アラド (ルーマニア)

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アラド
Arad
市庁舎
市庁舎
アラドの市旗 アラドの市章
市旗 市章
位置
アラドの位置の位置図
アラドの位置
座標 : 北緯46度10分 東経21度19分 / 北緯46.167度 東経21.317度 / 46.167; 21.317
歴史
文献登場 1028年
行政
ルーマニアの旗 ルーマニア
  アラド県
 市 アラド
市長 Gheorghe Falcă
地理
面積  
  市域 46.18 km2
標高 116.5 m
人口
人口 (2007年7月現在)
  市域 167,238人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
公式ウェブサイト : http://www.primariaarad.ro/

アラドルーマニア語Arad/a'rad/ハンガリー語Aradセルビア語Арад, Arad)は、ルーマニア西部アラド県の都市。県都でもある。ムレシュ川に面する。重要な産業中心地であり、交通の要所であり、ルーマニア正教会の主教座が置かれている。

統計[編集]

2006年の調査によると、アラドは191,473人の人口があった。ルーマニア人83.66%、ハンガリー人11.94%、ロマ人1.66%、ドイツ人1.52%である。

宗教別で最大の信徒を抱えるのは正教会の72.7%で、次いでカトリック13.1%、バプテスト教会4.5%、ペンテコステ派4.4%、改革派教会3.1%、東方典礼カトリック教会1.1%である。

歴史[編集]

アラドは11世紀の記録に初めて登場する。1241年にハンガリー王国モンゴル人侵攻を受けると、防御用要塞が必要とされ、13世紀の半ばにはソイモス、シリア、デズナにおいて石造要塞が建設された。オスマン帝国が1551年にハンガリーからこの地域の支配権を奪い、1699年のカルロヴィッツ条約まで統治した。1699年以後、アラドはハプスブルク家に支配された。1720年のデータによると、市人口はドイツ人世帯177、セルビア人世帯162、ハンガリー人世帯35から構成されていた。

1763年から1783年にかけ、新たな要塞が建てられた。これらの要塞の小ささから、1848年革命(独立戦争とも)の闘争でハンガリー人が並はずれた大きな役割を担ったことを証明している。市内には、独立戦争の記念物からなる美術館がある。

オーストリア帝国軍の将軍ベルガーによって1849年7月終わりまで勇敢に守られたが、アラドはハンガリー反乱側が獲得した。反乱側は革命の後半に本部をアラドに置いた。革命家コシュート・ラヨシュが有名なハンガリー独立を宣言した地は(1849年8月11日)、アラドであった。彼はここで軍の最高位と権力とをギェルゲイ・アルツール(Görgei Artúr)に譲り渡した。

要塞は、シリアでギェルゲイがロシアに降伏したすぐ後にオーストリアが再征服した。今は武器庫として使われている。

オーストリアの将軍ハイナウの命令により、13人の反乱側将軍が1849年10月6日にアラドで処刑された。彼らは『アラドの13犠牲者』として集団で知られ、その時からアラドはハンガリー人にとってのゴルゴタの丘とみなされるようになった。アラド市内の広場の一つは、13犠牲者を記念する像が建っている。

アラドは大きな経済発展を続けた。1834年には、オーストリア皇帝フランツ1世によって帝国自由都市にされている。

アラドゥル・ノウ(ルーマニア語:Aradul Nou / ハンガリー語:Újarad、新アラド)は、アラドの郊外であるムレシュ川の対岸にあり、橋でつながっている。17世紀の対トルコ戦争の最中にアラドゥ・ノウは建てられた。アラドの要塞がトルコによって陥落した後、新たな定住地の核としてできたものである。現在は、アラド市内の一区画となっている。

1910年、アラドは63,166人の人口を抱えていた。73%がハンガリー人、16.2%がルーマニア人、7%がドイツ人であった [1]

年代記録[編集]

経済[編集]

豊富な産業と商業の伝統を持つことから、アラドはルーマニアで最も繁栄する都市の一つである。多くの投資がされ、アラドは経済ブームに湧いている。

衣類・織物製造業、食品製造業、家具製造、自動車部品など製造業が盛んである。

街区[編集]

チェントル(Centru), ミカラカ(Micălaca), シェガ(Şega) アラドゥル・ノウ(Aradul Nou), ポルトゥラ(Poltura), グラディシュテ(Grădişte), ガイ(Gai), ブジャク(Bujac), スブチェターテ(Subcetate), ドラガシャニ(Drăgăşani), アルファ(Alfa), プルネァーヴァ(Pârneava), スンニコラウル・ミク(Sânnicolaul Mic), カダシュ(Cadaş), アウレル・ヴライク(Aurel Vlaicu),

交通[編集]

アラドはヨーロッパ横断道の最重要地点であり、ルーマニア西部における鉄道輸送の接合点である。アラドのダウンタウンから4キロ離れた場所にあるアラド国際空港には、貨物ターミナルがある。

観光[編集]

歴史的建造物[編集]

イオアン・スラヴィチ古典劇場
  • アラドの要塞都市 - 18世紀半ばに建てられたヴォーバン式要塞。かつては刑務所として使われたこともある
  • 行政官官邸 - 1874年完成。ルネサンス様式建築 
  • イオアン・スラヴィチ古典劇場(Ioan Slavici Classical Theatre) - 1874年建設。新古典主義建築 
  • ノイマン邸 - 1891年建設。折衷主義 
  • セナド邸 - 1894年建設。折衷主義と新古典主義建築 
  • 国立銀行 - 1906年建設。新古典主義建築 
  • ボフシュ邸(Bohuş Palace) - 1910年建設。ウィーン分離派。アラド初の鉄筋コンクリート建築。
  • サンタイ邸(Szantay Palace) - 1911年建設。ウィーン分離派 
  • 文化宮殿 - 1913年建設。新古典主義建築、ゴシック建築、ルネサンス建築、ギリシア建築 
  • クロシュチャ通り(Cloşca Street) - ウィーン分離派
  • 高等教師訓練校(Clădirea Preparandiei) - トランシルバニア出身のルーマニア語教師の学校として初めて建てられた 
  • 旧劇場 - 1817年建設。ルーマニア最古の石造劇場 

記念像[編集]

  • 聖ネポムクのヨハネ像 - 1729年建立。バロック様式
  • 三位一体像 - 1738年から1740年の間アラドで流行したペストを記念する
ルーテル会派教会

宗教建築[編集]

  • 聖ペータル・聖パヴレ教会 - セルビア正教会の教会。初期バロック建築 
  • 聖シメオン修道院 - 18世紀建設。バロック建築 
  • 聖パドヴァのアントン教会 - カトリックの教会。1904年完成。ルネサンス建築 
  • 洗礼者ヨハネ聖堂 - 1865年に完成したカトリック教会。バロック様式 
聖パドヴァのアントン教会

教育[編集]

  • ヴァシレ・ゴルディシュ大学(Vasile Goldiş) - 1990年創立の私立大学
  • アウレル・ヴライク大学(Aurel Vlaicu) - 1991年創立の公立大学


アラド市庁舎前広場

姉妹・友好都市[編集]

姉妹都市[編集]

友好都市[編集]

スポーツ[編集]

  • UT Arad - 1946年創設のプロ・サッカークラブ。過去6度のルーマニア・チャンピオンに輝く

脚注[編集]

  1. ^ Atlas and Gazetteer of Historic Hungary 1914, Talma Kiadó

参照[編集]

外部リンク[編集]