レッジョ・エミリア

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レッジョ・ネッレミリア
Reggio nell'Emilia
レッジョ・ネッレミリアの風景
行政
イタリア国旗 イタリア
Regione-Emilia-Romagna-Stemma.svg エミリア=ロマーニャ
Blank.png レッジョ・エミリア
CAP(郵便番号) 42100
市外局番 0522
ISTATコード 035033
識別コード H223
分離集落 #行政区画を参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 162,570 [1](2012-01-01)
人口密度 702.1 人/km2
文化
住民の呼称 reggiani
守護聖人 San Prospero vescovo
祝祭日 11月24日
地理
座標 北緯44度42分0秒 東経10度38分0秒 / 北緯44.70000度 東経10.63333度 / 44.70000; 10.63333座標: 北緯44度42分0秒 東経10度38分0秒 / 北緯44.70000度 東経10.63333度 / 44.70000; 10.63333
標高 58 (29 - 135) [2] m
面積 231.56 [3] km2
レッジョ・エミリアの位置
レッジョ・ネッレミリアの位置
レッジョ・エミリア県におけるコムーネの領域
レッジョ・エミリア県におけるコムーネの領域
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レッジョ・エミリアイタリア語: Reggio Emilia)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約16万人の基礎自治体コムーネ)。レッジョ・エミリア県の県都である。より正式にはレッジョ・ネッレミリアReggio nell'Emilia  ( 聞く))と記される。

名称[編集]

古代ローマ時代に建設されたこの都市は、当初はレギウム・レピディ(Regium Lepidi)と呼ばれた。これが単にレギウムと呼ばれるようになり、転じてレッジョという地名になった。

住民たちは単に「レッジョ」と呼ぶが、カラブリア州の同名の都市 レッジョ・ディ・カラブリアReggio di Calabria)と区別するため、「エミリア地方英語版のレッジョ」を意味するレッジョ・ネッレミリアが正式名称である。中世の地図では、レッジョ・ディ・ロンバルディア(Reggio di Lombardia)と書かれたものもある。

なお、同じ「レッジョ」の名を持つ2つの都市であるが、イタリア語では形容詞形が異なっており、「レッジョ・ネッレミリアの」はレッジャーノ/レッジャーナ(Reggiano/Reggiana)、「レッジョ・ディ・カラブリアの」はレッジーノ/レッジーナ(Reggino/Reggina)と区別されている。

本項では、レッジョという名称で統一する。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

県域の中央やや北寄りに位置するコムーネ。レッジョの市街は、モデナから西北西へ24km、パルマから東南東へ27km、マントヴァから西南西へ53km、州都ボローニャから西北西へ61km、首都ローマから北北西へ347kmの距離にある。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。

おもな市街・集落[編集]

レッジョ旧市街は、古い城壁に囲まれたことから6角形のかたちをしており、多くの建物は16世紀、17世紀からあるものばかりである。コムーネの区域は全体的に平野の上にあり、クロストーロ川が横切る。

歴史[編集]

古代から中世初期[編集]

古代ローマ時代、レッジョはコンスルのマルクス・アエミリウス・レピドゥスピアチェンツァからリミニへ伸びるエミリア街道の建設を監督した人物)によって建設が始められた歴史ある地である。レッジョは司法行政の中心となり、最初はレギウム・レピディ(Regium Lepidi)と呼ばれ、その後単にレギウムと呼ばれた、ローマのフォルム(forum、集会所)であった。

ローマ時代のレギウムは、セクストゥス・ポンペイウス・フェストゥスキケロらにだけ、エミリア街道の駐屯地の一つとして言及された。しかし、レギウムは繁栄した都市で、特権、司法権、芸術コレギアを持つムニキピウムであった。

1世紀、ラヴェンナのアポリナリスがキリスト教をレッジョへもたらした。313年のミラノ勅令後、レッジョに司教座の存在があったことが立証されている。440年、レッジョ司教座は西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世によってラヴェンナへ従属させられた。4世紀終盤、レッジョは聖アンブロジウスが荒廃した都市に含めるほどに荒れ果てていた。蛮族の侵入で荒廃はさらに増した。476年の西ローマ滅亡で、オドアケルの支配下に入った。489年、さらに東ゴート王国に支配された。後539年には東ローマ帝国ラヴェンナ総督領に属すが、569年にアルボイン率いるロンゴバルド王国に征服された。レッジョにはレッジョ公国が置かれた。

