第22SS義勇騎兵師団
| 第22SS義勇騎兵師団 | |
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第22SS義勇騎兵師団
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| 創設 | 1944年4月 |
| 廃止 | 1945年2月 |
| 所属政体 | ナチス・ドイツ |
| 所属組織 | 武装親衛隊 |
| 部隊編制単位 | 師団 |
| 兵種/任務/特性 | 騎兵 |
| 主な戦歴 | 第二次世界大戦 |
第22SS義勇騎兵師団(22.SS-Freiwilligen-Kavallerie-Division)は、ナチスの武装親衛隊に所属する師団の一つ。
第8SS騎兵師団フローリアン・ガイエルから抽出した1個連隊の要員を基幹とし、これに徴募したドイツ系ハンガリー人を加えて定数を満たした。「女帝」マリア・テレジアに由来する部隊名「マリア・テレジア」は俗称であり、正式名称ではないとされる。しかし部隊章はマリア・テレジアのお気に入りの矢車草からである。
ハンガリーでの編制・訓練を経てルーマニアでの戦闘の他、オットー・スコルツェニーが活躍したパンツァーファウスト作戦(Operation Panzerfaust)にも参加。赤軍がハンガリーに迫るとブダペストを防衛する第9SS山岳軍団に編入され、1944年12月にブダペストでソ連軍に包囲されて、激しい市街戦の末、1945年2月に壊滅した。
師団創設とルーマニアでの戦闘 [編集]
1944年4月29日、新しいSS騎兵師団創設の骨格として、第8SS騎兵師団フロリアン・ガイエルより第17騎兵連隊を抽出し、ハンガリー国内で編成を開始した。師団の中核はフロリアン・ガイエルからのベテランで構成されたが、大部分は地元で徴募されたドイツ系ハンガリー人で編成される。
8月前半、OKHの命令により、師団の第52義勇騎兵連隊がルーマニア戦線に列車に送られた。第17義勇騎兵連隊は残りの部隊を訓練するためにハンガリーに残留した。 第52義勇騎兵連隊はヴィーデマン戦闘団として独立して戦闘が行えるよう火砲などの装備が増強された上でルーマニアのアラドまで輸送され、デブレツェン周辺に展開する第3装甲軍団の麾下に入る。9月30日、アラド市周辺の防衛線に進出したが、同日、ヴィーデマン戦闘団長が戦死。10月2日、マリノフスキーのソ連第2ウクライナ戦線正面軍の先鋒はアラド市に向けて威力索敵を開始。指揮を引き継いだアーマイザーは数度の攻撃を撃退することに成功した。しかし10月6日、ソ連第2ウクライナ戦線正面軍はいよいよデブレツェンに対し総攻撃を開始した。 ソ連軍の圧倒的な兵力により、アーマイザー戦闘団は完全に包囲された。続いて10月8日には、ソ連軍は包囲した戦闘団を大規模な装甲部隊による襲撃で2つに分断した。10月9日、分断された一方のグループは、苦闘の末、Harmas川を泳ぎ渡り、友軍戦線に合流した。もう一方の戦闘団長本人を含む戦闘団残余は、重装備を放棄して突破を試みた。 3週間、アーマイザーが陣頭指揮を取り、敵陣後方200マイルを突破して、10月30日、アーマイザー自身を含む48人の生存者がブダペストの南のドナフェルドバールの町で独軍戦線にたどり着いた。 この行動により、1944年11月1日、彼はは騎士十字章を授与された。
パンツァーファウスト作戦 [編集]
さかのぼって、1944年10月中旬、ハンガリーの親ドイツ派より、ハンガリー摂政ミクローシュ・ホルティとソ連による、ハンガリー降伏に関する秘密交渉の情報がもたらされた。 ヒトラーはこの問題の対処をオットー・スコルツェニー(Otto Skorzeny)に命じる。スコルツェニーは師団のすべての行動可能な部隊をパンツァーファウスト作戦(Operation Panzerfaust)に徴用した。
作戦は10月15日06:00に開始。まず2両のティーガーIIに先導された独軍車列がブダペストの中心部にあるブダの丘の城塞を攻撃、占拠し、同時に行われたミッキーマウス作戦でホルティの末息子ニコラスを拘留した。これによりホルティは特別列車で「賓客」としてドイツに送られ、そのまま摂政を退位することとなり、ハンガリーは親ドイツ派の矢十字党が支配するところとなった。
ブダペスト防衛戦 [編集]
Kisber近郊で最終訓練を終了した同師団の部隊は、ハンガリーの首都、ブダペストの防衛に配備されている第9SS山岳軍団に編入された。 師団がブダペスト市内で配置についた11月初旬、ソ連の第3ウクライナ方面軍はドイツ第23、24装甲師団を蹴散らし、ブダペスト南部でドナウ川渡河に成功する。一方、第2ウクライナ方面軍もブダペスト北方から迫り、12月25日には第9SS山岳軍団(第8SS騎兵師団、第22SS義勇騎兵師団、第23装甲師団、フェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団など)のドイツ軍50,000人、ハンガリー軍30,000人、市民800,000人以上と伴にブダペストは完全に包囲された。
一方、ドイツ軍もポーランドから密かに引き抜いた第4SS装甲軍団を主力とした救出作戦を1945年1月1日未明に発動させる。(コンラート作戦) 救出作戦が進行する中、ブダペスト市内では苛烈な戦闘が継続していた。ソ連軍は4個師団以上の砲兵師団の他に多くのロケット砲旅団、迫撃砲旅団を送り込み市内をたたきまくった。攻撃はまずペスト側(ドナウ川東岸側)に集中。守備側も粘り強く戦い続けたが、1月18日にはペストを放棄。ブダペスト南方からの突破に作戦をシフトした救出部隊はドナウ川まで到達したが薄い側面の防備とソ連軍の抵抗の増大で突破の限界に達した。救出部隊からの再三の自力脱出要請にもかかわらず、第9SS山岳軍団長ペッファー・ヴィルデンブルッフは総統の死守命令に盲従し続けた。
1月27日、ソ連軍は救出部隊の薄い側面の防備に攻撃を開始したため、ついに救出部隊はバラトン湖までの撤退を決意。以後、ブダ包囲網は激しい戦闘が継続される中、徐々に縮められ、多くは降伏することとなった。
2月13日、総統から正式の脱出許可が降りたが、時すでに遅く、脱出を試みた2000名の内、友軍戦線にたどり着いたのは700名余り、マリア・テレジアで脱出に成功したのは170名余りであった。2月14日、ブダペストは陥落し、師団は壊滅した。
なお、第32SS義勇擲弾兵師団に派遣されていて、ブダペスト防衛に参加していなかったマリア・テレジアの高射砲部隊等の人員は、第37SS義勇騎兵師団の編成に組み入れられた。
【1945年1月現在のブダペスト防衛戦における戦闘序列】 第22SS義勇騎兵師団司令部 第52SS騎兵連隊 第53SS騎兵連隊 第54SS騎兵連隊 第17SS騎兵連隊 第22SS砲兵連隊 第22SS機甲偵察大隊 第22SS戦車猟兵大隊 第22SS工兵大隊 第22SS通信大隊 第22SS師団補給隊 第22SS管理大隊 第22SS衛生大隊