6時30分にソ連第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ大将に降伏を申し入れ、防衛軍各部隊は同日午後3時に銃を置いた。

終戦後、ソビエト連邦に抑留され、GPUの尋問を受ける。1952年2月27日にモスクワの軍事裁判所で懲役25年の判決を受け、3年後の1955年11月17日ウラジーミルKGBの収容所にて死去。KGBの文書には、死因は「動脈硬化に伴う循環器疾患」と記録されている。

叙勲[編集]

  • 騎士鉄十字章:1943年1月15日
  • 柏葉付騎士鉄十字章:1944年2月22日
  • 柏葉剣付騎士鉄十字章:1944年11月28日

ヘルムート・ヴァイトリングが登場する作品[編集]

書籍[編集]

映画[編集]