773年、フランク王国がレッジョを属国とし、カール大帝は市を治める宗主権を司教へ与え、781年には司教座管内が成立した。888年、レッジョは中世イタリア王国に譲渡された。889年、マジャル人が市に大きなダメージを与え、司教アッツォ2世を殺害した。これをきっかけに新城壁が建てられた。900年10月31日、イタリア王ロドヴィコ3世はレッジョの中心地にカストルム(castrum、城)を建てる許可を与えた。

1002年、レッジョ領は、パルマブレシアモデナマントヴァフェッラーラの各領同様に、トスカーナ辺境伯領に併合された。のちにこれをカノッサ女伯マティルデが獲得した。

ガリバルディ通りとギアラ聖堂

コムーネ[編集]

11世紀終盤か12世紀初頭にレッジョは自由コムーネとなった。1167年、レッジョはロンバルディア同盟の一員となり、レニャーノの戦いに参加した。1183年、市はコンスタンツ条約に署名し、市のコンスルであるローランド・デッラ・カリタが皇室の称号を授与された。それに伴う平和は繁栄の時代に拍車をかけた。レッジョは新たな法令を採用し、独自の硬貨を持ち、有名な講師のいる学校を持ち、貿易と芸術を発展させた。近郊の土地の城を次第に服従させていった。

ドゥオモ広場にあるデルモンテ宮殿、クロストーロ川の噴水

12世紀と13世紀は、スコピアッツァティ家とマッツァペリーニ家の対立、後にはルッジェリ家とマラグッツィ家の対立で、街頭で対立に直面する、内部抗争で苦悩する時代であった。1152年、レッジョはパルマと戦闘状態となり、1225年にはモデナと戦争した。これらはイタリアでのゲルフとギベリンの戦いの過程であった。1260年、25,000人の悔悟者が、ペルージャの隠者に率いられてレッジョへ入った。この事件はしばらく状況を平穏にし、信仰熱の大きな繁栄を刺激した。しかしすぐ再度議論が蘇り、1265年にはギベリン(皇帝派)がゲルフ(教皇派)の首領カコ・ダ・レッジョを殺害し、市で優勢となった。反司教抗争が続き、2つの新たな派閥インフェリオーリとスペリオーリがつくられた。最終的に勝ったのはスペリオーリであった。

そういった相次ぐ戦争の中で、1175年にはヨーロッパで最古の大学の一つ、モデナ・レッジョ・エミリア大学が創立されている(教皇領への併合の後に閉鎖)。

セッシ家、フォリアーニ家、カノッサ家といった強力な名家の悪用の裏をかき、レッジョの行政長官は市の統治権を3年間エステ家オビッツォ・デステへ与えた。この選択は、将来レッジョがエステ家のシニョリーア制のもとに置かれる布石となり、オビッツォは委任統治の期限が終了した後事実上の支配を続けた。オビッツォの子アッツォは、1306年にレッジョ市民によって追放され、800人の一般市民によって治められる共和国がつくられた。1310年、皇帝ハインリヒ7世は代理人としてスピネット・マラテスタ侯を押しつけたが、彼はすぐに追放された。共和国は、枢機卿ベルトランド・デル・ポッジェットがレッジョを教皇領へ併合したことから1326年に消滅した。

市はその結果としてヨハン・フォン・ルクセンブルクの宗主権下へ下り、彼はレッジョをニッコロ・フォリアーニとマルティーノ・デッラ・スカラ、1336年にルイージ・ゴンザーガへ与えた。ゴンザーガはサン・ナザーリオ地区にシタデルを建て、144棟の住宅を破壊した。1356年、ミラノヴィスコンティ家が2000人の亡命レッジョ市民の支援を受け、レッジョを占領した。ゴンザーガ家とヴィスコンティ家が勢力を争う混迷の時代が始まった。最後にゴンザーガ家は、レッジョをヴィスコンティ家に5000ダカットで売り渡した。1405年、パルマのオットボーノ・テルツィがレッジョを攻略したがミケーレ・アッテンドーロに殺害された。アッテンドーロは、レッジョをニコロ3世・デステへ譲渡し、ニコロがレッジョのシニョーレとなった。市はそれでも適切な自治権を保ち、法と独自の硬貨を持っていた。ニコロのあとを庶子リオネッロ・デステが継ぎ、1450年にボルソ・デステが継承した。

レッジョ公国[編集]

1452年、ボルソが神聖ローマ皇帝フェルディナント3世からレッジョ・モデナ公の称号を獲得した。ボルソの後継者、エルコレ1世・デステは市に過酷な手形を課し、詩人マッテオ・マリア・ボイアルドを知事に任命した。のちに有名なイタリア人作家フランチェスコ・グイッチャルディーニが知事に任命された。1474年、偉大な詩人ルドヴィーコ・アリオストが郊外で誕生した。

1513年、レッジョは教皇ユリウス2世へ譲渡された。1523年9月29日に教皇ハドリアヌス6世が死去した後、レッジョはエステ家の元へ戻った。1551年、エルコレ2世・デステは、城壁の再建計画にそって市の郊外を壊した。16世紀終わり頃、有名な市のベアタ・ヴェルジーネ・デッラ・ギアラ聖堂建設が、奇跡が起きたとされる場所で始まった。

バロック様式のサン・ジョルジョ教会
コムナーレ宮殿のトリコローレの間。三色のイタリア国旗が初めて採用された場所でもある
守護聖人の聖堂のあるサン・プロスペロ広場
ヴィッラ・レヴィ。ボローニャ大学の分校が入る
市内のエミリア街道

エステ家支配は1796年まで続いた(1702年、1733年から1734年の間の短期の中断を挟む)。

ナポレオン時代とリソルジメント[編集]

フランス第一帝政の時代、フランス軍が市で熱狂を持って迎えられた。1796年8月21日、600名を擁した公家の駐屯地が取り払われ、議会がレッジョと公国の支配を要求した。9月26日、州政府の義勇軍がモンテキアルゴーロの戦いでオーストリア軍の隊列を押し戻した。小規模でも、この衝突はイタリアのリソルジメントの最初のものとみなされている。ナポレオン・ボナパルト自身がレッジョ市民へ500丁のライフル銃と4つの銃を授けた。後、彼はエミリアを占領し、1797年1月7日にレッジョで建国されていたチスパダーナ共和国の新設県とした。イタリアの国旗はイル・トリコローレ(Il Tricolore)と名付けられ、レッジョの女性たちによって縫われた。この愛国的な熱狂の時代、ナポレオンの同盟者であった将軍ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ率いるポーランド軍の中尉ユゼフ・ヴィビツキは、レッジョで『ドンブロフスキのマズルカ』(1927年にポーランド国歌に制定された)を作曲した。

1815年、ウィーン会議でレッジョはフランチェスコ4世へ返還された。1831年、モデナはフランチェスコ4世に対して反乱を起こし、レッジョは司令官カルロ・ズッキのもとで組織された団体がこれに続いた。しかし、3月9日にフランチェスコ4世はオーストリア軍兵士の支援を受けて市を征服した。

1848年、フランチェスコ5世・デステは革命を恐れて国外へ去った。レッジョはピエモンテへの併合を宣言した。サルデーニャ王国ノヴァーラの戦いen)での敗退が、市をエステ家支配へ引き戻した。1859年、独裁者ルイージ・カルロ・ファリーニ支配下にあったレッジョは、1860年3月10日の国民投票の結果新王国への併合が支持され、再度イタリア王国へ併合された。

近代から現代へ[編集]

レッジョは1873年から経済成長と人口増加が進み、古い城壁を壊した。1911年には人口が約7万人いた。強力な社会主義の伝統が育った。後のファシスト政権下では、これらの伝統と傾向からレッジョ市民は抑圧の対照となった。1943年7月26日、ファシスト政権の崩壊はレッジョ市民の熱狂を鼓舞した。数多くのイタリア・レジスタンス集団パルチザン)が、市の田園地帯で結成されていた。

行政[編集]

行政区画[編集]

分離集落[編集]

Bagno, Botteghino di Sesso, Cadè-Gaida, Case Bigi, Case Manzotti-Scolari, Case Pirondi, Case Vecchie, Caseificio Laguito, Castel Baldo, Castellazzo, Castello di Pratofontana, Castello di Vialato, Chiesa di Bagno, Codemondo, Corticella, Fogliano, Gavasseto, Ghiarda, Ghiardello, Guittone d'Arezzo, Il Cantone di Marmirolo, Il Cantone di Pieve Modolena, Il Capriolo, Il Castello di Cadè, Il Chionso, La Corte, La Giarola, La Valle, Madonna Caraffa, Marmirolo, Massenzatico, Mulino Canali, Palazzina, Parrocchia di Cella, Piazza di Sabbione, Quaresimo, Roncadella, Roncocesi, Sabbione, San Bartolomeo, San Felice, San Giorgio, San Rigo, Stazione Pratofontana, Villa Corbelli, Villa Curta, Zimella


社会[編集]

経済・産業[編集]

エミリア=ロマーニャ地方は、「宝の島」とも呼ばれるくらい農産、畜産品の豊かな地方で、特にレッジョはパルミジャーノ・レッジャーノ・チーズの産地として有名で、レッジャーノとはこの「レッジョの」という意味である。

教育[編集]

モデナ・レッジョ・エミリア大学ボローニャ大学の校舎がある。またレッジョは、町をあげての芸術教育と幼児教育で、欧米および日本でも注目されている。教育実践を紹介する書籍やビデオも多数製作されている。

みどころ[編集]

宗教史跡[編集]

  • ベアタ・ヴェルジーネ・デッラ・ギアラ聖堂(Tempio della Beata Vergine della Ghiara) - 市内で最も重要とされる教会。バロック様式。1619年完成。
  • サン・プロスペロ聖堂(Basilica di San Prospero) - 10世紀に建設され、市の司教であったレッジョのプロスペロへ献堂された。1514年から1523年にかけ、ルカ・コルティとマッテオ・フィオレンティーニによって再建された。ファサードにある聖人と守護聖人の11体の彫像は、18世紀半ばにジョヴァン・バッティスタ・カッターニによって再デザインされている。内部はラテン十字型で、本堂が3つある。アプスは、ボローニャ派の画家カミッロ・プロカッチーニが描いた壮麗な最期の審判を描いたフレスコ画を所蔵する。
  • ドゥオモ(Duomo di Reggio Emilia) - 9世紀から12世紀。16世紀半ばに再建された。グエルチーノパルマ・ジョヴァーネプロスペロ・スパーニアレッサンドロ・ティアリーニの仕事による3つの本堂がある。
  • サンタゴスティーノ教会(Chiesa di Sant'Agostino) - かつては聖ラヴェンナのアポリナリスに献堂されていたが、1268年に再建された時にアウグスチノ会の修道院を併合したことで名前を変えた。1452年に修繕され、塔が拡大された。現在の内部は1645年から1666年からのもので、1746年にファサードが加えられた。
  • サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会(Chiesa di San Giovanni Evangelista) - 13世紀。シスト・バダロッキオ、ロレンツォ・フランキ、トンマーゾ・サンドリーニ、パオロ・グイドッティのバロック絵画を所蔵。
  • サン・ピエトロ教会(Chiesa di San Pietro) - ジューリオ・デッラ・トーレ設計で1625年から1629年に建てられた。鐘楼は1765年、ファサードは1782年に加えられた。内部は本堂が1つのラテン十字型である。ティアリーニ、ピエトロ・デサーニ、ルカ・フェッラーリ、カミッロ・ガヴァゼッティ、パオロ・エミリオ・ベセンツィのバロック絵画を所蔵。
  • サント・ステファーノ教会(Chiesa di Santo Stefano) - 11世紀。かつてはテンプル騎士団の所有であった。
  • シナゴーグ(Sinagoga di Reggio Emilia) - 1856年建設。

宮殿・邸宅[編集]

  • カピターノ・デル・ポポロ宮殿(Palazzo del Capitano del Popolo) - 1280年建設、1432年改修。ディフェンソーリの間はかつてレッジョ市民の議会開場となっていた。
  • カッソーリ=ティレッリ邸(Palazzo Cassoli - Tirelli) - 1915年建設。
  • 公爵宮殿(Palazzo Ducale) - 18世紀。ギアラ聖堂の前にある。
  • パラッツォ・コムナーレ(Palazzo Comunale) - 1414年建設開始。トリコローレの間とイタリア国旗博物館がある。付属のボルデッロ塔は1489年に建てられた。
  • ティレッリ邸(Palazzo Tirelli) - 17世紀にガッビ侯の住居として建てられた。19世紀に貴族のティレッリ家が購入した。現在はロータリー・クラブの事務所が入っている。
  • ムニキパーレ劇場(Teatro Municipale) - 1857年完成。オペラやコンサート会場となる。

スポーツ[編集]

交通[編集]

高速道はアウストラーダ・デル・ソーレを利用する。鉄道は、RFIが運営するミラノ=ボローニャ線が通る。

人物[編集]

著名な出身者[編集]

ゆかりの人物[編集]

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • キャロリン・エドワーズ/レーラ・ガンディーニ『子どもたちの100の言葉 レッジョ・エミリアの幼児教育』世織書房 2001年
  • レッジョ・エミリア市乳児保育所と幼児学校 『子どもたちの100の言葉 イタリア/レッジョ・エミリア市の幼児教育実践記録 』 学習研究社 2001年
  • ジョアンナ・ヘンドリック 『レッジョ・エミリア保育実践入門 保育者はいま、何を求められているか』北大路書房 2000年
  • 佐藤学(監修)・ワタリウム美術館(編) 『驚くべき学びの世界 レッジョ・エミリアの幼児教育』 ACCESS 2011年

関連項目[編集]